「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

86歳旧友の葬儀に参加して思ったこと

2013-08-31 07:35:33 | Weblog
70年近くの旧友の告別式に参列した。昨日の東京は最高温度が36.8℃という猛暑が戻り、正直いって80老にはきつかった。住まいのある東京の南の端から式場の北の端まで公共交通機関を乗換て行ったが、いつものことながら駅の施設が、依然として老人にはバリアーが多すぎる。片側一列ほとんど無使用の登りのエスカレーターは、あっても下りのものがない。超高齢化時代である。関係者は老人の視点に立って検討してもらいたいものだ。

最近、葬儀に参列して思うことは、同時代人の参加が少なくなってきたことだ。旧友は戦後の学制改革の影響を受けて旧制中学と新制高校の二つを卒業している。旧友は二つの同期会にも熱心に顔を出していたが、昨日の告別式に出席したのは僕一人だった。僕と同期の会は、まだ年に一回、夜間飲み会をかねての会を開いているのだが、弔電も打ってこなかった。どうも人の死、最後の別れについて社会全体があまり重く感じなくなってきたのであろうか。

昨日の告別式は親族、友人、知人併せて合計30人ほどの「家族葬」であった。花に囲まれた祭壇の仏式による立派な葬儀であった。しかし、僕が一つ気になったのは、参列者のほとんどが数珠を持っていないこと。ご焼香の際、式場の参列者に対して一礼する、しきたりが忘れられてきたことだ。これに反して、昔に比べて、ご遺体との最後の別れにお棺の中にいれる花が豪華になり多くなってきたことだ。

大変ゲスな表現だが、80歳をすぎると自分が死んだ時、果たして何人が葬儀に参加して貰えるかわからない。しかし、それでよいのだ。長寿に対する一つの勲章であるからだ。

メールによる旧友の死亡通知 その是非

2013-08-30 07:30:40 | Weblog
70年近く交流のある友人の逝去の知らせが息子さんからメールで届いた。最近、宗教儀式を省いた「直葬」とか「お別れの会」が多い中でお通夜、告別式の日時、会場の地図まで添付されている。旧友とは戦時中の勤労動員で寝食を共にした中である。ここ数年はお互いに高齢となり交遊は少なくなっていたが、最後のお別れの会には参列させて貰うことにした。

旧友は数年まで日本橋で本屋をしていた生粋の江戸っ子で交際も広く他人の面倒見も好い。僕も江戸っ子のはしくれで、おせっかい焼きの所がある。友人の死亡通知がメールでは、PCを持っていない僕らの仲間には届いていない、と思った。案の定、僕以外には誰にも通知はなかった。そこで、おりかえし息子さんに、学校のOB会の幹事に知らせましょうか、とメールを返してしまった。内心、僕にはご遺族は近親者のみの葬儀にしたい意向から辞退されるものと思っていた。

ところが、ご遺族からは是非知らせて欲しいという返事である。僕はOB会の名簿を出して調べたが幹事にはだれもメール.アドレスがない。また、僕はOB会の運営が、いつも1年に1回の総会が、夜間の飲み会なのに反対してここ10年出たことがない。息子さんには悪いが、二人の幹事の住所と電話番号をメールしてお知らせするにとどまった。

昭和の時代までは、人がなくなると生前の故人との親近差はあるが、遺族は電話によって逝去を知らせたものだ。戦前昭和の時代には電報や場合によっては直接家を訪れ、知らせた。時には正直いって連絡を受けても困る場合もあった。そこで、最近では葬儀は近親者のみの内内にして後刻関係者に知らせるケースが多くなってきた。葬儀にかかる費用が莫大なのも原因しているようだが、人間関係が年々希薄化してきているのも原因していているようにみえてならない。

”撃ちてし止まむ”の時代の英語教育

2013-08-29 06:36:07 | Weblog
数年前「攻玉社中学2年C組大東亜戦下の記録」という私家本を編纂した。この中で戦争中(昭和18年―20年)英語の授業はあったかどうか調査したところ、我が校では中学1年時(18年4月から19年3月)は外国語第一(読解)同第二(作文)として勉強している。しかし、2年時の3学期(20年1月-3月))と3年時の1学期(20年4月―7月)は勤労動員で英語だけでなく、全学科ほどとんど授業はなく通信簿にも成績の記入がない。しかし、級友の一人が昭和19年版の三省堂コンサイス英和辞典を所有していた。裏表紙には「撃ちてし止まむ」という航空兵の軍刀を下げた口絵が載っている。(写真)英語は敵性語ではあったが、完全に禁止はされていなかった。

こういう時代に育った世代だけに、あまり英語が好きで得意な友人は少ないが、何故か僕は違っていた。亡父が残した日記によると、終戦から数週間後には父から英語を習っている。戦後すぐのベストセラーとなった「日米英語会話手帳」も標題に騙されて購入した。この本を片手に横浜の大桟橋へ行き、家から持ち出した人形とチューインガムと交換したことがあった。英語が好きになった動機はこんなところにあったのかもしれない。

先日行われた小6、中3対象の全国学力テストの際、”英語が好きかどうか”のアンケート調査もあったそうだが、これによると、小6で76%、中3でも53.1%が英語が好きだと答えたという。ところが、将来、留学したいかとの質問には、小中とも行きたいと答えたのは30%台だとのこと。これは何を示唆しているのだろうか、最近の子供の”内向き”指向の現われなのだろうか。

土橋投手がフランス座にいた頃の浅草

2013-08-28 06:47:25 | Weblog
プロ野球のヤクルトや日本ハムで監督をした土橋正幸さんが亡くなった。まだ77歳で僕より5歳も若い。この土橋さんと30年ほど前、札幌すすき野の飲み屋で一晩軽く飲んだ。テレビの「プロ野球ニュース」の取材にみえて、当時北海道のテレビ局に勤務していた僕が”ご苦労さん”という意味で彼を招き、お付き合いしただけの関係だが、何故か忘れられない一人だ。

プロ野球については好きだが、専門的なことは知らない僕である。酒席の話題はもっぱら共通の浅草の事になった。土橋さんは昭和29年(1954年)当時の東映フライヤーズにテスト入団するまでは浅草のストリップ劇場フランス座の軟式野球の投手をしていた。一方、僕も新聞社の駆け出し記者で、上野、浅草警察などが担当のサツまわりをしていた。NHKの「事件記者」より前の時代である。

僕は土橋さんがフランス座で野球をしていた頃は知らないが、仕事をかねてフランス座に出入りし当時司会者だった関敬六さんから浅草の話を聞いた。カジノ座、フランス座など浅草六区のストリップが全盛でどこも満員であった。そのころ、浅草でのサツまわり記者のたまり場は、国際通りから少し入った「ガラス湯」横の「がまぐち」という飲み屋であった。戦前の浅草オペラからの俳優高屋朗さんが経営していた。高屋さんは映画「二等兵物語」シリーズに脇役として出演していたコメデイアンで、口ががま口のように大きいので店の名前にしていた。

土橋さんも「がまぐち」に出入りしていた。空襲で焼けた観音様がまだ落慶されず、六区のひょうたん池もあり、そのまわりで観光客が安い焼酎のブドウ割や梅酒割でモツ鍋を食べていた。ストリップ劇場の軟式投手がプロ野球のスター投手にもなれた、まだ、ドリームがあった時代であった。


七年で復興した関東大震災

2013-08-27 07:04:23 | Weblog
関東大震災が起きてから今年で90年になる。僕は体験していないが、つい最近まで、わが家には「大正大震災写真帖」(数年前震災記念館に寄贈)や震災で焼け崩れた銅貨の山などがあって、僕は子供の頃から震災の怖さ恐ろしさをよく知っていた。その記念物の中に「帝都復興記念写真グラフ」もあった。これも寄贈してしまったが、改めて帝都復興記念日がいつだったのかを調べてみたら、震災から7年後(正式には6年6か月後の昭和5年3月)であった。

東北大震災から、すでに2年6か月経った。復興庁による復興計画は着々実施されていると思うが、どうも僕らには目にみえてこない。目に見えてくるのは、仮設住宅近くのバラック建ての商店ぐらいだ。関東大震災に比較して、被災地が津波により被災地が広範囲にわたっており、しかも福島原発事故という複雑な要因もある。しかし、復興へのスピードが今一つ遅く、青写真すら描かれていないのでは、と心配すうるのは僕だけではないのでは、ないだろうか。

現在の東京都内の道路網の基幹となっている昭和通り、靖国通り、内堀通りなどは関東大震災の復興計画により出来たものだが、震災から5年ごの昭和3年には、ほぼ完成している。当時の後藤新平・東京市長を中心いした帝都復興院による迅速な復興計画の実施によるものだった。東北大震災の時は「復興構想会議」が発足したのは、震災から1か月後、それも「構想」で、メンバーの中には哲学者とか脚本家とか、実際の復興には直接役立たない人も入っていた。民主党独特のパーフォーマンスであった。

復興庁が正式に発足したのは、震災から11か月たった2012年3月だった。この最初の遅れが復興への遅れになっているのではないだろうか。津波に耐えた一本松の復元も大切かもしれないが、道路、鉄道などインフラ整備のほうが重要ではないだろうか。

20年前の冷夏 20年後の高齢危機

2013-08-26 06:29:55 | Weblog
十年一昔というが、二昔前の1993年(平成5年)は、今年の猛夏と違って冷夏であった。この年は20世紀最悪の冷夏で、梅雨前線が長期間、日本列島にいすわり、九州は梅雨の明けないまま秋になった。調べてみると、僕の住んでいた東京も8月は冷雨が続き30℃を超す日がほとんどなかった。わが家は、この年家を新築し、夏の期間中、冷房のない家に仮寓していたが、暑さをそれほど感じなかった。

作家の曾野綾子さんが産経新聞のコラム「小さな親切大きなお世話」(8月25日首都圏版)の中で、団塊世代が後期高齢者入りする2025年には日本の高齢者人口は3625万人に達し、さらに2035年になると、高齢者率は33.4%、つまり日本人の三人に一人が高齢者になると警告”安倍内閣は、この推測可能な悪夢に、直ちに手を打たなければ手おくれになると、書いている。

日本人の三人に一人が高齢化する2035年は22年先である。曾野綾子さんも、このコラムの中で書いておられるが、けっして遠い先ではない。”私(曾野)にとって20数年前から今までの時期は、ほんの数年前のように感じられる。”僕も同感である。冷夏であった20年前の平成5年は、僕にとってはまるで昨日のようだ。冷夏による米不足から、米屋の店頭からコメが消え、政府が外国米を緊急輸入した。幼児であった孫は大学生になっている。たしかに20年の歳月は流れているのだがー。

曾野さんは”私は恐ろしい社会現象の出現を、単に想像以上の恐怖とは考えない。老人ホームの人々は、食事は与えられても、入浴や排泄の面倒を見る人がいなくなるだろう。町には棄民に近い孤独な高齢者があふれ、道端に横タ割り、死なないだけで生きているとはいえない状況で彷徨い歩くようなるだろう”

20年前の冷夏の頃、僕はすでに60歳を越え、年寄りの仲間いりしていたが、今のように超高齢化時代が到来し、社会問題化するとは思ってもいなかった。

戦争が終わって学校が再開された頃

2013-08-25 06:33:06 | Weblog
戦争が終わって学校(旧制中学)が再開され、僕が初めて登校したのは8月27日であった。終戦から12日も経ってからであった。僕が通学していた学校は、5月24日の空襲で木造建物は全焼したが、鉄筋3階建て校舎は残っていた。しかし、残っていたというだけで、窓ガラスは全部壊され、何故か床板もはがされていた。校舎の一角には、焼け出され行き場のない近所の人が住んでいた。

昭和20年1月、中学2年の3学期、僕らは勤労動員され六郷(大田区)の軍需工場で”人間魚雷”の部品製造に当たったが、この工場が4月の空襲で全焼、そのあとは千葉県の利根運河の浚渫工事に従事したり、破壊された鉄道の架線の張り替えなどをしていた。この間、工場勤務の時は週に1回の登校日はあったが、その後はなく久しぶりの学校であった。8か月ぶりの教室での授業は嬉しかった。休み時間には壊れた講堂の鉄骨の上で”鬼ごっこ”遊びなどした。

学校が再開してまもなく9月2日、東京湾上のミズリー号で降伏式が行われ、やがてマッカサー司令官指揮いる連合軍兵士が進駐してきた。中学生だった僕らの目には、進駐軍とくに黒人兵士が珍しかった。また初めて見る四輪駆動のジープに目をみはった。級友の中には女の兵隊(WAC)の姿みたさに丸の内まで出かけた者もいた。

学校では教練を教えていた配属将校がいなくなり、暴力教師と僕らが恐れていた剣道の教師も学園をさった。極端な神がかった修身の教師も自ら辞めていったようだ。一番困ったのは教科書がない事だった。先生が板書するものをノートに写す授業が多かった。一方、学校は再開したが生活難から学園に戻ってこない級友も多かった。

水前寺清子の”平和ボケ”発言に賛意

2013-08-24 05:37:14 | Weblog
NHKラジオ第一の「昭和歌謡ショー”昭和の家族”」(22日夜9.30)をたまたま寝床で聞いた。番組の最後の部分で司会の水前寺清子が一言、”平和ボケにならないように”といった、この言葉が僕にはとても印象的であった。

水前寺清子のヒット曲「三百六十五日のマーチ」が発表になったのは昭和43年(1969年)11月であった。この年の12月、僕は個人的には父が84歳で死去、翌44年3月、16年間務めた会社を辞め、さらに10月には、生まれ故郷の東京を離れ、地方都市に転勤した。まさに人生の転機であった。その頃、毎日のようにテレビから流れていたのが「三百六十五日のマーチ」(星野哲夫作詞 米山正夫作曲)であった。

”ワン.ツゥ ワン,ツゥ ワン.ツゥ.パンチ”で始まるこの歌は、まさに僕にとっても人生の応援歌であった。経済的には恵まれた転職、転勤であったが、やはり知らぬ異郷でのなれない仕事はきつかった。日中でも氷点下の北海道の道路で足を滑らし、スッテン転がりしたことも何度かかあった。その頃口ずさんだのが、この歌であった。”しあわせは歩いてこない、だから歩いて行くんだよ、一日一歩三日で三歩、三歩歩いて二歩下がる、人生はワン.ツゥ パンチ、べそかき、汗かき歩こうよ”

早いものだ。平成の御世も25年、四分の一世紀が過ぎた。お蔭で平和な時代が続いている。しかし、一方では、この”平和”によって耐性のない、自分勝手の日本人が多くなってきた。自分の主張が通らないといって、安易に党を出たり、入ったりする政治家は、その最たる連中だ。

石巻からの生サンマ宅急便が復活

2013-08-23 05:28:43 | Weblog
宮城県石巻市の水産加工会社から、震災復興の道は険しいが、やっと生サンマの宅急便を再開することが出来たと、挨拶状が届いた。震災前の2007年4月、僕はかって勤めた郡山の会社のOB会に出席した後、老妻と一緒に仙台に泊まり、足を伸ばして石巻も観光した。本来は行く予定ではなかったのだが、帰京の新幹線の時間が格安切符のため決まっていて、その関係で時間に余裕ができたからだった。

石巻は東北の漁港として名前は聞いたことはあったが、まったく予備知識はなかった。駅前商店街はシャッターを閉じている店が多かったが、ちょうど桜の季節で、中心街は賑わつていた。郷土出身の漫画家、石ノ森章太郎記念博物館を見た後、近くのハリストス正教会を訪れ、思いを明治初めの東北の港町にはせた。あの大震災でこの博物館も教会も津波で二階まで水浸しになったが、幸い流失は免れた。

観光の帰途、立ち寄った駅前商店で、僕らはお土産に石巻の水産物を買い、宅急便で東京へ送ってもらった。今回、挨拶状を送ってきたのは、この店からであった。震災直後、復興支援になればと、僕は何度か、この商店に電話をしたが通じなかった。やはり、あの大津波ではダメだったのかと心配していた。しかし、挨拶状によると、震災から2年6か月を経て今年12月には新工場も完成し、こうして顧客データーも復活し生サンマの宅急便を配送できるようになったという。

案内状によると、サンマ大サイズが15本入りで3千円、東京など首都圏は送料無料とのこと。目黒区に住む僕らは”目黒のサンマ”の故事もあり早速注文することにした。
(株式会社 三興 http://sankou-net.com/ )

膀胱ガンが再発四度目の入院へ

2013-08-22 06:07:02 | Weblog
膀胱ガンが再発、4回目の手術入院するハメになった。昨日の内視鏡検査で患部が発見された。前回の入院は2010年6月で、以来抗がん剤を患部に注入、最近は年に4回の内視鏡検査だけで推移していた。僕は希望的な気持ちから全治したものと思っていた。痛みもないし、日常生活には、まったく支障がない。80歳を過ぎた老体、できれば入院して手術などしたくないのが本音だ。

僕が最初に膀胱ガンで入院したのは2002年11月で10年以上も前の事だ。約1か月入院して患部を摘出、約5年間、抗がん剤の注入と内視鏡を続けた。これで完治したと思っていたところ、2010年12月に再発、この時は僅か手術後僅か半年で再発してしまった。どうもこの時は糖尿病の治療薬「アクトス」の影響があったのではないかと思う。

膀胱ガンは、幸い他のガンに比べて5年間の生存率は高いとものの本に書いてある。症状が5ステージに別れていて初期の1ステージの生存率は95%だという。昨日内視鏡検査のあと、医師が見せてくれた写真を見ると、患部は小さい。医師は内視鏡検査を続けていたので、早期発見が出来たのだという。

病棟が満杯で入院は早くとも9月中旬になる見込みである。今度で4回目の入院手術だが、馴れているといってもイヤなものである。この猛夏も手術のある9月には収まっているものと思うが、手術台に乗った自分を想像するだけでうんざりだ。長生きするということは大変なものだ。しかし、せっかくここまで生きてきたのだから、もうひと踏ん張りすることにしよう。