「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

多難だった平成25年よさようなら

2013-12-31 08:05:22 | Weblog
昨日、僕はリハビリをかね老妻につきそわれて理髪店に出かけた。老人とはいえ、のび放題の頭で新年を迎えたくはなかった。とはいえ、暮れの30日、店は客が立ちこんでいて果たして刈ってもらえるかどうか心配だった。ところが、予想に反して店には順番待ちの客は一人もいなく、すぐに刈って貰えた。戦前昭和の時代の歳末、どこの店も客であふれていた床屋の風景を知っている僕にとっては驚きだ。

戦前昭和から30年代頃まで東京では独特の歳末風景があった記憶がある。師走という言葉がぴったりのように、道行く人々は何かと忙しそうであった。商店街には臨時の籤引き抽選場が儲けられ、大当たりの箪笥が会場に積んであったりした。当時、景気がよかったのか、どうかはっきり覚えていないが、町には今より活気があったような気がする。

昨日の東京証券取引所の大納会に安倍晋三総理が出席し、平均株価が約6年ぶりの高水準で終えられたことを誇り顔に”来る年もアベノミクスは”買い”ですと鐘を鳴らした。結構な話で国民はおおいに期待をしているが、どうも今一つ僕ら庶民には、アベノミクスの”魔術”が伝わってこないのは、どういうわけなのだろうか。

今年わが家にとっては最悪の年であった。僕は9月に4回目の膀胱ガンの切除手術で入院、さらに11月から12月にかけて膝の人工関節置換手術で1か月も入院した。病院からまだ最終的な治療費の請求はこないが、後期高齢者医療保険ながら3割自己負担のわが家にとっては、思わぬ負担である。新しい来る年の幸せを願って、老妻は昨日、すこし奮発して大きめのお供え餅を買ってきた。

今年も「老人タイムス」をご支援いただき有難うございました。今年の漢字「輪」ではないが、世代を越えて、このブログの「輪」が来年も広がることを願っています。

高齢者の在宅介護への準備

2013-12-30 07:40:25 | Weblog
昨日、病院から38日ぶりに帰宅したら、家人が僕のために部屋にベッドを用意しておいていてくれた。外国家具の安売りチェン店から購入してくれたもので、スウェーデン製だが、何故かブランド名は「サルタン」。ベッドは4畳半の、仏壇の横に狭苦しく置かれてあった。老夫婦だけの2LDkでは、精いっぱいのベッドの置き場所だ。わが家は平成5年に新築した小さな集合住宅の一室で、一応、室内はバリアフリーになっているが、当時僕は62歳、形式的にバリア.フリーにしただけで、20年後の老後の生活などほとんど念頭にはなかった。

当時まだ、僕は元気であった。毎朝、近くの大学キャンパス跡の広場で行われるラジオ体操に参加し、万歩計をつけて一日一万歩をめざして歩いていたものだ。しかし、20年後の老後のことなど想定外で、自分たちは集合住宅の階上に住み、孫が生まれたばかりの娘夫妻は階下に住まわせた。先祖からのガラクタの保存に困り、自分たちの住まいの屋根裏を物置がわりに設計した。これが今になってはアダになってしまった。断捨離できない老妻が、なんでも運んでしまい、今ではにっちもさっちも行かなくなってしまった。

手術後のリハビリの一つとして”浴槽またぎ”をした。わが家の浴室の浴槽は高さがあってまたげない。トイレにも安全装置の支えがない。すべてが、将来僕が介護を必用となった場合には不適格である。今のところ、僕ら夫婦は国からの介護、支援は一切受けていない。娘が聞いてきた話では、地域の福祉包括センターに相談し、介護支援が必要と認定されれば、在宅介護に必用な施設の改造などには行政から一部支援があるという。早速、行政側に支援を依頼する手続きをとった。高齢にならないと理解できない問題である。80歳を越えたら、在宅看護の準備が必用かもしれない。

無事退院できました

2013-12-29 11:25:57 | Weblog
今年もあと二日と数え日になった29日、お蔭さまで無事退院してきました。今回の入院は左膝人工関節置換手術という僕のような80歳過ぎの老人には酷であった。
膝がしらには、人工関節をいれた、30cmほどのサソリのような形をした傷跡が痛ましく残ってる。退院してきたが、まだ傷の腫れは残っており完治までには、日数はかかりそうだ。

高齢者の手術には、それに耐えるだけの体力が必要なことを今回初めて知った。僕は80歳にしては比較的体力に恵まれているが、やはり、手術前事前チェックで、糖尿病の基準でなるHbA1Cはngspで6.9以下だが、食後の血糖値が180から時には200を超すことがあり、手術前に”教育入院”して血糖値をさげるよう病院から要望された。

お世話になった今回の病院は娘がインターネットで、人口関節置換手術の権威であるのを知り、手術までに3週間かかった。そして患部だけでなく、身体全体をCT,MRI、超音波などで検査し、手術に耐えられるか、どうかをチェックした。手術後も血栓予防のため、徹底的に検査ををした。

糖尿病は当初、手術のための検査入院だったが、せっかくの入院である。この期間を利用して食事制限とインシュリン療法で血糖値を下げる治療を同時に行ってくれた。おかげで入院時83.4㌔あった体重が一か月の退院時には7㌔ダウン、お蔭で膝の負担も減った。まさに一石二鳥とはこのことだろう。

亡くなった歴戦の勇士

2013-12-04 09:52:28 | Weblog
親友の山下信一氏(93歳)が11月29日19時39分逝去されたと、都内S区の福祉センターの方から連絡があった。

山下信一氏は僕より一回り近く年上だった。南方の戦地からの復員が遅れ昭和24年4月新制の上智大学発足の時、僕と英文学部のクラスメートになった。
山下氏は昭和16年現役入隊第48師団大分歩兵連隊に入営、戦争勃発と共にフィリピン上陸作戦に参加、そのままジャワ(インドネシア)スラバヤ上陸作戦に従軍、大東亜戦争のほとんどの時期を東チモールの任務にあたった。

戦後昭和24年学生服を着て角帽をかぶっていた僕らに混じって英語の勉強をしていた。大分県の故郷から単身上京して、夜間は進駐軍のキャンプでバーテンダーをしながら通学していた。
昭和28年卒業したが、就職難の時代山下氏は働く場所がなく、バーテンダーをしながら難関の通訳ガイド試験にも合格、NHK国際局に定職を得たのは40歳を過ぎていたと思う。

彼は根っから英語が好きで55歳でNHKを定年退職した後に上智大学の大学院に入り直し,同級生だった渡部昇一氏に教えを乞い、さらに大学院を卒業後昭和女子大で英語の教授となり、70歳まで女子学生に英語を教えた。名誉教授であった。

山下氏は生涯独身を貫いた。故郷の戦死した兄嫁と一緒に・・・という親のすすめを断り一生独身を通した。
晩年S区のマンションで一人住んでいたが、福祉事務所のはからいで成年後見人制度申請し、ケアセンターのケアを受けながら生活し、最期は
病院のベッドの上で息を引き取ることが出来た。
家内がご遺体との対面を薄暮の葬祭場ではたすことが出来た。12月2日14時荼毘にふされた。合掌。