「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

赤バット 青バット 紅梅キャラメル

2013-10-31 06:31:05 | Weblog
野球の神様、読売巨人軍の川上哲治監督が亡くなられた。巨人軍を11回も優勝させた名監督だが、僕らの世代には背番号16の巨人軍一塁手川上の豪快な打撃のほうが目に残っている。川上の赤バット、大下(セネターズ)の青バットとよく言われるが、調べてみると川上が赤バットを使用したのは戦後すぐの昭和22年のシーズンだけだったようだ。

戦争で中断されていたプロ野球の公式戦が復活したのは昭和21年のシーズンからだが、当時は学生野球の方がまだ人気があった。戦争が終わってまもなくの11月4日、僕は”弁当持ちで神宮外苑球場に野球見物”に行っている(亡父の日記)六大学野球のオール早慶戦だったような気するが、プロ野球も11月、東西対抗戦をやった記録も残っており、もしかするとこの試合だったかもしれない。同じくその当時の事のだだと思うのだが、満員の後楽園球場のスコアボードによじ登り観戦、ズボンを破った想い出もある。が、この試合には、なだプロ入り前の別当馨選手がセンターを守っていたからアマの試合だったのは間違いない。

プロ野球が巨人軍人気と相まって国民的に盛んになったのは、昭和24年以降ではないだろうか。特に当時の少年たちの人気は大変なものだった。少年たちはみな巨人軍のマークの野球帽をかぶっていた。その当時紅梅キャラメルが少年たちに好まれ、おまけの巨人軍選手のカードを集めて景品のミットやバットと交換するのが流行していた。今の70歳前後の方にはその想い出があるに違いない。

プロ野球も川上監督のV9時代に比べれば人気は落ちてきている。あのころは巨人軍の試合は全試合テレビで放映していた。今はめったにない。川上さんの逝去は一つの時代の終りを感じる。

65年前卒業した中学同期会の解散

2013-10-30 06:16:29 | Weblog
70年来の竹馬の友から共に卒業した旧制中学の同期会が解散する旨連絡があった。僕はこの同期会の運営の仕方に反対して10年ほど前から通知を貰わないことにしている。解散の理由は年々、参加者が減ってきたことにあるらしい。会員への連絡文によれば、今年の参加者は僅か5人にすぎない。65年前に卒業した仲間だが、まだ30人以上は元気でいる。しかし、同封の最近の消息欄は、ほとんどが白紙でただ欠席に○印しただけ、返事を寄越さない者もいる。

僕ら80歳を過ぎると、ほとんどが身体のどこかにガタが来ていて、よほどの限り夜の集まりは失礼している。なのに、この同期会は前から夜の飲み会にこだわっている。それも会場が学校と無関係な私鉄沿線の盛り場に固執している。かっては都内に住んでいた仲間も65年経った今ではほとんどが神奈川、埼玉、千葉の郊外に住んでいる。10年前、僕が会を辞めた理由も、これを指摘しても幹事が受け入れなかったからだ。

長々と書いた解散理由文の最後に、今後は通知は出さないが、来年の○月○日午後5時半に有志で集まろうと、同じ郊外の盛り場にある店の名前が書いてある。僕らは昭和18年に入学して23年に卒業した者と24年新制高校第一期生として卒業した者との合併同期会である。戦争中勤労動員で苦労を共にしたり、戦後食糧難の中で焼け跡整理をしたりした仲である。それだけに昔を思い出したくないというのだろうか。僕は逆に一緒に、過去のあの時代が逆に懐かしいのだが。昼間の会なら少なくとも10人以上は集まると思うのだが残念だ。


菅直人 みのもんた 全共闘世代のオツムのほど

2013-10-29 06:57:21 | Weblog
産経新聞首都圏版(10月28日付)5面に”菅元首相「原子力ムラ」の陰謀・・・「私も被害者」みのもんた氏降板に”という囲み記事があった。毎日ブログを更新している関係もあって時事問題には比較的敏感なのだが、この見出しだけ読んだのでは、何のことだか解からなかった。恥ずかしが「原子”カ”ムラ」と読み違えたほどだった。

あわてて 「コトバ.バンク」で「原子力ムラ」について調べたら「原子力発電をめぐる利権によって結ばれた産.官.学の特定の関係者によって構成された特定の社会的集団およびその関係者を揶揄したり批判を込めて使う用語」とあった。マスコミだけで通じる造語だろうが、産経新聞の記事によると、菅元首相は自分が総理の座を追われたのは、この「原子力ムラ」の陰謀の可能性がある。みのもんたがTBSの報道番組から降板したのも、みのもんたが番組で安倍総理と東電との関係を批判したからで、同じ陰謀だと自分のブログで書いているそうだ。

これを読んで僕は一体全体、この元総理のオツムのほどはどうなっているのか愕然とした。みのもんたは自分の次男が窃盗容疑で逮捕されたことに対して親の責任をとって番組を降板したのだ。もっとも、みのもんたの辞任記者会見をみたが、70歳近い男が泣いたり、笑ったり見苦しかったがー。菅元総理もみのもんたより2歳下の67歳である。二人ともいわゆる”全共闘世代である。この世代は鳩山由紀夫元総理といい、ちょっとオツムのほどがおかしい人が多い。80老の偏見かもしれないがそう思われる。










セレベス島にもいた残留元日本兵

2013-10-28 06:28:59 | Weblog
戦後もスラウェシ(セレベス)島に残留、インドネシア独立のためにゲリラ戦を展開、処刑された椛島一郎中尉の事は一部の関係者の間では知られていたが、このほど「スラウェシ島情報マガジン」管理者のご努力によるツゥイターの呼びかけで椛島中尉のお孫さんと、戦時中中尉の部下だった戦友との連絡がつき、電話で会話が出来た。

戦後インドネシア各地で旧日本軍関係者が敗戦後も祖国に帰国せず残留してインドネシア独立のために戦った。ジャカルタにある残留者組織「福祉友の会」が出版した「帰らなかった日本兵」によると、930名の方が独立戦争に参加したことになっている。しかし、この名簿の中には、スラウェシ島は一人も載っていないし記録もない。これは残留者の大半がジャワ、スマトラに残った方々で、その情報に基づくからである。

しかし、戦後10年以上経た1958年にモロタイ島で7人もの日本兵が発見されたり、さらにその16年後に台湾出身の中村輝夫さんが発見された例もある。非公式な情報では、昭和40年代、カリマンタンのバンジャルマシンで残留兵にあったという商社情報もある。セレベスでも「福祉友の会」情報にはないが、実際は椛島中尉のようなケースが実際にあった。

戦後の和蘭マカッサル裁判はバタヴィア(ジャカルタ)に次いで過酷なで34人もの刑死者を出しているが、調べると、このうち4人の方が戦後起きた対オランダゲリラ戦で死刑にされ、二人の方がそれぞれ5年の有罪判決を言い渡されている。椛島中尉や戦後連合軍裁判で刑死された方々の記録は歴史の表舞台からは消えかかっているが、当時の日本人の中には、こういった気持ちがあったことを後世に伝えたい。

わが家にまた”オレオレ詐欺”がやってきた!

2013-10-27 06:41:14 | Weblog
オレオレ詐欺”の電話が何年かぶりでわが家にかかってきた。最初僕が電話に出たが、若い男の声で、何を言っているのか要領をえない。”えっ””えっ”と聞き返していたら、傍らにいた老妻が代って出た。老妻は声から外国旅行中の孫だと、早やとちりし”もう東京に帰ってきたの”とトンチンカンなことを言っている。相手はそれに合わせて返事をしたらいが、老妻はやはりおかしいと思い”今、お母さんが家にいないから後でまた電話してくれ”と答えたら”ローソンから電話があったらよろしく” と電話をきった。もちろん再電話はなかった。

もう何年かも前”オレオレ詐欺”の初期のころ、やはり、わが家に電話がかかってきた。この時は最初に老妻が出たが”警察のものだが、お宅ののご主人が交通事故で妊娠中の女性をはねた。示談にするがおカネを用意してくれ”といった内容だった。老妻は僕が車を運転しないから、詐欺だと判断、それに応じて電話を長引かせた。老妻の合図で、その間、僕が警察に電話をした。交番からおまわりさんが駆け付けてくれたが寸での所で電話が切れてしまった。

警察庁のHPには”自分は大丈夫だ”と思っている者ほど詐欺にかかりやすいそうだ。確かに僕のまわりでも、あの人がと思う人がかかりそうになっている。犯人の手口が年々巧妙になっている。そこで、警察庁でも”オレオレ”の手口だけではないと思ったのだろう。一般から新しい名前を募集して”母さん助けてくれ詐欺”に改名した。にも拘らず、今日も70歳の女性が1千万円を超える大金を詐取されている、幸か不幸かわが家にはそんなおカネはないから大丈夫だが。
(写真は警察から届いた”ちょっと待った”振り込め詐欺”のPRグッズ)




日イ台三人の「大正生まれ」さん

2013-10-26 05:43:40 | Weblog
中部ジャワ(インドネシア)テマングン(Temanggun)の日本統治下の義勇軍だったバンバン.プルノモさんから伊豆大島の災害と福岡市の整形外科病院の事故について、お見舞いのメールが届いた。ジャワのこんな小さな町にまで、日本のニュースが伝えれているのに驚く一方で「大正生まれさん」(1926年)バンバンさんの変わらぬ日本への関心の強さに敬服した。

小ブログにコメントを頂戴しているハンドル.ネーム「大正生まれ」さんも大正14年(1925年)生まれで、今年米寿を迎えられたがお元気だ。コメンとを通じて知ったのだが「大正生まれさん」は戦争中大変な体験をされている。昭和17年,満17歳の誕生日を待たずに入隊した。多分海軍の通信学校だと思うが、卒業後南方基地に派遣され昭和21年復員するまでの4年間、零戦輸送機(DC型の改造機)の搭乗員として南の空を飛び続けた。高度3000㍍の空を西ニューギニアのバオのジャングルから、スラバヤ、マカッサルまで飛行した。敗戦間際には、南方基地で訓練された特攻隊員を内地の基地にまで運ぶ飛行にも従事した。

もう一人台湾の林大正さんも、名前からも判るように日本統治下の大正時代に生まれた方だ。戦争中は近衛第四歩兵連隊の兵士として、スマトラのアチェに駐屯、戦後台湾に復員後は、昭和22年2月28日の事件(中国本土から来た軍隊による台湾人虐殺事件)に巻き込まれ、山中ににげて九死に一生の体験をされている。

三人の「大正生まれさんは、昭和1ケタ生まれの僕よりはずーっと元気である。インドネシアのバンバンさんも戦後の独立戦争を体験している。三人とも、あの時代を生きてきた強運の持ち主だ。いつまでもお元気に活躍してください。

TPP交渉の行方と”攻めの農業”

2013-10-25 06:41:35 | Weblog
北海道の農業について最近二つのニュースが僕の目にとまった。一つは十勝の本別町農協が、遺伝子組み換えなしの町内産大豆「ユキホマレ」を台湾の台中市の食品スーパーに輸出することになったこと。量は少ないが、北海道産の大豆が輸出されるのは戦後初めての事だ。もう一つは、戦前全世界の7割を生産していた北見(旧野付牛)のハッカを復活させようと、現地で生産法人が発足したというニュースである。

昨日の参院予算員会で「日本維新の会」の片山虎之助議員が、TPP(環太平洋戦略的経済協定)交渉が、年内妥結を目指しているのに一向に政府から説明がないと批判していた。僕もそう思う。交渉事だから事前に内容を明かすことはできないが、政府は必要以上に”箝口(かんこう)令をしいているとしか思えない。しかし、僕みたいな農業問題について素人でも、TPP交渉妥結のために政府は農業主要5品目のいわゆる”聖域”を撤廃せざるをえないことは理解している。

問題はTPP以後の日本の農業である。大規模農家が自由にコメができるように減反(生産調整)助成金を廃止するという案が出ているが、果たして大丈夫なのだろうか。安倍総理のいう”美しい日本”が守れるのだろうか。生産性の悪い棚田などは耕作放棄地になるのではないか。そのためには政府は色々施策を考えていると思うが、おおげさにいえば、TPP参加後の日本の農業は開闢(かいびゃく)以来の転換期を迎える。本別の大豆も北見のハッカもTPP参加を見越した”攻めの農業”だろう。奮闘を祈る、

安倍総理は国会でゴルフの話をするな

2013-10-24 06:27:17 | Weblog
昨日の参院予算委で質問に立った民主党の増子輝彦議員(福島県選出)が”総理はゴルフがお好きのようで夏休み中随分楽しまれたようですが、私は東日本大震災以降、抑制しています”と切り出した。何をいわんとするかよく解からないが、どうも民主党は政策追及に妙手がないので、総理のゴルフ好きの批判に出る作戦に出たのであろうか。

先日も海江田代表が安倍総理のゴルフ好きを批判、総理が今の情勢をゴルフに喩えれば、グリーンの後に崖があるから、パターでバンカーから出すようなものだと言った点にふれ”私は長い間、ゴルフから遠ざかっている”と付言していた。僕も経験があるが、安倍総理の年代は何か憑かれたようにゴルフがしたくなる。夢にまで”ないす,ショットが出てきたことがあった。

僕は安倍総理にゴルフをするな、というのではない。総理という激職であり、健康維持のため休日ぐらい十分楽しんでもらいたい。しかし、たとえ話にせよ国会答弁でゴルフの話をされるのは如何がなものだろうか。総理の周囲にはゴルフ好きが多いかもしれないが、月に一回ゴルフを楽しむ人たちまで入れても、日本のゴルフ人口は800万人だといわれている。そして、その8割が男性である。一般の家庭の主婦にはバンカーだパターだといっても解からない。

それに、やはりゴルフはまだ金持ちのスポーツだ。首都圏では一日プレーすれば総費用は1万円ではおさまらない。一般の庶民からは遠い存在だ。国会審議での譬え話としては適切ではないと思う。

日本遺族会の慰霊碑”整理”事業

2013-10-23 06:22:31 | Weblog
昨日の衆院予算委員会で「日本維新の会」の山田宏議員が安倍総理の靖国神社参拝問題に関連して、フィリッピン.レイテ島の戦没者慰霊碑について質問していた。山田議員は最近同島を訪れ、荒れたままの慰霊碑を、写真に撮ってきた東大、慶応大、二人の調査結果を紹介、これについての見解を質した。

大東亜戦争の激戦地であった南方各地には、戦後生き残った戦友や遺族によって建てられた民間慰霊碑が数多くある。しかし歳月の経過で、関係者の老齢化もあって維持管理が難しくなってきている。そこで数年前から厚労省は日本遺族会など民間に委託して、その”整理”事業を行っている。

平成13年、僕は「日蘭戦争資料保存会」のメンバーと共にジャカルタの「墓地博物館公園」(Museum Prasasty)の一角に野ざらしにされていた広安挺身隊の慰霊碑再建を記念して、インドネシアを中心にした「南方各地慰霊碑一覧」という小冊子を発行した。僕らの狙いは、次世代に対して慰霊碑の所在を明らかにし、そのいわれを伝えたいというものだった。

ところが、平成20年、われわれのメンバーの一人である日本インドネシア美術協会の益子恒資さん(95)宛てに日本遺族会から連絡があり、僕らの造った「南方各地一覧」に記載されてある東カリマンタン.カランジュランにある慰霊碑を整理したいと申し入れてきた。この慰霊碑はカリマンタンでの戦争関係者が平成2年に建立したもので、今でも現地の人がきちんと維持管理している。日本遺族会は現地でのずさんな調査で、慰霊碑の管理者がすでに死亡というのが取り壊しの理由であった。

レイテ島にある慰霊碑について日本遺族会が調査したかどうかは不明だが、調査する場合には、きちんとした調査をしてもらいたい。どの慰霊碑も亡くなられた英霊への思いをこめて建てられたものである。日本遺族会のHPには”維持管理の不良のもの”は整理するとあるが、僕個人としては、とてもやりきれない気持ちだ、昭和30年遺骨収集船、大成丸が軟腐各地で遺骨収集の際、建立した慰霊碑の中には放置された状態のものもある。民間慰霊碑を整理する前に国としてやるべきことがあるのではないか。

人工関節置換手術への挑戦

2013-10-22 05:59:50 | Weblog
左膝の痛みが激しく先月から近所の整骨院に通っている。マッサージをしたり、スパイダル.テープを張ったりした療法で、たしかに痛みは緩んできた。歩行も幾分楽になってきた感じだ。1年間通院していた整形外科病院では、レントゲン写真もとらず、僕の申告に基づいて患部に5回注射したが、一向に良くならない。毎回、痛み止めというチューブ入りの薬をくれるだけだった。これに比べれば整骨院の療法は好いように思えた。

昨日家人の強い勧めで近所の別の総合病院へ行った。ネット情報で膝関節の権威の医師がいるとのこと。申し込んでから2週後である。早速レントゲンを撮ったら、左膝は加齢から骨が摩耗して空間ができ、このために湾曲している。なんでもないと思っていた右膝も左ほどではないが摩耗している。医師の診断は人口関節置換手術以外には回復はないという。そして簡単に手術の説明があったが、僕の場合、糖尿病の治療をうけており、その影響と先月膀胱ガン摘出手術を受けたばかりの体調であった。

結局、再度MRI検査をし、膀胱ガン治療で受けている抗ガン剤が置換手術後、感染症を併発しないかなどチェックしたうえで手術を行うことに決めた。正直いって80歳を越えた高齢で年に二回も麻酔をして手術するのはイヤだ。しかも4週間もの入院である。しかし、このまま膝の痛みを放置すれば、歩行が困難になり、寝たきり老人にもなりかねない。自分よりも周囲の看護の人に迷惑をかけることになる。それに、もうかなわぬ夢と思っていた、積み残した海外調査旅行も歩行が出来れば実現できるかもしれない。