沖縄県浦添市の前田小学校付近の道路拡張工事現場から旧日本軍兵士のご遺骨が鉄兜、地下足袋姿で発見された。ご遺骨のそばには、銃剣、水稲、時計などと一緒に「田端」という印鑑もあった。沖縄戦史によると、このあたりは、昭和20年4月から6月にかけて日本軍第24師団歩兵32連隊と米軍との間で激戦があった場所だ。僕は戦後1990年代、JICA(国際協力事業団)の仕事で、前田高地にある沖縄国際センターに数回宿泊しているが、恥ずかしいことに、この辺りが激戦地で沢山の方がお亡くなりになっていたのを知らなかった。
今回発見されたご遺骨は、前田高地をめぐる激戦で亡くなられた第24師団の兵士であることは間違いない。僕は改めて第24師団の師団史を調べてみて、その悲運に同情した。第24師団は昭和14年、満州(中国東北部)ハルピンで編成された部隊だが、16年12月大東亜戦争勃発とともに南方作戦に転戦した。師団の一部は太平洋上の孤島、メレヨン島に派遣され基地造りに従事したが、戦争の激化とともに島への補給線が絶たれ四分の三の方が餓死している。師団の別の部隊はサイパン島に向かったが、途中で輸送船が沈没、やっとサイパン島に上陸した部隊も最終的には玉砕してる。
師団の主力は19年7月、米軍上陸前のひっ迫した情勢の中で沖縄の守備についたが、翌20年3月には慶良間諸島に米軍が上陸、4月には本島にも上陸してきた。師団は首都首里をめぐる攻防戦の一翼をになったが、物量を誇る米軍の前には、ひとたまりもなかった。ご遺体には申し訳ないが、軍靴ではなく地下足袋姿であり、おそらく持っていた銃も三八銃(明治38年製)に違いない。それにしても戦後67年も経っているのに、こうしたご遺骨が発見されるというのは痛ましいかぎりだ。
今回発見されたご遺骨は、前田高地をめぐる激戦で亡くなられた第24師団の兵士であることは間違いない。僕は改めて第24師団の師団史を調べてみて、その悲運に同情した。第24師団は昭和14年、満州(中国東北部)ハルピンで編成された部隊だが、16年12月大東亜戦争勃発とともに南方作戦に転戦した。師団の一部は太平洋上の孤島、メレヨン島に派遣され基地造りに従事したが、戦争の激化とともに島への補給線が絶たれ四分の三の方が餓死している。師団の別の部隊はサイパン島に向かったが、途中で輸送船が沈没、やっとサイパン島に上陸した部隊も最終的には玉砕してる。
師団の主力は19年7月、米軍上陸前のひっ迫した情勢の中で沖縄の守備についたが、翌20年3月には慶良間諸島に米軍が上陸、4月には本島にも上陸してきた。師団は首都首里をめぐる攻防戦の一翼をになったが、物量を誇る米軍の前には、ひとたまりもなかった。ご遺体には申し訳ないが、軍靴ではなく地下足袋姿であり、おそらく持っていた銃も三八銃(明治38年製)に違いない。それにしても戦後67年も経っているのに、こうしたご遺骨が発見されるというのは痛ましいかぎりだ。