7月の第月曜日は「海の日」国民の祝日だが、大方の日本人は、そのいわれも意義も知らない。夏休み前の単なる連休にすぎない。毎日が休日で時間をもてあます老人にとっては、若く元気だった頃の「海」の回想にふける一日にすぎない。
戦前の東京は「海」が近くにあった。文久3年創立のわが母校、攻玉社の校歌は”窓には見ゆ船の帆、庭には満つ潮の香”で始まるし、応援歌は”大洋の水洋々と走りてここに止むところ”で始まる。明治時代、母校が東京湾に面する竹芝の浦にあったころを歌ったものだ。僕が子供だった昭和10年代にはこの風景はもう見られなかったが,山手線の車窓から、漁船の船泊も見えたし古い料亭の建物もあった。
昭和15年(1940年),僕は海洋少年団主催の水泳道場に参加している。省線(JR)浜松町駅近くの桟橋から(はしけ)に乘り第四お台場に運ばれた。台場の岸には木製のドックがあり、僕ら初心者はこの中で泳いだ。僕はこのドックの中で初めて浮くことができたし、赤い六尺褌を自分で締めることができた。
亡父が水泳道場に関係していたので、昭和16年には月島の道場にも通った。都電の月島の終点を降りてかなり歩いた埋め立て地であったが、今は埋め立てが進んでどこだか推定でいない。当時でもがひどく、泳ぐ気にならなかった。月島は今や”もんじゃ焼き”の名所だが、当時は食糧切符による外食食堂しか店は開いていなかった。