「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

関西高野球部 御中

2006-03-31 07:11:09 | Weblog
関西高と早実との再試合をテレビで見た。二日間にわたって
両校選手が頑張った好試合だった。ただ,画竜点晴を欠いたのは
関西高ライトのエラー後の態度である。彼の失策をなじって
いるのではない。まだ試合の負けが決まったのではないのに何故、
あのように泣きじゃくるのかー。野球は一人でしているのではない。
チームの士気に影響してくる。

結果論だが、案の定その裏の攻撃だった。失策した選手に打順が
回ってきたが、力んで凡打に終った。ここで監督は何故,代打を
送らなかったのかー。あのように興奮している選手に好打は期待
出来ない。ふだん選手に接して選手の気持ちをつかんでいれば、
あそこで代打を送っても、あの選手は、失策した”罰”とは、
思わないはずだ。

人間万事「塞翁が馬」、失敗もあれば成功もある。失策した選手の
気持ちは充分察せられる。しかし、スポーツマンなのだ。どうぞ
この失敗を将来へ引きずらず、健闘を祈りたい。高校野球の歴史に
残る好試合に参加した誇りを持って。




同期の桜

2006-03-30 07:16:01 | Weblog
東京はいま桜が満開である。きのう病院帰りの旧友の
誘いで、近くの目黒川へお花見に出かけた。
コンクリートの護岸は風情はないが、両岸から競り
だした花のトンネルは見事であった。

友人とは昭和18年来の「同期の桜」である。戦争中は
空襲下、焼夷弾の雨の中を逃げまどい、動員先の工場では
空腹を抱えて秘密兵器の生産に当たった。戦後も戦後で
焼け跡整理に苦労した仲である。


貴様と俺とは同期の桜・・・・咲いた花なら散るのは
覚悟、見事散りましょう国のため
(西条八十・作詞 大村能章作曲 昭和19年ごろ)

動員先の軍歌演習でもこの歌も歌った。戦後60年
あまり、二人とも数えで喜寿の年を迎え、おたがいに
元気でいられる。あと5年早く、この世に生を受けて
いたら、この満開の桜を見ることが出来なかったかも
しれない。改めて平和の時代に感謝し、あの戦争で
散華された英霊に合掌する次第である。



「アジアは一つ」 日イ美術展

2006-03-29 07:40:14 | Weblog
日本・インドネシア美術展が4月3日まで東京銀座の
昭和通に面したアセアン・センターで開かれている。
(入場無料)
この道には門外漢の僕には、絵画というとパリの裏町、
オランダの運河などを描いた西欧の暗い油絵が頭に浮かぶ。
が、同じ絵画でもここに出品されているのは違う。


抜けるような青空をバックにしたバリ島の祭り、デフォルメ
された独特の宗教画、自然から抜け出てきたようなジャワの
田舎風景。日本から出品には現代風浮世絵、伝統の書画もある。
これらが渾然として一つの空気をかもし出している。
まさに「アジアは一つ」という感じだ。
出品のほとんどが素人の作品。搬入搬出、展示などすべて
ボランテイアの運営だそうだ。どうぞ、ご覧に行ってください。




 小学校の英語必修化に賛成

2006-03-28 08:08:45 | Weblog
中教審部会が小学校での英語必修化を求める審議報告をまとめた。
これによると、五、六年の高学年で平均週一回、英語の授業が
全国一律に教えられることになる。結論は賛成。問題は中味だ。

むかし大学受験で「小野啓」とか「赤尾のマメ単」で世話になった
世代は一般的にいって英語の読解力はあるが、彼らの使う英語は
”役にたたない”といわれている。たしかに、僕の友人の中にも
外国旅行で簡単な英語にドギマギしている者が多い。原因は当時の
英語教育だ。発音無視の英語だった。

早くも現場の教師から「発音指導に自信が持てない」という声が
上がっている。戦後「カムカム イングリシュ」の英語を始めて
ラジオで聞いたとき、学校英語とまるっきり違うのに驚いた。
平川先生の英語が英語であって、学校英語は受験のための英語,
街の進駐軍には通じなかった。子供たちに早くから英語にならさせる
のは賛成だが”通じない”英語を教えても意味がない。


「お釜おこし」とバリ島

2006-03-27 07:14:14 | Weblog
旧東海道品川宿近くの海雲寺は「荒神さま」として、江戸時代から庶民の
信仰を集めている。3月27,28日と11月27,28日の年に春秋の
二回大祭があり、各自の家にある木製の”おやしろ”をお寺の護摩の火で
浄めてもらい、千躰荒神のお札を貰って台所(かまど)に張る。このお札を
張ると家内安全、災難除けになるという信仰だ。

大祭日には、最寄の京急「青物横丁」駅からお寺まで、ぎっしりお店がならぶ。
ここでの昔からの名物は,かまどの神様にちなんだ「お釜おこし」である。
”かまどを起こす””という縁起もあって江戸の商人の間でなかなかの
人気だったという。

昨年12月バリ島へ旅行したさい、この紅白の「お釜おこし」を土産に持って
いった。貰ったバリ人は「これと同じものはバリにもあるよ。お供えものに
使います」といって、その名前をメモに書いてくれた。ご存知のようにバリは
ヒンズー教、密教と同じ信仰の「見ざる,聞かざる,言わざる」もある位だから
同じ「お釜おこし」があってもおかしくない。世界は狭い。



銃後の小国民文化 「支那の子」

2006-03-26 08:52:58 | Weblog
男の子の遊びはメンコとベーゴマ、女の子はまりつきとゴム縄跳びーこれが
戦前、というよりは、つい最近まで東京の街角で見られた子供の遊びの定番
だった。この姿が街角から消えて久しい。いつごろから消えたのかー。原因は
何なのかー。少子化、交通量の増加、塾通いなどなど。多分これらの複合化
からきているのだろう。

戦前の東京は子供であふれていた。銃後の小国民と呼ばれ国の宝物であった。
この小国民、とくに女の子の間で流行した毬つき歌に「支那の子」がある。
少年だった僕でさえ、この歌のメロデイを知っている。

# 支那の町の支那の子  親のない子はただ一人
  売られて行きます上海へ
# 父は遠き満州で    馬賊のために殺されて
  今では冷たい土の中 
# 母は海に飛び込んで  鯨の餌になりました
  坊やは良い子だねんねしな
# 明日の夢は何の夢   でんでん太鼓に笙の笛
  坊やは良い子だねんねしな

親友の妹さんが卓越な記憶力で四番まで覚えていた。内容を改めて読んでみて
驚いた。子守唄のようだが、歌詞は残酷そのもの、毬つき歌の歌詞ではない。
おそらく当時の少女たちは歌詞の内容を知らないで歌っていたのだろう。
メロデイは台湾の古くからの民謡だというが、よくわからない。

戦後、軍歌という軍歌はすべて禁止されたが、銃後の小国民は軍歌の中で育って
きた”申し子”だ。想い出は軍歌の中にある。いまさら軍歌を歌っても軍国主義の
復活とは誰も思わないだろう。むしろ「支那の子」や軍歌がはやった時代の文化、
小国民文化の再検証の方が次世代に貢献できると思うのだがー。どうだろう。 

東ティモールの青春

2006-03-25 07:56:13 | Weblog
東ティモールのアルカテイリ首相、ラモス・ホルタ外相らの一行が来日、きのう
東京の拓殖大学でシンポジウムがあった。僕も大学時代の学友と一緒にこれに出席した。
学友といっても年齢は僕より一回り上。戦争中一兵卒として東テイモールにいた。

アルカテイリ首相から国造りの現況説明があった。2002年に独立した世界で
一番新しい国である。長野県ほどの面積で、人口は東京の港区ぐらいだそうだ。
主な産業は農業、一人当たりのGNPは500米㌦弱という極貧国である。
このナイナイだらけの国を率いて3年、首相の話には苦闘がにじんでいたが、
一方では自信に満ちていた

僕の学友は60数年前のこの国を知っている。当時、この国はポルトガルの
植民地だったが、住民は僅かな農地にへばりつき”原始生活”同然の生活を
送っていた。日本軍は対岸のスラバヤから食糧を運んでいたが、戦争末期、海上が
封鎖された後は,島民に農業を指導、自給自足の生活だったという。

学友は現在86歳、アルカテイリ首相の話と自分の苦しかっ東ティモールでの
60余年前の体験とがオーバーラップして感無量という表情で、戦後生まれの
この新興国の政治家の話に聞き入っていた。


Jugun Ianfu(従軍慰安婦)

2006-03-24 07:22:40 | Weblog
昨日、友人から「インドネシアの従軍慰安婦」という原稿がFAXで5枚送られて
きた。インドネシア語で書かれていて判らない。読んで概略を教えてくれ、という
依頼であった。早速読んだが、正直いって”またか"、”まだか”と、うんざり、がっくりきた。

インドネシアのいわゆる「従軍慰安婦」問題は平成5年、日弁連の現地調査で始まった。
古都ジョクジャカルタのLDH(人権扶助協会)という団体と組んで新聞で元「従軍慰安婦」を
呼びかけたところ、1千2百人も名乗りを上げた。その後平成8年、元国立大学女性教授が
これを扇動、日本のテレビで放送した。さらに「アジアの女性基金」を利用して日イ間の政治問題化しようとした。

しかし、インドネシア政府は、この問題について冷静に対処「従軍慰安婦」問題は
存在したかどうかわからないが、折角ですから、有り難く援助を受け入れましょうーという要旨で日本から申し出のあった3億8千万円を受け取り、これを「従軍慰安婦」個人には渡さず、高齢者社会福祉推進事業、もよりのない老人ホームなどの建設などに使用した。

この推進事業は平成9年3月25日から始まり同18年3月24日、つまり今日で
終わる。僕宛に送られてきたFAXの発信元は前記ジョクジャカルタのLDHの関係者。原稿の結論は、推進事業は終っても「従軍慰安婦」問題は解決されていないーいう主旨。売名のためにやった女性教授の投じた馬鹿な一石が”Jugun
Ianfu”という虚名を残してしまった。




二つのキューバ危機

2006-03-23 07:34:38 | Weblog
キューバとの野球のTV最高視聴率が56%だった。(試合終了時 関東地区)
過去三番目の高視聴率だという。負けたキューバも、これに劣らぬものだった
ようだ。負けても健闘を讃え、チームを空港に迎えたカストロ首相は「TV視聴
者の急増で電力消費量も急増、停電危機の瀬戸際だった」と語った。

不真面目な発言で恐縮だが、危機が停電でよかった。44年前の1962年10月、キューバは核戦争瀬戸際の、いわゆる「キューバ危機}に見舞われた。ソ連
(当時)がキューバ国内にミサイルを持ち込んだのがきっかけで米ソが対立、
危うく全面核戦争に突入するところであった。ケネデイ、フルシチョフ両首脳の
英知で危機は避けられたが、当時全世界を震撼させたものだった。

1959年の革命以来、カストロ首相のトレードマークといえば戦闘服に戦闘帽
であった。でも最近はめっきりその姿をTVの画面で見ることが少なくなった。
準優勝の野球チームを出迎えたときも平服であった。それだけキューバの国内外
の情勢が安定してきた証拠であろう。改めてWBCでのキューバの健闘に拍手を
送りたい。



「世界一です」 オドール監督

2006-03-22 07:23:47 | Weblog
王ジャパンがWBCでキューバを破り世界一の王座を勝ち取った。"おめでとう、
おめでとう”ー久しぶりで日本中が一つとなり、喜びでわきたった。僕のような
洲崎、上井草球場時代からの超オールドプロ野球ファンにとって、日本が
野球で世界一の座につくなんて、とても考えられない、まさに奇跡である。

1949年10月、オドール監督率いるS・F シールズが来日、全日本
チームと6試合戦い、6タテにした。川上・赤バット、大下・青バットのいた
全日本も、この3A所属のチームにまったく歯が立たなかった。当時、旧
後楽園球場でコーラ売りのアルバイトをしていた僕を口惜しがらせたものだ。

オドール監督は戦前1931年と34年の2回 大リーグ・チームの一員として
来日、また戦後は46年についで51年にも再来日、日本のチームと試合をして
いる。大の親日家で日本の野球界に対する功労者である。この功績で監督は、
米国の野球関係者としては始めて2002年、日本の野球殿堂入りしている。
王ジャパンの世界一に一番驚き、かつ喜んでいるのはオドール監督かもしれない。