井伏鱒二は
太宰治(1909-1948)とも関係があった。
太宰は 井伏の小説「山椒魚」等から
影響を受け尊敬していた。
上京後すぐ井伏のもとを
訪れ 弟子入りしている。
以後 井伏の指導で文学に精進し
檀一雄や中原中也らと
同人雑誌を創刊
「思い出」を始めとして
執筆活動を開始する。
同年秋 太宰の薬物依存が
あまりに深刻な為
心配した井伏らは
太宰を武蔵野病院の
精神病病棟に入院させた。
一カ月後 完治して退院するが
太宰は「自分は人間とは
思われていないのだ、
自分は人間を失格して
しまっているのだ」と
深く傷つくが この体験が
後の「人間失格」となる。
また妻初代から入院中に
不倫の告白を受け
心中未遂事件まで起こしている。
1938(昭和13)年
井伏は 滞在先の山梨県御坂峠に
太宰を招いた。
この結果 太宰は徐々に
精神は安定していった。
この御坂峠での文学者、
生活者としての再生を
目指した日々が代表作の一つ
「富嶽百景」(1939年刊)につながる。
井伏が紹介した高校教師・
石原美知子と見合いし婚約
1939(昭和14)年1月
井伏の自宅で結婚式を挙げた。
その後 太宰は
東京・三鷹に転居し 死ぬまで住む。
この時ことを
井伏は「太宰治」(1989年刊)で
「この前の不手際は、私としても
平気で行ったことでは、ございませぬ。
私は、あのときの苦しみ以来、多少、
人生というものを知りました。
結婚というものの本義を知りました。
結婚は、家庭は、努力であると思います。
厳粛な、努力であると信じます。
ふたたび私が、
破婚を繰りかえしたときには、
私を完全の狂人として、
棄てて下さい。」
と書いている。
この手紙は 太宰の生家にも送られ
結婚がうまくまとまった。
この結婚後も
太宰の女性関係は 絶えなかったが
美知子との結婚生活は
生涯にわたって続き
一男 二女をもうけた。
しかし 1948(昭和23)年6月
愛人と入水自殺してしまった。
「美知様 お前を誰よりも
愛していました。
・・・みんな、いやしい欲張りばかり。
井伏さんは悪人です。」
と遺書を残している。
井伏は 太宰とは
22歳の差があるが
太宰の才能と人柄を見抜き
公私に渡り 時には親として
師匠として 面倒見ていたのに
最後の言葉は 何でしょう!
井伏(左)と太宰 (Web資料)
1940年4月・群馬県四万温泉にて
それこそ裸の付き合い!
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