アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

本気を見せてほしい。勉強でなくていいから。

2011年08月18日 | 中学生活
昨日書いた、「母の理想(妄想)」は、(1)熱中しているものがある (2)勉強はそこそこできている、の二本立てなんだけれども…

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どっちに重点があるかといえば、断然(1)のほう。そのために、一貫(高専)に入れたんだし、六年間(中高)なり五年間(高専)なりの少なくとも前半については、非常にゆるくみるつもりはある。自分もそうだったし(^^;;

その時点での成績が良好(例えば上1/4)、そこそこ(例えば1/2)、いまいち(例えば1/4)の違いは何かということを考えると、どのみち後半になって本気になってからどうなるかの問題であるし、まぁあえていえばそのときに、はるかマイナスからのスタートにならないように、数学と英語だけは落ちこぼれてない状態でいてほしいと思うけれども。

勉強をそこそこやってるかどうかってのはつまり、何かに熱中して本気でやっていることとは違うから、得られるものもそれだけのもの(ひととおりの学力)にすぎないわけ。それだって、もちろんないよりあるほうが断然いいし、あるにしてもしっかりしてるほうがなおいいけどね。

それより、熱中したものがあったかなかったか。この違いは、一生もんだと、思っている。

これは、自分自身の反省としていちばん強く感じていること。私は中学時代、勉強はほんの「ツボ」(一夜漬け)程度しかやっておらず、さりとて何か熱中していたものがあったかというと、持てる時間のほとんどを読書と…yoyoさんとのおしゃべりに費やしていただけで、形になったものは何もない。もちろん読書もおしゃべりも意味はあったので、今の私の非常に重要な部分を形作っているとは思うけれど。

本気になる、のめりこむ、なんて体験はそういつまでもできるもんじゃない。中高一貫の六年間(の特に前半)はひとつ重要なチャンス。そして次には大学時代、そして社会人になってからも、若いうち(独身のうち)に仕事に打ち込む人っていうのがいるけど、私はそのときすでに結婚していたのもあって、仕事も「そこそこ」で済ませた体験しかない。

とにかくいついかなるときにも「そこそこ」。良くいえば、バランスをとるのがうまいとか、いろいろ併行してこなす要領がいいとか、そういう面はあるけど、なんのことはない、何かにとことんチャレンジするということができない。

だから、「本気体験をするなら今だよ」というのは、私が子どもに対して心底言ってあげたいアドバイスのひとつ。自分がやらなかったこと、やれなかったこと。

「勉強でなくていいから」というのは「勉強じゃないほうがいいから」とさえ思っている。大学受験ということでいうと、あれはとことんがんばるものではなくて、「要領」「そこそこ」でもぜんぜん問題ないものだ。要するに、行きたいところに合格するように効率よくまとめればいいことで、果てしなく「上」があるものではない。スポーツや芸術とはわけが違うのだ。やり方だって、わけがわかりすぎてて、別におもしろくはない。熱中する先が勉強なのであれば、「大学受験」以外の切り口でやってほしい。

またろうを見ていると、いろんなものに興味はあったり、工夫をする気持ちはあったり、勉強する気持ちだってまったくないわけではないし、と思うのだ。一番足りないものは、「熱中」。何か具体的なもの(英語の勉強とか)が嫌というよりは、とことんがんばる、努力、集中、「上」をめざす、ダメかもしれないことにあえてチャレンジする、そういうことが嫌いなのかなというふうに見える。

それを見ている親としてはたいへん歯がゆいのだが、考えてみればそれはそのまんま私の特徴でもある。さらによく考えてみれば、またろうの資質はよしぞうの引き写しだと思っていたけれど、この、「熱中しない努力しない」性質は明らかに私と瓜二つのものである。しかしまたろうは私にあったもの(要領とか語学力とか)を持っていないわけで、私が自分の体験から得たことをアドバイスしても別に未来はそこにないともいえる。

つまり…私が考えるだけ無駄ということか(-_-;;

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コメント (18)
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