「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”Abe is sleepimg” 総理の過密なスケジュール

2015-03-31 06:20:06 | Weblog
安倍総理がシンガポールのリークアンユー初代首相の国葬に参加した際、式場で目を閉じている顔が激写され”Abe is sleeping"として世界のネット上で話題にになっている。僕もそれを見たが、眠っているのか、目を閉じて瞑目しているのか判らない。しかし、仮に総理が一瞬、睡魔に襲われ、とろっとしたからっといって責められない。総理のスケジュールを見ると、余りににも過密すぎる。早朝、日本を発って7時間半の飛行の後、僅か7時間の滞在で色々と日程をこなし、トンボ返りではまだ60歳と”若い”総理でも、過酷すぎる。

週末から3日間、外出の機会に恵まれ電車に乗って気がついたのは、ほとんどの乗客が手を動かしてスマホに”戯れて”いることだ。時間帯にもよるのであろうが、昔、僕が現役だった頃、座席の乗客は”疲れ果てた”ように、老いも若きも目を閉じて座っていたものだ。その風景は、外国人には珍しく映るらしく、複数の外国人から理由を質問されたことがあった。今でもテレビの国会中継を見ると、閣僚席や議員席で、同じような風景を見ることがある。必ずしも居眠りしているわけではないと思うが、やはり不見識に映る。

”Abe is sleeping"の激写写真もそうである。写真をみたTwitterの中には、葬儀の最中に居眠りとはあまりにも失礼だ”と酷評している。おせっかいな日本の新聞評の中にも、総理の無礼は国会でも問題視されようと書いているが、まさか良識ある日本の野党が国会でこれを取り上げるとは思わないが。問題なのは、いくら体力に自信があるといっても、このような過密なスケジュールを組むことである。一国の指導者である。周囲はもっと総理の健康に配慮すべきである。

大東亜戦争の聞き取り調査(3)アチェ義勇軍教官

2015-03-30 06:12:45 | Weblog
昨日、インドネシアの郷土防衛義勇軍(略称義勇軍=PETA(Pembela Tanah Air)の研究家、長谷川司さんを戦時中スマトラのアチェで義勇軍の教官をしていた後安克己さん(94)を紹介するため、東京郊外の有料老人ホームに訪ねた。後安さんはご高齢にもかかわらず、かくしゃくとお元気で、ご自分でパソコンを駆使して作成された資料を用意して僕らを迎えてくれた。後安さんは大東亜戦争中、アチェのインド洋に面するタバトアンにあったアチェ義勇軍中隊つき教官をされていた方だ。

インドネシアの義勇軍は、戦争末期に近い昭和18年10月、日本軍の兵力不足を補うため、現地で”郷土防衛”目的に結成された軍隊で、日本の敗戦時には全土で3万8千人の大きな組織になり、これが後年インドネシアがオランダと間の独立戦争を戦ったさいの中核となり、勝利に導き独立を達成した。

日本での義勇軍の研究はジャワについては進んでいるが、スマトラ義勇軍はまだ組織的な解明はなされていない。例えば、スマトラ駐屯日本軍の第25軍軍司令部顧問であったマジッド,ウスマン氏(故人)の発意でスマトラ義勇軍は、結成されたとされている(ウスマン氏夫人、日本名長田周子さん(100)ジャカルタ居住証言)が、日本ではウスマン氏の名前さえ忘れかけている。

従軍世代はおろか、戦争の次の継承者であるはずの昭和1ケタさえ高齢になってきている。日本とインドネシアとが今のような友好関係にあるのは、一つには先人たちお蔭だと僕は思っている。長谷川さんたち戦争を知らない世代が、義勇軍の研究を初め、3年余りの日本軍政期に再び光をあて、「歴史戦争の同盟国であるインドネシア」(雑誌正論4月号 長谷川司)との友好増進に期待すること大である。

大東亜戦争聞き取り調査(2)敵性国人抑留所所長

2015-03-29 05:11:09 | Weblog
在京のインドネシアの会にはいつも顔を出し写真を撮っていた池上信雄さん(95)を励ます会が昨日、ごく懇意の有志だけであった。池上さんは戦争中北スマトラの山奥にあった、和蘭人など民間人を収容する「敵性国人抑留所所長の陸軍大尉であった。敗戦後、捕虜収容所や民間人抑留所関係の日本人は戦犯容疑で逮捕され、死刑などの極刑に処せられたが、池上さんは一度逮捕されたものの、抑留されていた和蘭人の嘆願書によって、釈放されたという珍しい経歴の持ち主だ。

30数年前、僕は池上さんと在日インドネシア大使館主催のインドネシア講習会で、机を並べて勉強した仲だ。当時、池上さんは大手ゼネコンを退社したばかりであったが、戦時中の南方の軍政を調査いしている、僕に対して、大勢の方を紹介してくれ、資料を提供してくれた。その時の話で、僕が今でもまだ覚えているのは、和蘭の抑留者から池上さんに対して釈放嘆願書が出たのは、一つには池上さんが英語ができ、和蘭人との意思疎通が出来たからだと、言われたことだ。池上さんは大正生まれの日本人には珍しく、大学時代、戦前都心にあった唯一の「井上英会話学校」に通って”会話”が達者だった。

戦後の、いわゆる連合軍BC級裁判で、旧蘭印地区12か所の和蘭法廷は、連合国中最も多い236人の死刑者が出ている。その中で一番多いのは捕虜収容所と敵性国人抑留所の関係者である。バタビア(ジャカルタ)法廷で死刑第一号になったS大尉も池上さんと同じ学徒出の大尉であった。起訴理由を見ると、捕虜を虐待したとあるが、S大尉が直接手を下したのではなかった。多分に報復的な裁判であった。

高野山には戦後の連合軍裁判で亡くなられた「昭和受難者」を祀る慰霊碑があり、毎年一回、関係者の間で法要が行われているが、車イス生活になるまで、池上さんは毎年かかさず法要に参加していた。池上さんは昨日の会を喜ばれ「パンジャン.ウムール」(長寿)の会をまた開こうと、言われていたが、車イスに載せ、会場までお連れする家族の方が大変である。

大東亜戦争の聞き取り調査(1)セレベス新聞社

2015-03-28 06:21:49 | Weblog
昨日、スラウェシ(インドネシア)研究会の会合に出席した。会合には戦時下、マカッサルで現地人向けに発行してた、マレー語の新聞「Pewarta Selebes」(セレベス公報)の編集に携わっていた黒崎久さん(96)も講師として招かれた。黒崎さんは昭和18年12月、当時毎日新聞が海軍の委託で南方に進出したセレベス新聞社に出向した。セレベス新聞社は、日本語の新聞「セレベス新聞」と「Pewarta Selebes」をマカッサルとメナドで約3万部発行していた。

黒崎さんは大学での専攻がマレー語であったので「Pewarta Selebes」に所属したが、「Pewarta Selebes」の日本人スタッフは5人であった。編集長は戦前からの蘭印生活が長い近藤三郎さんや同じくマレー語が堪能の花岡泰隆さんがいた。新聞は主として、同盟通信(共同通信の前身)の記事を中心に海軍民政部の意を受けた宣撫工作的な記事が多かった。

昨日の会合にはスラウェシ研究会の長老、粟竹章ニさん(89)も出席した。粟竹さんは戦争中、海軍軍属としてマカッサルに勤務、偶然にも黒崎さんがいたセレベス新聞社と通り一つ隔てた場所に住んでいて、昭和21年、日本に帰る復員船も同じであった。お二人は、当時はお互いに知らない中であったが、共通の体験をされており話がはずんだ。研究会のメンバーは、ほとんど戦後マカッサルに勤務した人たちで、お二人の話は、スラウェシ研究に役立つものだった。

戦後70年の節目の年で、大東亜戦争についての関心が深まっている。しかし、直接戦地に赴き従軍した世代はほとんど90歳以上で、残念ながら当時の体験をお聞きする機会が少なくなってきた。まったく偶然なのだが、僕は昨日の黒崎さんを皮切りに連続3日間、90歳以上の先輩たちから、従軍体験をお聞きする機会に恵まれた。

昭和30年(1955年)生まれ境界の世代交代論

2015-03-27 05:52:09 | Weblog
元外交官で評論家の宮家邦彦氏(昭和28年生まれ)が産経新聞のコラム「オピニオン」欄(3月26日付け首都圏版)に”日本の世代交代を考える”という世代交代論を書いていた。僕なりにざっつと解釈してみると、鳩山由紀夫,菅直人(民主党両元総理)で代表される”空想的平和主義”の時代は終わり、昭和30年(1955年)生まれ前後の、いわゆる”ノンポリ”(政治的無関心)といわれた世代の時代に入ってきた、というのである。

知人(昭和34年生まれ)から執筆原稿が載ったと、”新しい日本を創る提言誌”「Voice」の贈呈を受けた。読むと、別の知り合い(49年生まれ)の玉稿も掲載されている。この月刊誌には、執筆者の紹介欄に生年月日が書いてあるが、戦前生まれは作家の曾野綾子さん他二人だけ、戦後の、団塊世代も二人しかいない。これに対して、昭和30年前後以降の世代が15人と半数以上を占めている。

改めて世代交代を感じて、安倍内閣の閣僚の年齢を調べてみたら、安倍総理の29年生まれを初め岸田外相(32年)中谷防衛相(36年)石破地方創生担当相(36年)林農水相(36年)高市総務相(36年)上川法相(28年)有村行政改革相(45年)と、この世代が8人もいる。これに対して団塊世代は菅官房長官(23年)のほか7人である。着実に世代交代は進んでいる。

宮家氏の記事によると、先日仙台で"G1サミット”という各界の若手指導者の会合があったが、主催者は参加の条件として”昭和30年以降生まれ”としていたそうだ。何故、昭和30年で切ったのか、知らないが、行動方針は”批判より提案”だそうだが、宮家氏は原稿の最後に”ようやく、まっとうな国になり始めてきた。これを次世代に引き継ぐべきだ”と結んでいるが、僕も同感だ。”空想的平和主義”世代が、危うく国を滅ぼしかけていた。

誤解を呼ぶ無意味な総理の“我が軍”発言

2015-03-26 06:00:24 | Weblog
天皇皇后両陛下が来月8日―9日パラオ諸島の激戦地ぺリリユー島へ慰霊訪問されるが先日、これに先立って戦闘の生き残りの元日本兵二人を皇居に招かれ懇談された。その場面をテレビで見たがNHKのアナウンサーが、そのうちの一人の肩書を”海軍上等兵”と呼んでいた。旧海軍には”上等兵”という階級はない。詰まらない指摘だが、戦争体験世代には、戦後70年の歳月を実感した。

安倍総理が参院予算委の質疑の中で、自衛隊を”我が軍”呼ばわりしたとして、民主党など野党が大騒ぎしている。憲法九条第二項には,陸海空その他の戦力は保持しない、と規定している。これからみれば、総理の”我が軍”発言は違和感がある。自衛隊は「軍隊」とは違うといっても陸海空の機能を備えている。憲法改正を目指す、安倍内閣にとっては、この九条改正は譲れないのは理解できる。

僕は憲法改正には反対ではない。戦後70年近く立って、占領軍の”お仕着せ”的色彩の強い今の憲法には矛盾もあり、現代に即していない点もある。「自衛隊」もそうである。誰が見ても「軍隊」である。安倍総理が口を滑らし”我が軍”と発言するのも理解できる。しかし、”我が軍”即、あの戦争の悲惨な想い出に通じる世代もおり、一方的に戦後の「平和憲法」をおし戴き、時代の変化に対応でいない世代もいる。

言葉尻をとらえるわけではないが、総理の「我が軍」発言は乱暴で、誤解を呼ぶ。先日、半可な「八紘一宇」発言で波紋をよんだ女性議員もいたが、やはり、総理はきちんと丁寧に言葉を選んで発言すべきだ。憲法改正―徴兵―戦争と一方的に信じている、戦争実体験の無いノーベル受章作家もおり、それ以上に総理の「70年談話」にケチをつけたい近隣諸国もいるのだから。

”竹馬の友”の「おび天」の土産と飫肥杉

2015-03-25 05:43:00 | Weblog
近くに住む70年来の”竹馬の友”が家族旅行で九州に行ってきたと宮崎県日南名物の「おび天」を届けてくれた。「おび天」とは日南市の飫肥(おび)地方の名物の揚げ物である。江戸時代、飫肥城の殿様が、一度城内巡幸の際食べて”これは美味い”と推奨されたという、伝統的な食べ物だ。名前が「えび天」ではなくて「おび天」なのが面白い。

20数年前、僕はJICA(国際協力機構)の研修コーディ―ターとして途上国の林業研修員を連れて飫肥を訪れたことがある。飫肥は旧藩時代、財政難から杉の植林に力を入れてきた関係で、この地方で伐採される杉材は良質で、とくに造船材として有名だった。しかし、戦後安い外国材が輸入されてきて以来、飫肥はかってのような賑わいはなくなっていた。

ところが、最近この飫肥杉が注目されてきているという。韓国へ建築材として輸出され始めた。韓国は伝統的に森林資源に恵まれないそうだが、ここへきて建築ブームで、室内の装飾財として飫肥杉が人気なのだとのこと。韓国の森林自給率は10パ―セントだというから、これからの潜在的な需要も期待できそうである。

東京に住んでいると、政府が力を入れている「地方創生」が目に見えないが、飫肥のように着実に創成に努力している所もある。月並みの発想だが、政府は”地方創生”コンクールみたいな催しをして、毎年、地方創生に成功した市町村や事業主を表彰したりしたらどうか。農業大賞とか農業コンクールもあるが、これを全産業に当てはめて行ってはどうだろうか。”創生””創生”と叫んでも何かインセンテイブがあったほうがよい。

内戦状態のイエメン 半世紀前のタイズの写真

2015-03-24 05:24:47 | Weblog

イエメンのシーア派武装組織「フーシ」派が、同国三番目の都市、タイズの国際空港を占拠、支配下に置いたという。7か月前、「フーシ」派のクーデターによって首都サヌアを追われたハディ大統領は現在、南部の港湾都市アデンに暫定的に居住しているが、タイズは、そのアデンから150キロの地点にある。現地からの報道だと、アデンの大統領暫定住居もすでに銃爆撃を受け、まさに内戦状態だ。

53年前の1962年11月、僕はイエメン王国が崩壊したクーデター取材のため当時英国保護領だったアデンから空路サヌアへ向かったが、情勢が悪化し、途中のタイズ空港で降ろされてしまった。このため、アデンに陸路引き返さざるをえなかった。上の写真はその時のものである。道らしい道はなく、乾燥したワデイ(川床)の上で、車は何回もエンコした。

国連の潘基文総長は”我々の目の前でイエメンは崩壊している”と他人事のように言っているが、国際社会が支持しているハディ政権は崩壊寸前の危機にある。首都サヌアでは「フーシ派」への反撃なのだろうか、スンニ派を自称する「イスラム国」(IS)がシーア派のもモスクを爆発140人もの死者がでている。宗派と部族対立とが二重にも三重にもからみ、ぼくら異教徒に理解できない。国際社会はハディ政権をいつまでも支持できるのであろうか。

クンロク以下の大関陣の不甲斐なさ

2015-03-23 06:21:37 | Weblog
戦後すぐの時代から1970年代にかけて日本中のサリーマンが”憑かれた”ように麻雀に夢中になっていた時代があった。僕もその一人だが、その時代大相撲で毎場所9勝しか上げられない弱い大関のことをクンロク大関といった。クンロクとは麻雀の点数で9600点のこと。麻雀をやらない方には申し訳ないが、メンタンピンリーチという一般的な上がり方の一つである。

大相撲春場所が昨日、横綱白鵬の34回目の優勝でめでたく幕を閉じた。新関脇照ノ富士の大活躍もあって場所は15日間連日満員御礼の盛況だったが、一方では三大関、稀勢の里、琴奨菊、豪栄道がそれぞれ、9勝、8勝、8勝とやっと勝ち越す不甲斐なさだ。とくに豪栄道に至っては、昨年7月大関昇進後4場所の成績が、8.5.8.8勝と4場所の勝率が5割を割っている。若貴横綱の父親、初代貴ノ花も大関昇進4場所の成績は9勝、8勝、0勝、8勝とクンロク大関だったが、豪栄道は9勝すらできない。

大関昇進の基準は、最近は直前3場所の勝数が32勝とも33勝とも言われている。豪栄道も一応、この基準を満たしているわけだが、昇進すると何故勝てなくなるのであろうかー。今場所13勝した照ノ冨士に対して、早くも大関の声が上がっている。今場所の相撲を見る限り、大関、横綱の素質が感じられるが、この数場所あれだけ騒がれた遠藤が、思わぬ土俵上の怪我で欠場に追い込まれてたケースもある。

今場所の十両以下各段の優勝者がそろって怪我や病気で長期休場し、再起を期す力士たちである。怪我は相撲につきものというが、クンロク大関が勝てないのは怪我や病気を押して出場しているのだろうか。相撲協会は、力士たちの健康にもっと留意すべきではなかろうか。

春の彼岸の墓参り 断食祭前の墓参り

2015-03-22 05:58:31 | Weblog
昨日は国民の祝日「春分の日」であった。昭和23年制定の「祝日法」によれば”自然を讃え生物を愛しむ”日、これに対して「秋分の日」は”祖先を尊やみ、亡くなった人々を慕う”祝日である。しかし、一般には、「春分の日」「秋分の日」ともお彼岸の中日と呼ばれ、祖先の霊を偲び墓参に行く日とされている。

お彼岸はもともと仏教用語の「到彼岸」からきており、”煩悩の迷いの世界”「此岸」から”悟りの世界”「彼岸」へ到達する意だとのこと。昼の時間と夜の時間が同じで、到達距離が最も短いことから春秋二回、この日が彼岸の日とされている。しかし、何故この日に墓参りをするのか判らない。わが国だけの行事で、仏教の発祥の地インドでも直接仏教渡来の地である中国や韓国でもこの習慣はないそうである。

国民の大半がイスラム教徒であるインドネシアでは、断食明けの大祭”ハリラヤ”の前にお墓を清掃し家族でお参りする習慣がある。10数年前、スマトラのメダンに滞在していた時、僕の知り合いの元残留日本兵の二世は、華僑と結婚しイスラム教徒ではないが、やはり、この時期に英雄墓地に家族と墓参していた。

同じメダンの経験だが、マレー系のイスラム教徒宅にホームステイしていた時、知り合いが亡くなった。その死後の行事が、仏教と同じように一週間ごとに行われていた。知人にこれはイスラムの習慣かと尋ねたら知らないが、もしかすると、8-9世紀ごろスマトラが仏教王国(スリブジャヤ)であった頃の名残ではないかと答えた。真偽は解らないが、わが国のお彼岸の日の墓参りといい、宗教と庶民の習慣との関係には解からないことが多い。