ここで 井伏鱒二は
以前触れた林芙美子と
関わりがあつた。
1931(昭和6)年4月
林芙美子の誘いを
受けて尾道で講演会に参加し
その翌日 因島に渡り
土井医院を訪れている。
(当時 井伏 43歳 林 27歳)
井伏が かつて早稲田大学を
休学して憂悶の日々を送った折に
当地で下宿を提供してくれた
土井医院の長男が
病死したための墓参であった。
また 後に井伏の有名な
唐詩選の于武陵「勧酒」を
和訳する際「人生足別離」を
「サヨナラダケガ人生ダ」
としたのは この時
因島を離れる船上で
林芙美子が
「人生は左様ならだけね」と
言った言葉にあったという。
しかし 林芙美子が
他人様の墓参に
因島まで行ったのか?
林の年譜1923(大正12)年
20歳の項には
「大学を卒業して郷里の因島に
帰った岡野は そのまま
日立造船因島工場に就職し、
家族の強い反対を理由に、
芙美子との結婚の約束を
破棄してきた。」
* 岡野とは 芙美子が女学時代に
知った明治大学の学生岡野軍一で
芙美子は女学校を卒業と同時に
岡野を追って上京し
1年ほど岡野と同棲している。
とあるので そのことが
因島行きになっている。
なお「放浪記」には
「私を捨てて去って行った島の男」
としている。
*于武陵(うぶりょう)「勧酒」の訳は
創作詩と有名漢詩の訳文からなる
井伏最初の詩集「厄除け詩集」
(1937・昭和12年刊行)の一訳文。
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