都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

宮さ和

2021-11-12 | 新宿区  
旧 宮さ和
所在地:新宿区 荒木町12
構造・階数:木・2
創業年:1968(昭和43)頃
解体年:2021(令和3)
Photo 2004.6.5

 荒木町界隈は昔から三業地・花街だったので、恐らくそれ以前からこのあたりも料亭とか貸座敷や料理屋だったのではないかと思うが、旧料亭・割烹料理「宮さ和」は1968(昭和43)年頃に創業したそうだ。
 この宮さ和は、2010(平成22)年に閉店。同年中に「赤坂 光楽亭」となったという。Google Street Viewを見ると、通り沿いは壁が塗り替えられ、看板が掛け替えられているが、建物はそのままだったようだ。Google Mapの航空写真で見ると、奥の方に日本家屋のお座敷がある。奥の方の建物も赤坂光楽亭が継承して使っていたようだ。
 ただ、少し前に土地所有者が代替わりしたそうで、老朽化を理由に現土地所有者が建て替えの意向を示したことから、赤坂光楽亭は2020年12月末で閉店。2021年3月に通り掛かったところ、解体中だった。

割烹 宮さ和/荒木町 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 新宿区  #遊興施設  タグ一覧
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高瀬邸

2021-11-09 | 新宿区  
高瀬邸
所在地:新宿区 中落合4-21
構造・階数:木・1
建設年:昭和初
解体年:2009(平成21)頃
Photo 2006.2.19

 林芙美子記念館わきの四の坂を上った先の坂上通りに面していた家。門の両側には他の住宅があったが、通用門付きの門の奥に平屋の洋風家屋が見えていた。

 文化住宅のような建物だったのか、手前は赤い洋風瓦で出窓のある小屋、奥の方は日本瓦の建物がわずかに見えていた。

 Google Street Viewで確認したところ、2008年6月時点では存続していたが、2010年1月では既に消失していた。2009年頃に解体されたようで、樹木も伐採されて跡地には複数の家が建てられている。

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#失われた建物 新宿区  #住宅系  #戸建て住宅  #文化住宅 
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日本館

2021-11-06 | 新宿区  
日本館(武井日本館)
所在地:新宿区 高田馬場1-9
構造・階数:木・2
建設年:1936(昭和11)
解体年:2020(令和2).3
Photo 2017.11.9

 中に入ったことがなかったので内部の詳細は知らないままだったが、他のサイトなどの情報によれば、男子専用で賄い付き、部屋は4畳半+床の間・押入付きで、全24室だったという。


 Photo 2009.5.10

 中庭のあるロの字型平面で、東南側の角に玄関がある形。この部分だけ壁面がカーブを描いている。基本は瓦屋根だが玄関部分だけは洋風で、四分円の円錐型の銅板張り屋根で、壁面も庇もカーブを描いている。カーブした玄関上部も貸室だったらしいが、この部屋は縦長の窓だった。


 Photo 2008.3.4

 建物が敷地いっぱいに建っているので、門柱は玄関のすぐわきにある。庇裏もモルタル仕上げ


 Photo 2008.3.4

 塀はブロック状の石を隙間を空けて積んだもの。一部を除いてコンクリートブロックが積み増されていた。

古い建物と街並みをもとめて: 早稲田近くの下宿屋さん『日本館』
建築マップ 男子下宿・日本館 3695
武井日本館 新宿区高田馬場 - 東京ノスタルジア
ノスタルジ野日本館

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嶺田邸

2021-11-03 | 新宿区  
嶺田邸
所在地:新宿区 中井2-1-13
構造・階数:木・2
建設年:1931(昭和6)
解体年:2013(平成25)後半
Photo 2006.1.9

 目白文化村、地元で振り子坂通りと呼ばれている坂の途中にあった建物。Google Street Viewでは、2013年6月時点では存在していたが、翌2014年2月には更地・売物件となっていた。
 その後、売却、細分化されたようだ。大谷石の擁壁の上に土が載った敷地も、整地されてなくなったようだ。

 建物については、樹木もありよく見えなかったので詳細は分からなかった。『日本近代建築総覧』によると、1階は全て洋室だったという。

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明治神宮外苑水泳場

2021-10-30 | 新宿区  
明治神宮外苑水泳場(神宮プール)
所在地:新宿区 霞ヶ丘町11
構造・階数:RC・3
建設年:第1期 1930(昭和5)、第2期 1931(昭和6)
解体年:2017〜18(平成29〜30)
Photo 2006.2.19

 明治神宮外苑水泳場は、1930(昭和5)年5月に開催された第9回極東選手権大会で使用するため、第1期工事が1930(昭和5)年に竣工、大会後に第2期工事が行われ、1931(昭和6)年に全体が完成したという。
 1997(平成9)年からは冬期にフットサル競技場として開放したが、老朽化もあり2002(平成14)年12月に水泳場は閉場。2003年からは常設のフットサル競技場「千駄ヶ谷コート」となった。
 従って、この写真は水泳場時代ではなく、フットサル競技場の時のもの。またこの頃は写真左側のアイススケート場(1963(昭和38)開場)の入口も兼ねていたので、玄関上部には「明治神宮アイススケート場」の文字がある。

 私自身は場内の写真は撮っていないが、下記リンク先では場内の写真を見ることができる。また、かつては中央線の車内から、プールのスタンド部分で日光浴をしている人などがチラッと見えたりしていたのが記憶に残る。

 その後、東京オリンピックを前にして同所は再開発されることになり、2017(平成29)年に閉鎖、解体された。
 そして跡地には三井ガーデンホテル 神宮外苑の杜プレミアが2019(令和元)年11月に開業した。明治神宮の所有地であり国の場所ではないが、かなり公的な性格の強い場所が純民間の施設になったのと、もともと高さ制限のあった場所の規制がいとも簡単に緩和されて、それを受けた建物が早速建てられたのには違和感が残る。

明治神宮外苑|年表 明治神宮外苑水泳場|東京都立図書館
神宮外苑(昭和5年)▷明治神宮外苑水泳場(1930-2002) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives
千駄ヶ谷コート - Wikipedia

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#失われた建物 新宿区  #近代建築  #野外劇場・スタジアム  #公共施設 
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東京女子医科大学 1号館

2021-10-27 | 新宿区  
東京女子医科大学 1号館
所在地:新宿区 河田町 8
構造 :RC
階数 :5+R1
設計 :増田清
建設年:1930(昭和5)
解体年:2016(平成28)
Photo 2009.4.18

 十字型平面の病院建築。
 下記、東京女子医科大学の記事によれば、設計した増田清が機能的で合理的な設計として、日本で初めて「十字放射型病院建築」プランを提案したという。十字放射型プランは、①壁面が多いため多くの窓が設置でき採光や風通しがよい、②エレベーターを用いた効率のよい動線計画が可能、③交差部から各病室への目配りがしやすい、④増築がしやすい、などのメリットがある。
 創立者の吉岡彌生は「学校の附属病院は、暗い冷たい部屋が一つもないように、理想的な病院をつくりたいと思い、十字形放射状という面白い設計を選んでみた」と述べていたという。


 Photo 2003.9.25

 見る方角によっては1枚目のようにシンメトリーになり、両翼が手前に広がる形に見えるが、別の位置から見ると真っ直ぐな建物から出っ張りが手前に出る形に見えるなど、少々意外な見え方をする建物だった。

 機能的に当時としては斬新な造りだったのだろうとは思うが、外見だけを見ると十字型が上手く生かされていたのかよく分からない感じに思われた。勝手なことを言ってしまうと、十字のそれぞれの腕(翼部)がもう少し長ければ壮麗で格好良いプロポーションに見えたのではないだろうか。敷地の広さの制約もあるので無理な話ではあるのだが。


 Photo 2009.4.18

 正面玄関の庇には、校章をモチーフとしたテラコッタ製のレリーフが付けられていた。またその庇から連なる1階と2階の境や屋上のパラペット部分にも、帯状にテラコッタの細長いタイルが張られ、外観のアクセントになっていた。


 Photo 2009.4.18

 外壁全体はスクラッチタイルだが、1階の壁面には大きめで出っ張りのある他では見掛けないタイルが張られていた。

 跡地には2020年に彌生記念教育棟が完成した。新棟には旧校舎にあった特徴的なタイルやアーチ型の窓のデザインが継承されている。

ピックアップ - 東京女子医科大学
施設将来計画-2020年2月完成 新校舎棟 | 東京女子医科大学
新・レトロ建築写真帖 東京女子医科大学病院1号館 (東京女子医学専門学校病院1号館)
うめ日和 | 東京女子医大 1号館 (建築探偵見習日記⑦)

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目白日立独身寮(旧 学習院昭和寮)

2021-10-24 | 新宿区  
目白日立独身寮(旧学習院昭和寮)
所在地:新宿区 下落合2-13
構造・階数:RC・2+R
設計 :宮内省内匠寮
建設年:1928(昭和3)
解体年:2018(平成30)
Photo 2004.5.15 上写真は第二寮

 日立目白クラブと目白日立独身寮は、もともと学習院の旧制高等科男子生徒向けに建てられた寄宿舎「旧学習院昭和寮」で、戦後の1953(昭和28)年に日立グループが譲り受けたもの。以降、本館は日立目白クラブとしてグループの社員や家族の懇親会や結婚披露宴などに利用され、四棟の寮舎は独身寮として用いられてきた。

 本館と舎監官舎(現 別館)は東京都選定歴史的建造物となっており、門衛所も残されている。一方、敷地南側の独身寮はマンション化されることになり、3年前に解体された。

 住宅地図で配置を確認したところ、四棟の寮舎は東から第一寮、第二寮で、第三寮は西南端にあり、第四寮は第三寮よりやや東北側にあった。また後年、南側に新しく第五寮と第六寮が建てられていた。当時はあまりその認識がなく本館東裏の第一寮は撮影し忘れ、写真がない。ここでは第二〜第四寮を載せる。

 本館同様、寮舎もスパニッシュスタイル。ただ特徴的な瓦屋根は平屋部分にあるだけで、他はみな陸屋根だったようだ。


 第二寮 Photo 1995.6.24

 建物入口はアーチ型でタイル張り。玄関庇はないが、奥に玄関扉を設けるつくりになっていた。


 第三寮 Photo 2010.4.29

 かつては敷地内に多くの樹木があり、建物の全景(特に北側)はあまり見えなかった。


 第三寮 Photo 2015.12.22

 解体の少し前には周囲の木々が伐採され、外周の塀越しでも建物全景が見える状態だった。もしかするとこの頃、既に居住者は退去していたのかもしれない。


 第四寮 Photo 2010.4.29

 本館西側から敷地奥を見ると、通路の奥に第四寮が見える。


 第四寮・南側ファサード Photo 2004.5.15

 建物群は落合の高台の南端部の崖上にあり、神田川の流れる谷地に南面した陽当たりのよい場所に建っていた。明るい雰囲気の姿が印象的。


 第四寮 Photo 1995.6.24

 四つの建物は部分のデザインは同様だったが、内部の間取りが異なっていたのか、外観全体の形は一つずつ違ったものになっていた。


 第四寮 Photo 2015.12.22

 第四寮は敷地外側の道に近い位置にあったため塀越しにも見えており、解体の少し前には西側側面の全体が見えていた。塔屋と煙突のある様子がよく分かるが、側面だからかでざいんは地味。

日立目白クラブ - Wikipedia
日立目白クラブ/旧学習院昭和寮 - 造形礼賛
目白日立独身寮(旧学習院昭和寮) 新宿区下落合 - 東京ノスタルジア

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旧 金山平三邸(T邸)

2021-10-21 | 新宿区  
旧 金山平三邸(T邸)
所在地:新宿区 中井2-13-19
構造 :木
階数 :平屋、一部中2階
建設年:1924(大正13)
解体年:2012(平成24).11
Photo 2006.2.19

 洋画家、金山平三(1883−1964(明治16−昭和39))の自宅兼アトリエとして建てられた住宅。

 絵画アトリエのある住宅では間接光でアトリエ内を明るくするため、しばしば北側に大きな窓が設けられているが、この住宅もそうで、磨りガラスの大きな開口部が北側にあり、恐らくそこは天井が高くなっていたようだ。

 2階建てかそれ以上の高さのある建物だったが、資料によると、基本的に平屋で一部に中2階がある家屋だったという。南側には別の住居があるので、庭の側の様子は分からないままだった。

 北側の小窓の下部には煉瓦が積まれていた。全体は洋風だが壁の大半は押縁下見板張り。窓の下にだけ煉瓦積みが見えているのはちょっと面白いスタイル。当初からのものではなく、なんらかの改修をしたときにできたものだったのだろうか。

 金山平三が亡くなった翌年の1965(昭和40)年に、妻の金山らくは夫の故郷である神戸市に転居したという。また夫妻には子がなかったそうなので、その後、住んでいたのは、敷地と建物を買い取った方だったようだ。

金山平三 - Wikipedia
旧金山平三邸 新宿区中井 - 東京ノスタルジア
美珍麗・探訪 | 緊急告知・金山平三アトリエが解体!〔東京・中井〕

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スダインテリアサービス

2020-03-24 | 新宿区  
スダインテリアサービス
所在地:新宿区 西早稲田1-23
構造・階数:木・2F
解体年:2019(平成31)
Photo 2018.11.1

 上部に「家具」と大書されたおもしろい看板建築だった。一昨年秋に通りかかった時はまだあったが、昨年秋に通りかかったら既に建て替えられていた。


 Photo 2010.3.27

 「家具」の文字と左右の草柄は、モルタルかなにかで立体的で手が込んだ浮き彫りで作られていた。

スダインテリアサービス 新宿区西早稲田 - 東京ノスタルジア

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菊月ビル・ゆう文ビル

2020-03-22 | 新宿区  
菊月ビル・ゆう文ビル
所在地:新宿区 高田馬場2-17
階数 :8F+B1F
建築年:菊月ビル1968(昭和43)、ゆう文ビル1969(昭和44)
解体年:2020(令和2)
備考 :東側が菊月ビル、西側がゆう文ビル。事実上一体的なビルだった。
    2019(令和元).12に解体開始
Photo 2009.5.10

 高田馬場駅前にあった菊月ビル、ゆう文ビル。竣工年は一年違うが実質的に一つの建物だったという。大学への行き帰りに毎日のように見ていた建物もついに解体。

 低層部分は3階で敷地いっぱいに建っていて店舗やオフィスが入居していた。4階から上は早稲田通りから引いた位置に立ち上がっていて、集合住宅だったようだが、駅前なので事務所として使われていた部屋も多かったのではないかと思う。

 1階の数軒の店舗の間にある階段を下ると東京メトロ東西線の高田馬場駅に繋がっていた。解体・建て替えに伴い、現在はこの4番出入口は閉鎖中。

 頂部以外にも広告があちこちにあり、低層部の屋上に一橋学院の広告看板があるのも記憶に残る。またかつては東京コンタクトの広告が目立っていたが、最期の頃は行知学園になっていた。

 下記リンク先の記事によれば、解体後に建て替えられる新しい建物は別々になるという。

高田馬場駅前「ゆう文ビル」「菊月ビル」取り壊しへ サンルート跡地にホテルも - 高田馬場経済新聞

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