「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

石井一さん、旭日大綬章を辞退されたらどうですか

2014-08-31 05:32:12 | Weblog
民主党の石井一・元国家公安委員長(80)が旭日大綬賞受賞お祝いパーティの席上”拉致被害者横田めぐみさんらを返せと政府は騒ぎまくっているが、とっくに亡くなっている”と心ない発言をしている。政府が北朝鮮からの再調査結果を待っている、この微妙な時期に、たとえ引退しても、かっては拉致問題担当の要職にあった人物である。東北大震災直後の大変な時期に、この男は民主党の震災対策副委員長でありながら、フィリッピンでゴルフを楽しんでいた。なにかと本職の政治以外にゴッシップの多い人物に政府はなぜ勲章を授けるのだろうか。

旭日大綬賞といえば、広島、長崎原爆を落とし東京大空襲を指揮した、米国のカーチス・ルメイ空軍参謀長も1969年、日本政府から授与されている。航空自衛隊の創設に功績があったという理由だったそうだ。旭日大綬賞を受賞された大方の立派な方々には、申し訳ないが、日本の一般の国民感情に反した男に、こんな大きな勲章を与えたのであろうか。同じような感情が石井一氏にあるのも事実だ。

ビートルズのジョン.レノンは1969年、英国政府からMBE(大英帝国彰勲章)を授与されたが、時の政府のベトナム政策に抗議して勲章を辞退している。石井一氏は”自分ほど北朝鮮交渉について熟知している者はいない”と豪語しているそうだ、しかし、三年三か月の民主党政権下で、何か拉致問題は進展があったのであろうか。政府の政策に批判的ならば、いさぎよく、レノンのように勲章を辞退したらどうだろうか。ちなみに”従軍慰安婦”の発言で問題の河野洋平元官房長官は、旭日大綬章より格上の桐花大綬章を授かっておられる。

果物、野菜の一個売り考

2014-08-30 05:19:28 | Weblog
新聞の折り込み広告に近くのスーパーの月末95円均一セールのチラシが入ってきた。が、鮮魚、精肉だけで野菜はない。普段なら野菜がセールの目玉なのに、このところの天候不順による品不足で値上がりして95円ではわりに合わないのだろうか。勤め帰りの娘が老妻の求めに応じてキウリを買ってきたが一本百円もすると、たった一本だけ買ってきた。

いつも夏の終りのこの時季は、出来秋までの一時野菜や果物が値上がりする。しかし、今年はその値上がりが激しい。昨日病院帰りに駅に隣接するスーパーをのぞいたら、旬の秋刀魚が一匹230円で店頭に出ていた。まだ走りだから高いのは仕方がないが、秋刀魚にはつきものの大根が半分で120円もしている。長ネギ一本も115円である。これでは野菜売り場は閑散としていて閑古鳥が鳴いていた。

果物や野菜が個別で売られるようになったのはいつごろだろうか。昔の八百屋や果物店では、店頭に幾つか皿に盛られて売られていた。家庭が小人数化し、独身家庭が増えたのだろう。この数年、ス―パーでは一本単位、一個単位で売られるようになった。昨日もスーパーで、唯一つ百円を割る目玉商品として「さんつがる」が一個95円で売られていた。しかし、頭の固い僕は買う気になれない。

名前も聞いたことがない大型の新種の梨が一個135円で売られていた。戦前昭和の頃は梨といえば、9月中旬の町の秋祭りの頃に出回ってきた。長十郎が中心で、石梨という味気のない品種もあった。僕の当時の感覚では梨は安い庶民の果物であった。最近はスイカほどの大きさの梨もあり、一個数百円もするそうだ。ブドウも新種改良されて大型の粒の、舌をかみそうな名前の高級ブドウが多くなった。貧しかった戦前昭和の時代に育った僕らの世代は果物はやはり安くて沢山たべられるほうがよい。昭和一けたの貧しいサガである。




ウクライナ少女から”お誘い”のメール

2014-08-29 05:49:39 | Weblog
昨日から今朝(29日)にかけて、おかしなメールが三通届いた。送り人はいずれも外国名の女性からである。一通を紹介すると、ロシア生まれれ19歳のウクライナの少女からで、ボーイフレンドに振られて寂しい。今、decent(礼儀正しい]な相手とchat(話)したい、という内容。どれも一般的な西欧女性名で、恋人やボーイフレンドに捨てられての寂しさを強調、相手の同情を買おうというもの。中には直接、今夜デートしてくれという申込みさえある。どこで僕のアドレスを入手したのか気持ちが悪い。

僕はdecentな日本人男性だが、なにせ80歳過ぎの老人である。折角のお誘いだが、内容を読んだだけですぐ削除してしまつた。僕のアドレスは典型的な日本の苗字名とインドネシア語との結合だが、男性だか女性であるかはわからない。どうも数年前、ネットを通じてシンガポールの格安ホテルを申し込んだ際、IDが漏洩したものらしい。おかしなメールのほかに週に何回か東南アジアの格安案内と”お痩せになりませんか”といった健康サプルメントの広告Hpが英文で流れてくる。

10年近く、こうやってブログを書いているが、からきっしPCの知識はない。いつまでも初心者で、メールの交信とブログの対応しかできない。何かトラブルと娘や孫の世話にならざるを得ない。たしかにPCは便利で、自由に駆使出来れば便利である。しかし、一歩間違えば凶器にもなりかねない。金銭の絡むものには絶対に手をださない。巷の”オレオレ詐欺”がPCにも出現する可能性さえある。とてもロシア生まれのウクライナ少女の手にはひっからない。でも気をつけるにしくはない。

老人向け「深夜便」のストリーミング・サービス

2014-08-28 06:37:01 | Weblog
老人に人気なNHKラジオの「深夜便」が、僕ら世代にはつまらなくなった、という声をよく聞く。僕もその一人だが、理由はアンカーと称する司会者が若返り、内容が僕ら”超”年寄向きでなくなってきたことだ。人気の昔の歌番組コーナーで「Jポップス」特集をやられても懐かしを感じない。この番組の中で”自宅で簡単にストリーミング・サービスを受けられ、ダウンロードすれば再放送を楽しめます”と案内している。僕の周囲の老人に限って言えば、ほとんど誰も内容が理解できない。

”超”年寄りにとって受難の時代である。小ブログにいつも貴重なご意見を賜わるコメンテ―タの一人、lordyupaさんから先日、最近意味不明のカタカナ日本語が多すぎないかと,”コスプレ” ”ゆるキャラ”などの例をあげ、ついでに和製英語についても言及されている。lordyupaさんによれば、災害地での”lifeline"という言葉をよく耳にするが、これも和製英語で、欧米では”ultimate"が正しいのではないかという。

和製英語だけでなく、日本語に言い換え可能な英語が氾濫しすぎている。リスク、トラブル,アスリート、コンシェルジェ、コンプライアンス,インセンティブ、コラボレーション、ターン二ング・ポイントなどなど枚挙にいとまがない。PC時代、ある程度万国共通の横文字技術用語が必要なことはわかるが、lordyupaさんによれば、”アメリカ出羽之守”(アメリカでは、こうだ)式の評論家によってもたらされた横文字日本語が多いのではないかという。僕も同じ意見だが、もう一つ僕が気になるのは、だれでもが知っているつもりでタレント氏が多用する”チョメチョメ”式な流行語だ。こんなことを書くこと自体,歳をとった証拠かもしれないが、気配りのなくなった世代のために一言。

インドネシアの「脱走日本兵」の最後の一人

2014-08-27 05:22:47 | Weblog
戦後インドネシアに残留、同国の独立戦争に参加した元日本兵の一人、小野盛さん(94)が東ジャワのマランで亡くなった。小野さんは1979年、残留者の福祉、相互扶助のために組織された「福祉友の会」(Yayasan Warga Persahabatan)の発起メンバーの一人で、小野さんの逝去で同会の230人全員が亡くなられた。この半世紀、なにかと残留者とかかり合いがあった僕には、一つの時代が終わったとつくづく感じる。

僕が初めて残留者の一人Mさんと会ったのは1966年3月、新聞社の特派員として赴任した直後、インドネシア語の通訳をお願いしたときだ。Mさんは独立戦争に参加した功績とのことでインドネシア軍大尉の勲章をつけた在郷軍人服を着て毎日、僕の事務所に現れた。当時、インドネシア語が、まったく解からず、現地の事情にうとかった僕にとっては大変助かったが、1か月で仕事をお断りした。日常の会話の中に、悪魔払いの祈祷をしたら、口の中から蛙が沢山飛び出してきた、といった類の話が出てくるのだ。Mさんは戦前からのジャワ生まれの人だった。

当時日本は、賠償引き当て貿易が始まり、日本の商社はインドネシア語の出来る残留者を現地で雇用し始めた。それまで、残留者の存在は知られていたが、現地の社会の中に埋没していた。そして大部分の方が、折りらのインフレもあって生活に困っていた。「福祉友の会」が出来たのは1979年だが、当時でも日本の企業での働き口がなく、中には完全に社会からドロップアウトした困窮者が多かったみたいだ。「福祉友の会」発足の目的はその相互援助助け合いであった。

1990年の入国管理法の改正で、日系二世、三世が日本に長期滞在できるようになり、残留者の子弟も大挙して訪日したが、日本語が出来ず、習慣も異なり各地で問題が派生した。僕は縁があって、ボランティアとして支援活動をしたが、僕が従来、抱いていた残留者とは違った一面をその時、知った。残留者全員が戦後、日本人としての意気に燃えて独立戦争に参加したのではないということだ。僕の畏友の一人、毎日新聞OBの奥源三さん(故人)が著書のタイトルに「脱走日本兵」と書いたのがよく解る。憲兵など軍を脱走しなければ、連合軍に逮捕されるといったケースを除けば、果たして何人が、他国の独立に意気を燃やし戦争に参加したのだろうか。1万人もの日本兵が祖国への復員を断り、他国のために生命を捨ててまで戦っただろうか。話としては面白いが。

百歳の大先輩も「朝日」をやめた!

2014-08-26 05:28:31 | Weblog
千葉県の南房総市の息子さん宅で老後を送られていう百歳の大先輩から残暑見舞いをかねて近況の手紙を頂いた。便箋に縦書きの手紙は最近珍しいが、やはり僕ら老人にとっては懐かしく嬉しい。今年のこの暑さにもかかわらず、先輩は毎週火曜日と木曜日の二回、市のデー・サービスを楽しんでいるそうだ。百歳なのに福祉は「要介護1」とのこと。まさに老人の鑑(かがみ)である。

先輩は東京生まれの東京育ち、昨年までお孫さんと二人でご自宅に住んでいたが、昨年息子さん夫妻が心配して房総へ呼んだ。東京にいた時には、僕宛てにいつも朝日新聞の切り抜きを送ってくれていた。先輩は戦前からの朝日の愛読者であったが、今回は何故か、例の「従軍慰安婦」の朝日の訂正については、朝日ではなく、読売の切り抜きを送ってくれた。先輩は何もコメントしていないが、やはり朝日の報道姿勢にあきれて購読をやめたのかもしれない。

先輩は手紙に最近詠んだ◇敗戦といわず終戦顎涎(あご・よだれ)という一句が寄せられてあった。先輩は戦争中、中国大陸から南方に転戦、終戦はニューギニアに近い孤島で迎えている。すでに、小ブログでも紹介したが、先輩は、戦争というと、マスコミが「従軍慰安婦」だけを問題にするのに静かに怒りを覚えていたいたようだ。青春時代の5年間も戦地で送り、ロクに食べる物もなくお国のために戦ってきた世代である。それが「従軍慰安婦」だけが戦争だと思わせる世相に対しては顎涎の心境なのであろう。

朝日新聞も罪なものだ。せっかく数十年に渡って愛読してくれた読者を失ってしまった。”過ちては改むるに憚ることなかれ”(論語・学而)”過ちを改めざるこれを過ちという”(論語・衛霊公)だと思うのだがー。

南京ユース五輪 メダルラッシュなのに関心が薄いマスコミ

2014-08-25 06:34:08 | Weblog
南京で開催中のユース五輪はメダルラッシュなのに日本のマスコミの扱いは冷たい。24日だけで男子1万メートル競歩で小野川稔選手、女子3000メートルで高松望ムセンビ選手が優勝、体操の男子鉄棒で湯浅賢哉選手が1位でそれぞれ金メダルを獲得した。金メダルの数は、すでに終わった水泳200メートルの渡辺一平選手など合計6個になるが、僕の購読している新聞は小さくベタ扱いである。

ユース五輪はIOC(国際五輪委員会)公認の14歳から18歳までの若人の五輪で南京で開催中である。14歳~18歳といえば、今、国を上げて力をいれている2020年東京五輪では年齢的に主力選手であるが、僕のみる限りJOC(日本五輪委員会)の対応は、ちょっと首をかしげたくなる。それを受けてか、日本のマスコミも、自社特派員を出さず、共同通信の報道に頼っている。

金メダルを首からさげた選手たちはは記者会見で「これで東京五輪で優勝するのも夢ではなくなった」とそれぞれ喜びを語っていたが、まさに彼らの言うとおりだ。JOCは今大会に男女計78選手をを送り込んでいるが、2020年の東京五輪を考えれば、国際大会を体験させる絶好のチャンスであった。五輪の華ともいえる陸上に男女計7人、水泳8人といのはいかにも少ない。人気のサッカーやお家芸のバレー・ボールの不参加も理解できない。

南京ユース五輪に先立ってJOCは選手役員に対して、政治上の配慮から「Japan」のユニフォームを着て街中を歩かないなど幾つかの注意をしたらしいが、幸い問題は起きていないようだ。JOCがまさか、選手派遣に当たって、こういった政治配慮はなかったと思うが、国際大会を体験できる試金石だっただけに残念だ。

大都会の中の江戸庶民信仰

2014-08-24 06:13:45 | Weblog
江戸時代には目黒川沿いの貧村にすぎなかった東京五反田の天台宗の古刹に当時の庶民信仰の対象だった地蔵菩薩像が二つ残っている。昨日母方の本家の13回忌に参席した「長命山地蔵院徳蔵寺」(東京都品川区西五反田)の境内にその二つがあった。

その一つは「塩地蔵尊」と呼ばれる、高さ1mほどの立像で,貞亨4年(1687年)竜雲院一峰義天居士の菩提をともらうために安置されたもの。言い伝えによると、塩地蔵に供えられた塩を少量持ち帰って風呂に入れると、諸病に効験があるとされ、特に眼病に霊験あらたかだったという。

もう一つは「三輪地蔵尊」で、三代将軍綱吉に仕えた大奥の老女、三輪が元文3年(1738年)に寄贈されたもので、右の膝を折り、左脚を下に下ろした珍しい石像。虫歯の痛みをとる霊験があるとされているが、もしかすると、膝の痛みにも効き目があったのかもしれない。

徳蔵寺は天正年間(1573年―91年)梁誉道元によって今の地に草創された古刹だが、明治時代に国鉄(JR)が近くを走り、戦後は高速道路が上を通って建物もコンクリート造りの近代的建物にさま変わりしたが、直接戦災には会わなかった。
徳蔵寺の周囲は今や高層のビル街になっているが、母方の本家のビル前には、江戸時代の庚申塔が、関東大震災や戦災にも関わらず残り、毎日、供花がたえない。

曾祖母 祖父の”七十回忌”

2014-08-23 05:29:22 | Weblog
母方の本家の当主から父親の十三回忌に当たり曾祖母と祖父の”七十回忌”も執り行いたいから、生前の故人を知っている僕に献杯の音頭をとってくれと依頼があった。仏教では五十回忌までが正式な回忌だが、ご先祖を偲んで法要をすることは別に悪い事ではない。喜んでお引き受けすることにした。

”七十回忌”に当たる年は昭和20年である。敗戦の年で日本全体が大変な年であった。本家でもこの年、江戸時代から続いた家が3月の東京下町空襲の後、強制疎開に会い、取り壊された。一家は栃木県の葛生に疎開したが、馴れぬ生活と高齢で曾祖母は82歳で、戦後すぐの8月27日、疎開先で他界した。僕の叔父にあたる当主の祖父も肺ガンになり、戦後、東京の病院に車で搬送されたが21年1月2日、64歳で亡くなっている。二人とも当時としては高齢であったが、戦争が寿命を早めたのも間違いない。

東京では最近、葬式でさえ簡素化の傾向にあり、いわんや回忌法要となると49日まで繰り上げて行われ、年回忌もせいぜい三年忌までである。このように十三回忌まで遠縁を呼んで行われることは珍しくなってきた。僕は献杯の挨拶の中で、当主の父親が18年6月、海外の戦地から除隊になってきた日の、僕の亡父の日記を披露した。親族から隣近所まで6人も朝早くから市川の国府台の兵舎まで、迎えに行き、帰宅してからは夜遅くまで祝宴を開いていた事が書いてあった。当時の日本は一家の絆が今よりずーつと濃く、隣近所の付き合いも深かった。それを言いたかったのだ。

いつまでも子供だと思っていた当主も、従兄が戦地から帰国してから誕生しており今年70歳、古希の歳のお祝いであった。明治生まれの古兵で、戦況もまだそれほど、厳しくなかったのが幸いした。除隊がなければ、当主もこの世に存在しなかった。

LCC(格安航空)で海外旅行か卒業延期か

2014-08-22 05:25:42 | Weblog
男の孫の一人が今日、関西空港発のLCC(格安航空)機でクアラルンプール経由、インドのコルカタへ向かう。孫は今年3月大学卒業予定だったが、9月まで延期し、その間、語学実地研修を兼ねて、今回は自分の研究分野のインド、ネパール、バングラデイシュを回り、来年2月まで就労ビサでメルボルンに滞在、英語をブラッシュ・アップしようという計画だ。孫は昨年秋にもLCCでマレーシア、インドネシア、インド、トルコを50日間旅している。大学も僕が卒業した60余年前とは随分と様変わりし、若者の考え方も変ってきたものだ。

僕は戦後の新制大学第一期の卒業だが、当時は何処の大学も4月に入学、7月までが一学期、夏休みがあって9月から12月までが2学期、そして1月~3月が3学期で、そして卒業と画一的だった。企業側もこれに合わせて4月に新入社員をとる仕組みになっていた。ところが、数年前から日本の大学の中にも、欧米の大学にならって、お互いの留学を容易にするため9月新学期、学期も年2回のセメスター制度をとるところも出てきた。孫の大学は正式にはそうではないが、学生の中には自分の意思で9月卒業を選ぶ者も出てきた。

孫の場合もそうだ。昨年のLCCによる貧乏旅行を通じて南アジア圏に関心が深まり、幸い、来年4月からインドの外資系の会社に就職が内定している。祖父としては、一日も早く初孫の卒業免状をみたい気持ちもないでもないが、孫の長い人生である。それに自分の人生を振り返ってみても、自由に自分の時間が持てるのは若い時しかない。孫の将来に幸多かれと、鹿島立ちを祝って老妻とささやかに乾杯した。