あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

小田原明治の邸宅散歩

2011年11月04日 05時59分16秒 | 箱根・小田原周辺
今年の5月頃のこと。もうすぐあじさいと菖蒲の季節だから、今年こそ小田原城のお堀のあじさいと花菖蒲の奇麗な季節に訪れたい。次いでの司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公、秋山真之終焉の地へ行きたい~。と思い立ち調べました。すると、小田原には明治時代に保養地や著名人の別荘として栄えた歴史が見えてきた。
これは~。ぜひとも現存する明治時代の邸宅やお庭を拝見しに行かねばっ。でも私に知識が乏しいのは遺憾ともしがたい。
頼ったのは小田原市の観光協会です。川越や姫路城の観光の折りにも観光協会のホームページはとても役立ったので、ダメもとで「『坂の上の雲』ゆかりの地の巡りたいので、資料や地図があったら見繕って送って下さい」との旨をお願いしたら、どんピシャリのチラシと地図が送られて来ました。
ところがその後、夏コミに当選しておでかけどころでなくなってしまい、アジサイと花菖蒲を諦めちゃったんですよ。でもおでかけ資料はもう揃えてあったんです。7月8月と体調不良で、おでかけが出来なかったのもあって、9月に体調が戻ったら、リハビリしたい。場所は~?と考えることもなく向かった先は小田原!
てなことで、今日よりしばらく、小田原の明治の歴史散歩の記事の連載を始めます。
ついでに、「小田原」カテゴリーを新設しました。小田原には何度も足を運んでるのに、今までカテゴリーを独立させずに歴史散歩&花散歩&お城のカテゴリーに分散させてあるんですよ。検索するにも不便なんで、ここらでカテゴリーを独立させようと思います。でも『小田原城』関連の記事は、お城のカテゴリーのままにしてあります。
好きなんです。お城。だから、私的に「小田原」で検索するより、「お城」で検索かける方が頻度が高いと思うので。
これに伴い、「旗」のカテゴリーを「看板&ポスター」のカテゴリーに吸収させました。gooのカテゴリーはMAX30個なんです。ぼちぼち限界。なんであんまり検索のなさそうな「旗」のカテゴリーは廃止しちゃいました。
では、9月18日の小田原散歩の開始~~

小田原駅に到着したのは午前8時半前。小田原は町の中にど~んとお城が残ってるので、どのルートから行こうか悩んだんですが、とりあえず南下して海を目指すことにしました。
トップ画像は栄町松坂屋さん。菓子どころ小田原工芸菓子展示館となっています。
こちらは大正初期の創業。城下町小田原を代表する菓子職人が、四季折々の歳時に合わせて作った菓子を展示•販売をしています。また、48種類もの四季の和菓子の展示も行っております。
購入しようかどうか迷ったんですけどね、この日は9月中旬だと言うのに、まだまだ暑かったんです。それこそ30度超えの炎天下でした。とてもとても和菓子を持ち歩いて無事だとは思えず、ショーウィンドウから展示された和菓子を覗いて終了。
続いて目指したのはだるま料理店本店。
 
こちら、以前小田原城の総構えの遺構を巡って散歩した時、幸田口門跡の遺構を歩いた後、大手門跡へ向かいましてその折りに道路の反対側から望んだことがありました。小田原城大手門跡(2010年5月2日)の記事
あの時も随分立派な建物だなあ~。と感じたのですが、違わず素晴らしい玄関の装飾でした。唐破風入母屋造の建物で、国の登録有形文化財なんですってよ!
美しく朝の清掃を終えた建物の前を堪能し次へ。
ここで9時を回りました。

小田原の観光協会に送っていただいた地図を片手に目指したのは小田原総鎮守松原神社さん。

あれ?これ~??総鎮守と言う位だから、それ相応の歴史を持ってる神社だと思うんだけど…。なぜに都会のビルの間に窮屈そうに残っている神社のような作りなのか??
と、とりあえず上の画像の左に階段を見つけたので上ってみる。

正面から見た松原神社は普通に歴史を感じさせる神社でした。
あ。説明板発見。え~と??
「松原神社社誌…祭神 日本武尊、相殿、素戔嗚尊、字迦之御魂神、
由緒 縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なりと云われている。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。
後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地仏として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。
明応4年北条氏の小田原を治めるに当たり当社への尊崇すごぶる厚く鎮守として社領1万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。
天正18年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永9年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費はことごとく藩財を以て之に当てた。
霊元天皇貞享3年旧領主大久保氏が封を再びこの地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守として崇敬前代に劣らず代々小田原の宿19町の総鎮守とした。
明治2年松原神社と改称し、明治6年1月旧足柄懸に於いて懸社と定められ、明治40年4月2日神饌幣帛料供進神社に指定された」
なるほど。歴史は古いですねえ。由緒の最初に出てくる「近衛天皇の久安年間」というと、1145年から1150年までの期間です。
吉兆の大亀
「天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条3代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。
果たして翌天文15年、関東管領上杉軍8万の兵を、わずか8000の兵で見事に破り【川越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。
この石像亀はその話に由来して作られた(制作年不明•頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅をなでると、社運隆昌•心願成就•開運•勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。
また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を10円納めると10日。100円納めると100日、1000円納めると1000日寿命が延びると云われております」とありました。
…これ、突っ込みどころ満載ですよね
まづ1つ。小田原の海岸に漂着したならば、それはウミガメだろう。それを神社の池に入れたらダメなんじゃないのか?
北条氏康が河越夜戦で関東管領上杉軍を破ったのって奇襲…や。この戦いは謎が多いから突っ込むのはやめておこう。
最後の10円お賽銭すると10日寿命が伸びる~とか云うのは、神社側の陰謀の気が…。これを云われたら、庶民は張り切ってお賽銭するもんなあ。しかもっ!首の取れた石像にご利益があるものか…。
説明板にツッコミを入れつつも、大亀の背中をなでてしまう庶民な私。でもってお賽銭は確かいつもの5円ポッキリだったような…。や。もうひと月以上も前の事なので記憶は定かじゃないんだけどね。
さて、更に南下。
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