あられの日記

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江戸のたてもの

2011年05月13日 04時12分02秒 | レトロ建築
江戸時代のたてものをまとめて紹介します。
なにげに川崎市立日本民家園に似ているので、ざっと紹介します。

トップ画像は吉野家(農家)【旧武蔵野郷土館収集】
江戸時代後期に建てられた民家です。吉野家は江戸時代に野崎村(現在の三鷹市野崎)の名主役を務めた家といわれ、式台付きの玄関や付け書院のある奥座敷に格式を見ることが出来ます。

綱島家(農家) 多摩川をのぞむ台地上にあり、広間型の間取りを持つ茅葺きの民家です。広間をかこむ長方形断面の大黒柱や、押し板という古い形式の装置などから、建物の歴史が感じられます。/世田谷区岡本三丁目(江戸時代中期)
…余談ですが、世田谷区岡本三丁目って、砧公園の南ですよね。



八王子千人同心組頭の家
八王子千人同心は、江戸時代、八王子に配備された徳川家の家臣団です。拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。/八王子市追分町(江戸時代後期)
「八王寺千人同心は、八王子で甲斐との国境を警備するために配備された武士団である。関ヶ原の戦いのころには1000人ほどの規模であったため、その名がつけられた。武士とはいえ、平常は農耕を営む半農半士のきわめて特異な形態であった。
1893年(明治26)に日野の大火で家を焼失した溝呂木家が、八王子にあった千人同心の子孫である塩野家から建物を買い取り、その部分を利用して日野市に農家を建てた。塩野家は千人同心の組頭を勤める家柄で、先祖には『桑都日記』の著者として有名な塩野適齋がいる。
この建物は、溝呂木家の各部材に残る痕跡調査から、江戸時代末期に千人同心の住んでいたころに復元した」

奄美の高倉 奄美大島にあった高床式の倉庫です。湿気やネズミの害から穀物を守るために、建物本体を地面から高くあげています。このような高床式の建物は、東京都の八丈島などにも見られます。/鹿児島県大島郡宇検村(江戸時代末期頃)

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