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都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

秀吉ビル

2006-12-14 | 中央区  

 11月中旬、銀座に行ったときに通りかかったら既に解体用足場で覆われ、姿が見えなくなっていた。

秀吉ビル(写真中央の建物)
所在地:中央区銀座5-5-14
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:RC4、後年6階建てに増築。
2006.11解体
Photo 2001.6.24

 有名な建物が無くなるときなどは、新聞その他にも情報が出回ったりするし、そのような建物の場合は、訪れる度に写真を撮ったりすることも多い。しかし街角の小さな建物の場合、そのうちにまた来て撮ろうなどと考えている内に、あっさり解体が始まってしまい、後悔することもしばしば。

 この写真も偶然に映り込んでいたカットからトリミングしたもの。だから、建物壁面に付いていた、装飾などのディテールはよく分からない。Googleで検索してみたら、いくつかのサイトで、正面ファサードの様子が分かる写真が載せられていた。

秀吉ビル(HP「デジカメ散歩」内、玄関、階段の写真もある。)
街の風景 - 秀吉ビル
「銀座散歩」には、秀吉ビルの他にも多くの銀座の近代建築が掲載されている。
ニッポン懐景録 - 東京都 中央区銀座5丁目
ニッポンWinterGarten・二十面相の館&東京建物写真館 - 秀吉ビル

 しかしファサード全体を一枚に収めているものは見あたらない。前面の道幅が広くないので、近くから正面全景が収めにくいのが主な理由なのだが、他にも、トラックなどの路上駐車が非常に多く1階部分がなかなか写せないこと、夏場は街路樹も邪魔になることが、全体写真を撮りにくくさせている。

 4階の柱上部、軒先には装飾が付くが、5、6階は後年の増築だそうで、こちらには全く装飾がない。6階などは窓の形も異なっており、かなりプレハブテイスト。昭和の初めの古い建物なのだが、外部だけを見ると、あまり撮影意欲がわかない。

 そんなわけで、ちゃんと撮らずにいたら解体が始まってしまった。西銀座ビルの時には、まだ銀座にはちらほら近代建築が残っていると書いたが、最近の銀座では、昭和初期の建物が次々になくなっていくような気がする。気づいたときには、後回しにせず撮っておかなくちゃいけないなと、今回も思った。

 Googleで検索すると、秀吉ビルに関しては、なんだかかなり厄介な事情が絡んでいたようだ。いろいろな思惑に巻き込まれた末、80年近い歴史を持つ建物は消えていく。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス 
コメント (2)
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口羽医院

2006-12-13 | 港区   

 最近になって、再びあちこちに行くようになったら、昔あった建物が無くなっていることに嫌でも気づかされることになった。そんなわけで、Tokyo Lost Architectureを少しずつ更新。

口羽医院
所在地:港区高輪 3-7-7
建設年:1926(大正15)
構造・階数:木2
2001.10解体
Photo 1995.6.6

 口羽医院のHPの中の「医院のあゆみ」には、2001年の10月に解体され、2003年10月には、マンションの1Fで新医院として開業したとあった。

 70年間以上使われていた旧建物は、ハーフティンバーの洋館だった。お医者さんて、昔は結構ハイカラな建物だったことが多いんだろうな。ただ1F部分は改築されたりしたのだろうか? かなり素っ気ない作りになっているのが不思議だった。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 港区  #洋館・洋風住宅  #医院 
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左官業の家

2006-12-09 | 中野区  

 自宅近くを散歩していたら、壁面にレリーフある家を発見。

レリーフのある家
Photo 2006.11.25

 洋風ではなく、木造の普通のお家に、西洋館によくあるレリーフが、漆喰かモルタルで付けられている。洋風のデザインを施した家というのはよくあるが、壁面の一箇所だけ洋風レリーフというのはあまり知らない。かなりの違和感。なんだろうこれ?、と思ってあたりを眺めてみると、答えらしきものが玄関の門扉に書かれていた。

山下左官工業所
所在地:中野区上高田3-15
Photo 2006.11.25

 左官屋さんのお家だった。門扉はかなり錆びてしまっているが、辛うじて左官工業所の文字が読み取れる。玄関脇の郵便受けは、今ではもう使われていないのかもしれないが、カーブを描いた小さな覗き窓が可愛らしい。仕事の特長を活かして塀や壁面にちょっとした飾りを付けたのだろうか。

 昔のタイル屋さんや石材屋さんの建物には、そこで扱っているタイルや石が使われたりしていることがよくある。左官屋さんの場合は、こういうレリーフが作られたりするのかもしれない。

#古い建物 中野区 
コメント (2)
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ロシア日記 1992.10.03~10.17

2006-12-01 | ロシア  
 大学院の修士2年の時、研究室の調査旅行でロシアへ2週間滞在した。訪れたのは、ロシア極東の、ハバロフスク、ウラジオストク、それから首都モスクワ。
 帰国後、この旅行中に書き留めていた日誌を加筆して、ひとまとまりの日記とした。
 当時はワープロ(Canoword)でテキストを入力していたのだが、1994年頃になって、これをMS-DOSフォーマットに変換、FDで保管した。更にMacを使うようになり、スキャナーも購入したため、当時の写真をスキャンしてテキストと合わせてレイアウトし、個人的日記として冊子体裁のものを一つ作り、データはMOで保管していた。

 軍港都市ウラジオストクは、冷戦の終結を受け、90年台になって、ようやく外国人の立ち入りが認められた街で、1992年当時は、訪れる外国人もまだ少ない状態だった。現在では、かなりアジア系の外国人も多くなったようだが、当時はまだ日本人などは珍しがられた。ソビエトからロシアになったばかりで、経済状態・経済感覚も、日本とは全く異なる文化であるので、かなりのカルチャーショックを私は受けた。

 今後、個人情報等の問題のない範囲で、当時の日記を順次、Web上に公開していこうと思う。帰国後加筆しているため、帰国後に起きた事柄も記載されているが、原則的に、帰国当時(1992~93年)の時制で記しているので、現在では既に状況が異なる事柄も、相当多いかもしれない。
 1992年当時に書いた文章なので、92年の日記としてエントリーする。Blogというシステム自体が存在しなかった時代に、Blogを使って日記を書いたことになってしまうのだが、かなり以前に書いた文章を、現在の年月日でエントリーするのも変なので。
 90年代の極東ロシアの状況について興味のある方は、Entry Archive欄の、1992年10月、もしくは1992年10月 記事一覧から御覧下さい。
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