記憶の伝承 誓い新た 長崎雲仙・普賢岳 大火砕流から19年(西日本新聞) - goo ニュース
6月3日、普賢岳大火砕流から19年。
その日のことは記憶に新しい。
ちょうどその日は、当時4歳だった長男を連れて帰省していた。
朝から雨が降っていて、スイートコーンの出荷で箱詰めの作業をしていた。
夕方の5時頃、サイレンを鳴らした警察のパトカーと救急車、
消防車が何台も国道を島原方面へ向かった。
ピンときたのが普賢岳で何か?
予想は的中し、大火砕流が発生して多くの犠牲者が出たのだ。
帰路は島原発の最終バスを予約していたので
バスセンターに運行状況を確認したら予定通りということだった。
島原半島の玄関口でもある愛野交差点では、
島原市方面は警察官による通行規制がひかれ、
バスは少し遅れて愛野に到着したが、
西鉄バスの白い車体が火山灰で真っ黒だった。
車内はお爺ちゃん、お婆ちゃんに連れられた子供達でいっぱいだった。
福岡の身内のところに避難する人達だったのだろう。
バス車内のテレビは報道の特番がながされ、
家屋や森林が焼ける映像が映し出されていた。
中学生の頃、普賢岳は休火山と教えられてはいたが、
まさかこんなになるとは思ってもいなかった。
自然の脅威に対して人間の無力さを思い知らされる。
九州大学インターネット博物館
http://133.5.170.64/Museum/Museum.html
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6月3日、普賢岳大火砕流から19年。
その日のことは記憶に新しい。
ちょうどその日は、当時4歳だった長男を連れて帰省していた。
朝から雨が降っていて、スイートコーンの出荷で箱詰めの作業をしていた。
夕方の5時頃、サイレンを鳴らした警察のパトカーと救急車、
消防車が何台も国道を島原方面へ向かった。
ピンときたのが普賢岳で何か?
予想は的中し、大火砕流が発生して多くの犠牲者が出たのだ。
帰路は島原発の最終バスを予約していたので
バスセンターに運行状況を確認したら予定通りということだった。
島原半島の玄関口でもある愛野交差点では、
島原市方面は警察官による通行規制がひかれ、
バスは少し遅れて愛野に到着したが、
西鉄バスの白い車体が火山灰で真っ黒だった。
車内はお爺ちゃん、お婆ちゃんに連れられた子供達でいっぱいだった。
福岡の身内のところに避難する人達だったのだろう。
バス車内のテレビは報道の特番がながされ、
家屋や森林が焼ける映像が映し出されていた。
中学生の頃、普賢岳は休火山と教えられてはいたが、
まさかこんなになるとは思ってもいなかった。
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