「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          『寂しい春』だった福島原発事故被災地

2013-05-31 05:55:41 | Weblog
40年ほど前に勤めたことがある郡山の民放のOB会報が届いた。お城をバックにした見事な鶴ヶ城公園の桜が巻頭を飾っている。しかし、その下の名誉会長の冒頭の挨拶には『寂しい春』という見出しがついていた。3.11の大震災から、すでに2年余りすぎ、申し訳ないが、僕らの普段の日常会話からは震災のことは遠ざかってきた。しかし、原発事故被災地では、そうではない。今年も『寂しい春』だった事を僕は改めて知った。

名誉会長の挨拶のエッセーの中で「双葉バラ園」が紹介されてた。このバラ園は福島.東電原発事故から8キロ圏内にあり、今もって警戒区域に入っいるため、完全に廃墟と化している。事故前までは2万坪の広い敷地内に7千株の色とりどりバラが咲き誇っていた。ちょうど5月末の今頃から秋までがシーズンで観光の名所であった。しかし、今は草ぼうぼうの廃墟となってしまった。

同じ原発事故現場に近い富岡町にある夜の森公園の桜はどうなっているのだろうか。昔、僕はこの公園を訪れたことがあり5千本の桜並木に圧倒されたことがある。震災のあった年は確か立ち入り禁止だったが、今年は公園の一部区域が立ち入りが許されていた。その写真がネットに載っていたが、桜は見事に咲いていた。しかし、花見ができるのは一部区域で、立ち入り禁止区域には鉄条網が張られている。これではお花見どころではない。

原発事故に関連して今なお10万もの人が故郷に帰れず異郷で避難生活を送っている。双葉町のHPを見て改めて驚いた。災害対策本部のある町役場が双葉町からはるかに遠い埼玉県加須町にあり、その下に福島支局、茨城県のつくばと福島県内のいわきに連絡所、さらに町の商工会は二本松市に避難している。それぞれ理由があってのことだと思うが異常である。東電はやっと補償金の一部の支払いを始めたようだが、国は一生懸命やっているとは思うが、避難民が一日も早く故郷に帰れるようにお願いしたい。

      アフリカが近くなった!「少年ケニア」の時代から隔世

2013-05-30 05:44:24 | Weblog
日本政府の呼びかけによる「アフリカ開発会議」(TCAD)も今年で5回目を迎え定着した感じだ。6月1日日から横浜で開催されるが、これに関連した「アフリカン.フェアー」(5月30日ー6月2日)などの催しが横浜を中心に首都圏各地で目白押しに開かれている。折から大相撲でエジプト出身の大砂嵐が来場所十両昇進が決まるなど、随分とアフリカも近くなったものだ。

もう半世紀以上になるが1960年(昭和35年)は”アフリカの年”と呼ばれた。この年、一挙にナイジェリア、チャド、ザイール、ダオメ(現在のベナン)など17か国が一挙に独立した。当時新聞社の駆け出し記者だった僕は、新独立国の資料探しに奔走したが、日本語によるものはほとんどなかった。

当時アフリカといえば、日本では未踏のジャングル視されており、野口英世博士が黄熱病で倒れたアクラ(ガーナ)とかドイツのシュバイツア―博士が住民医療で活躍していたザボンが一部の人たちの間で知られているだけだった。子供たちには「少年ケニア」(山川惣治作)という絵入り物語が人気であった。当時英国の植民地であったケニアを舞台に、日本の少年「ワタル」がマタイ族の酋長とともに密林の中で繰り広げられる冒険物語であった。

今年の「アフリカン.フェアー」には、なんと49か国が参加しているという。まさに「少年ケニア」の時代から見れば隔世の感だ。わが家の隣人のカメルーン人も毎日横浜通いで多忙だ。僕もできれば「アフリカン.フェアー」に出かけて、カメルーンのコーヒでも買ってきたいと思っている。

           「アジア女性基金」とは何だったのか

2013-05-29 05:54:49 | Weblog
維新の会共同代表橋下徹大坂市長の慰安婦発言から、僕は改めて「女性のためのアジア平和基金」(アジア女性基金)とは、なんだったのか考えてみた。「アジア女性基金」は1995年、村山内閣の時、アジアの慰安婦問題解決のため政府が設置した民間機関である。2007年に所期の目的が達成できたとして解散しているが、橋下発言を見ていると、この問題は一向に「アジア女子基金」によって片付いたとは思えない。

たまたま、この基金について調べるためネット資料を渉猟していたら「15年戦争資料1999」というのがあった。「アジア女性基金」の歴史資料調査委員長だった和田春樹東大名誉教授らの調査報告をまとめたものである。そのひとつに、例のスマトラの日本軍による防空壕虐殺ウソを自著の中で紹介していたI.K 教授の「インドネシアにおける慰安婦調査」という論文もあった。

I.K教授は1993年名古屋の国立大学院の教授だったとき、地元の民放「中京テレビ」制作の”IANFUインドネシアの場合」に関わっているが、番組の中で、戦時中ジャワ駐屯の日本軍の数より多い、2万数千人の”慰安婦”が名乗り出たというので話題になった。I.K教授の”歴史考証を”を受けて「アジア女性基金」はインドネシア政府に対して、基金の適用を申しれたが、96年11月、インドネシア社会省は「”従軍慰安婦”については今の時点では存在したかどうかは不明だ。将来の史家が判断しよう。この問題(慰安婦に対する補償)はインドネシア側から持ち出したものではない。しかし、せっかくの日本側からの援助金だから、第三者を仲介したり個人に給与したりせず、、より大きな女性福祉の事業に使いたい」という声明を発表。その後高齢者福祉施設の建設資金にあてた。

「アジア女性基金」は、2007年の解散までに285人の慰安婦に対して5億8千万円が支払われているが、韓国では”償い金”を受けったのは僅か数人だという。一体全体「アジア基金」とはなんだったのか。基金の解散を受けて朝日新聞の社説は「この遺産を未来へ」と書いているが遺産とは何を指すのだろうか。まさか河野発言を指すのではあるまい。

          橋下代表は大阪市政に専念しては!

2013-05-28 05:39:57 | Weblog
日本維新の会の共同代表、橋下徹大阪市長の外国特派員記者会見に会場の定員200人を超す300人が集まり、入れなかったおよそ100人が会場外のモニターテレビで傍聴したという。馬鹿馬鹿しい。会見の司会者が冒頭”Its show time”といったそうだが、まさにその通りだ。橋下代表の人気は判ったが、その釈明は”大根役者”のそれで釈明にはなっていない。

橋下共同代表はあらかじめ用意していた釈明文の中で、韓国の”従軍慰安婦問題は1965年の日韓基本条約ですでに解決済みと書いているそうだが、その通りだ。”従軍慰安婦”問題は基本条約締結後に派生したものだ。当時の日本政府が強く突き放すべきであった。なのに、村山富市総理(当時)は「アジアのための女性基金」といった、まやかしの制度を作った。結果として韓国側が推定200人いるという従軍慰安婦で日本からの首相の”詫び状”と慰謝金を貰ったのは7人にすぎない。

橋下共同代表は慰安婦問題を正当化するつもりはないと発言した。これも正しい。しかし、一方で慰安婦に謝罪とお詫びしなければとも言った。だけど売春制度は洋の東西を問わず”神代の昔”から存在している。そんな認識なら、誤解を呼ぶような勇ましい発言をしなければよかったのだ。失礼だが、橋下共同代表は、慰安婦問題の本質が理解できてないようだ。問題を韓国の”従軍慰安婦”に絞りこんで追及すべきであった。せっかく”正論”を言っても理解されない。一歩身をひいて大阪市長に専念すべきではないだろうか。

        忘れられた「海軍記念日」とニミッツ提督

2013-05-27 05:15:10 | Weblog
5月27日は「海軍記念日」であった。108年前の明治38年(1905年)5月27日、東郷平八郎率いる日本帝国海軍は、対馬沖の日本海でロシアのバルチック艦隊38隻を撃破、日露戦争を勝利に導いた記念の日である。しかし、今、日本人のどのくらいの人が、この名誉ある日本海海戦の事を知り、「海軍記念日」の事を知っているのだろうかー。

日本海海戦の旗艦「三笠」は今、横須賀の「三笠公園」の一角に保存されているが、敗戦直後ソ連(当時)によって解体の危機にあった。また、保存のための財政的危機から、艦全体が進駐軍のレクリエーション施設となり、東郷司令長官の居室が「キャバレー.トーゴー」として利用されていた時代もあった。この荒廃状態に救いの手を差しのべた一人が当時のアメリカのチェスター.二ミッツ 太平洋艦隊司令長官で、自著の印税を全部復興のために寄贈した。

戦争末期、”いざ来い二ミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし”という「比島決戦の歌」が流行し、僕もこの歌を蛮声あげて歌った。そんなこともあって、二ミッツの名前は僕らの世代にはよく知られている。調べてみると、この二ミッツ提督は子供の時から日本海海戦に勝利した東郷平八郎提督の崇拝者で、戦災で焼失した東京原宿の東郷神社の再建にも、印税の全部を寄贈、協力している恩人なのだ。

戦後だいぶ経った頃だが、10万人の犠牲者を出した東京大空襲を指揮した米空軍のカーチス.ルメイ司令官に旭日大授賞が贈られた。しかし、チェスター.二ミッツ提督に日本政府が勲章を贈ったという話を聞いたことがない。



            東京の古刹の御忌会と施餓鬼会

2013-05-26 07:43:54 | Weblog

昨日、菩提寺の源空寺(浄土宗)の御忌会(ぎょぎえ),施餓鬼会(せがきえ)に久しぶりに老妻と一緒に参加した。東京浅草の川時代からの古刹で、檀家はほとんど三代以上続く江戸っ子である。墓地には著名な地理学者、伊能忠敬とその師、高橋至時の墓が並んでおり、隣には芝居でも有名な幡髄院長兵衛の墓もある。

広い本堂にはおよそ150人もの檀家が集まって、昼食のおときを共に食べた後、有り難いお説教を聞いた。法要には近くのお寺さんから応援もあって15人の僧侶が参集、ともにお念仏を唱えた。御忌会は浄土宗の宗祖、法然上人が80歳でお亡くなりになった記念日で、明治時代までは1月に行なわれていたが、今は大体季節の良い4,5月である。施餓鬼会は、宗派、お寺によって違うが旧盆の前が多いらしいが、源空j寺では御忌会と同じ日に行われる。

年に三回、春秋のお彼岸とお盆にしか墓参しない”仏教徒”だが、たまにこうした法要に参加するのもよい事だ。昨日のお説教の題目は「邂逅」であった。この世に生を受けて、いろいろの巡りあいがあり、法然上人よりも長寿で生きられているのは、やはり「邂逅」による有り難さである。毎日お念仏を唱えて感謝しようという趣旨だった。昔はお説教など馬鹿にしていたものだが、次第に解るようになってきたようだ。長寿のお蔭であろう。

        誤解を呼ぶアジ研の”日本の穴”紹介記事

2013-05-25 05:45:40 | Weblog
先日小ブログでスマトラ・ブキティンギの「日本の穴」について書いたところ、二人の方からコメントに添えてJETRO.アジア経済研究所の「ワールド.トレンド161号」(2009年2月)を送ってきた。”明暗を分けた歴史遺産”というタイトルで外部の筆者が、戦争中日本軍が労務者3千人を虐殺したという虚報が流布されていた「日本の穴」を訪れ、その印象記を書いている。僕はこれを読んで、あいかわらず現地のガイドたちが”虐殺”をまことしやかに観光客に説明しているの知った。

コメンテ―タ―の一人は僕に抗議に出かけるかと聞いてきたが、僕は”抗議”には出かけない。アジ姸の原稿の筆者は「日本の穴」を見た後、現地の観光案内所を訪れ、僕らが2004年現地で配布した「日本の穴」築造の真相を書いた冊子のコピーを受けとった。そしてその感想として日本側の証言はインドネシア側を納得させるには至っていない、と書いている。

僕は筆者を責めるつもりはないが、この原稿を掲載したアジ姸の扱い方が読者に誤解を与えたのではないかと思う。僕らが折角努力して「日本の穴」の現場から完全撤去した”虐殺”のレリーフの写真を何故まだ使用するのか。”明暗を分かつ”という原稿の切り方にも僕は抵抗を感じる。すでに、この問題は決着済みである。日イ政府関係者の間で”虐殺はなかった”という共通の歴史認識の上に立ちレリーフなど”虐殺”をにおわすものは撤去されたのだ。

僕が”抗議”に行かないのは”虐殺”はなかったが、雄大な自然景観が防空壕の建造によって破壊されたことは事実である。これに対して日本は直接何も補償していない。2004年、僕らがパンフを配布した際、協力してくれたパダン国立アンダラス大学の元教授は”ミナン人(西スマトラ住民)は誇り高い人たちです。我々の過ちををあまり追及しないで欲しい”と忠告を受けた。僕もそのように思う。出来れば、もっと日本人の観光客が現地を訪れ、ガイドに僕らが作ったパンフを渡して貰いたい。パンフには彼らがいう死体を投げ捨てた穴は、換気口だと明記してある。

          都会介護待機老人の地方受け入れ

2013-05-24 05:57:44 | Weblog
厚生労働省が急増する大都会での介護が必要な老人たちを地方の施設が受け入れてもらえないかと、検討に入ったそうだ。ネット情報によると首都圏には介護施設に入所を希望の老人が40万人ほどいるが、有料老人ホームは入所金が高く、毎月の必用経費もとても平均的年金生活者では払い切れない。保育施設の待機児童ならぬ介護施設への待機老人が一つの社会問題となっている。

機会があって、ここ数年福島県内の介護老人施設二か所を見学した。二つとも自然環境に恵まれ、施設も立派で働いている職員の方も親切だ。出来れば、僕も老後をこんな施設で送れればと思ったりもした。しかし、国の老人福祉対策の基本は在宅介護であって、こういった施設での長期滞在は許されないことになっている。

厚労省で検討中の地方施設への移送原案がどのようなものになるか不明だが、問題は大都会で待機中の老人の大半は低所得層である。国民年金の生活者か生活保護者である。それで思い出されるのは、数年前群馬県渋川市で起きた無許可の老人施設で起きた事故である。火災で10人の老人が焼死したが、うち6人は東京墨田区から依頼されて入所していた生活保護の老人であった。

福島県の老人施設をネットで調べてみると、介護付き老人ホームや住宅付き老人ホームは大都会よりは安いが、やはり一定額の入所金が必用であり、毎月の経費も15万円以下というのは少ない。比較的軽費ですむグループホーム型の施設はほとんどない。国は地方自治体へ補助金をだし、受け入れてもらおうというのだろうが、高齢化は地方とて同じである。絵に書いた餅にならないよう慎重に検討を願いたい。

   ”OFF LiMITS"(立入り禁止)が多かった占領下の米兵の犯罪

2013-05-23 05:30:20 | Weblog
産経新聞社会面におかしな記事が出ていた。(5月22日首都圏版)”佐世保で二米兵女性暴行の疑い”というベタ記事だが、このニュースソースが米軍機関紙「Stars and Stripes」(星条旗)なのだ。独立国家なのに、外国人が犯した犯罪のニュース源が、日本の捜査機関からではなく外国の新聞(電子版)なのだろうか。記事によると、被害者の女性が米軍基地に訴えたことによって犯罪が明るみに出たそうだ。長崎県警も事件について捜査中とあるが、僕はこれを読んで占領軍下だった頃の連合軍兵士の犯罪を想い出した。

敗戦直後(昭和22年頃まで)まだ紙面が少なかった日本の新聞の社会面に”色の黒い大男”といったような表現で毎日のように進駐軍兵士の暴行、強盗などの事件が載っていた。読者はまた進駐軍の犯罪かと、なかばあきらめながらも恐怖を感じたものだ。その当時東京の町々には”OFF Limits”(立入り禁止)と書いた表示が多かった。僕の記憶では三業地やキャバレーなど進駐軍が出入りするところが多かった。多分、進駐軍兵士による性犯罪が多かったので、警察が進駐軍当局にに頼んでとった措置だろう。

産経新聞の記事を読んで、なにか時計の針が60数年まえに戻ったような気になった。とっくに主権を回復した独立国家なのにいまだに沖縄を中心に米兵の犯罪が後をたたない。テレビの画面で、腕章をつけた米軍の兵士たちが沖縄の夜の繁華街をパトロールしている姿をみた。政府はきちんと対応しているとは思うが、さらにいっそう基地に犯罪防止策を申し出てほしい。場合によっては”OFF LIMITS”を復活したらどうだろうか。

            ご注意! 老人結核急増中

2013-05-22 05:35:21 | Weblog
昨年10月以来、それまで月に1回は会合で顔を合わせていた友人と急に連絡がとれなくなった。電話をかけてもいつも留守、連絡の葉書を出しても返事が返ってこない。(FAXもEメールもない)一昨年、夫人に先立たれ独り暮らしだが、隣に子供さん夫妻が住んでいると聞いているので孤独死の心配はない。個人のプライバシもあり、心もとなっかたが、それ以上深入りしなかった。

その友人から一昨日、半年ぶりに電話があり”結核で隔離され病院に入院中だった”と連絡があった。僕より年上の83歳だが、髪も黒く見かけも若く、毎日、近所をジョギングしていた健康体であった。加齢とは恐ろしい。思ってもいない病気になるものだ。友人の話だと結核の予兆はほとんどなく、糖尿病の治療中発見されたのだという。

たまたま今日の朝刊を見たら東京.小平市の精神病院で40代から70代までの入院患者と職員62名の集団結核が発生、うち二人が肺炎を起こして死亡している。ネット情報によると、最近、かっては国民病といわれた結核が復活の兆しがあり、特に老人の結核が急増中だという。1996年には全国で3,000人だったのが2008年には35,000人に増えている。僕らの世代は若かった時、結核が猛威を振るっていた。親しい友人の中にも何人か入院歴がある。しかし、今回の老人結核の友人はそれがない。再発ではないのである。医者の診断では加齢による免疫力の低下だそうである。

友人は年齢にしては元気で、過去に入院歴もなかった、しかし夫人に先立たれ、食生活が不規則になっていたのかもしれない。そこに結核の病魔が忍び込んできたのであろう。他人事ではない。日常の健康には一層気をつけよう。