「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”名誉の負傷”と廃兵院

2006-08-31 06:09:17 | Weblog
小ブログにコメントを寄せられたchobimameさんのブログに同感した。
終戦記念日の「祖父の想い出と慰霊の島」である。chobimameさんの
お祖父様は戦争で足に傷を負い十字の跡があったが、これについて
けっして詳しく説明しなかったという。
僕の知り合いにもシンガポールの上陸作戦で右足を切断されたA氏、
アンダマン島の戦闘で爆風でとばされ、腰に大ケガをしたB氏もいる。
やはりAB両氏とも自分の負った傷について進んで話をしようとは
しない。ご当人にとってはこれ以上嫌な想い出はない。

今はどうか知らないが、昔はよく小さい子が転んで傷をしたときなど
”名誉の負傷”と揶揄的に使った。当時僕らは戦傷は本当に名誉なことと
思っていたが、兵隊たちの間では”不名誉”なことで、銃後に搬送される
よりは”玉砕”したほうがよいーという考えも一部にあったようだ。

昭和30年代まで、繁華街やお祭りなどで白衣を着た義足の傷痍軍人が
アコーデオンでもの悲しい軍歌を歌って募金をしていた。当時はまだ
傷痍軍人の恩給も確立されていなかった。社会全体が貧しく身障者に
対する配慮もなかった。日露戦争時には、日本にも傷病兵の看護生活
施設の廃兵院があったが、今次の敗戦ではとてもそんな余裕もなかった。
今思えば当時の傷痍軍人の方々の生活は大変だったと思う。A級戦犯
容疑(不起訴)の家族が生活のために町中で”サンドイッチ・マン”を
していたのもこのころである。

パリでアンバリット(廃兵院)を見たことがあるが、過去の観光史跡
としてはよいが現実のものとしては、もうこんなものはいらない。










戦争の犠牲者と加害者

2006-08-30 05:47:28 | Weblog
NHKの深夜11時代のラジオ番組で61年目のアジアと戦争について
シリーズで放送している。たまたま28日と29日の2夜、日本人のフィ
リピン従軍経験者の当時の体験をビデオにして現地へ送る運動をして
いる若い日本人女性の話を聴いた。ビデオを見ずに批判しては申し訳
ないが、運動の出発点に誤りがり、間違えると折角の善意がかえって
悪影響を与えるのではないかと危惧した。

彼女のこの運動の起点は、数年前ネグロス島で聞いた現地人の悲惨な
戦争被害体験であった。戦後世代はほとんど戦争中の出来事について
知らされていないし勉強していない。現地人の体験が事実であるかど
うかは別として、彼女がこれを出発点にして戦争について関心をもち
この運動を始めた。それはそれでよいのだが、問題は現地人は被害者
日本人は一方的に加害者だという観点だ。

10数年前、早稲田、慶応、学習院の大學の先生方がスマトラの防空壕
で、日本軍が労務者が3千人を虐殺したという現地のデマを真に受けて
新聞や自分の本に書いた。三人とも日本国内でデマの真否を調査する
努力をしていない。頭から日本軍は加害者だと信じこんでいた。

戦争には加害者も被害者もない。全部被害者なのだ。戦争は理屈では
説明できない。かりに住民を殺した兵隊がいても、それは軍の命令による
リラクタントな行為で、彼も被害者である。戦争中の出来事は冷静に
史実の上にたって調査すべきである。虐殺があったのも事実である。
研究者はこれを直視して研究して欲しい。



 甘藷先生 青木昆陽を想う

2006-08-29 05:53:11 | Weblog
”救荒植物”という聞き慣れい言葉がある。飢饉の時でも出来る植物の
ことである。例えば甘藷、さつまいもがそうだ。江戸時代享保飢饉の際
さつまいもは多くの貧民を救った。この甘藷の普及を江戸幕府に進言、
その栽培法「蕃藷考」を著したのが、蘭学者の青木昆陽である。
きのう目黒不動の縁日、寺の裏にある昆陽の墓を妻と一緒に詣でた。
墓は昭和18年5月、国の史跡に指定されている。

そのころ戦争は激しさを増し、銃後の食糧は日増しにに不足してきた。
都会では家庭菜園や学校農園が造られ、さつまいもの栽培が奨励された。
そして戦争末期には、コメに代わってさつまいもは代用食として配給に
なった。僕ら当時の小国民は芋をご飯に炊き込んで食べたものだ。それも今の
ような紅赤、紅あずまといった美味しい品種ではない。沖縄といった形の
大きい味のない芋だった。まさに”救荒植物”であった。


いま、焼き芋は女性が好む"おやつ”であり、ときどき”おかず”として
我が家の食卓にも上る。”救荒植物”のイメージはない。しかし、戦争
による食糧難時代を経験している僕らにとっては依然”救荒植物”である。
食糧自給率が40%と先進国中最低のわが国のことだ。いつ”救荒植物”の
お世話にならないとも限らない。そういった日のこないことを心から願い
お不動さん名物の芋ようかんを二人で仲良く食べた。



毒蛾の発生と小規模開発

2006-08-28 06:01:17 | Weblog
近くの暗渠の桜並木から夏の終わりを告げる蝉時雨が今年も聞けた。
しかし、可哀そうなのは並木にまで戻れず、併行したコンクリートの
車道の上で命を絶えている蝉が年々増えていることだ。昔あれほど
いたシオカラ・トンボも麦わら・トンボも今年は姿をみせない。


猫の額のわが家の庭に毒蛾が異常発生した。やぶ椿にチャドクガが二
回目の孵化をしていた。娘婿が重装備をして駆除してくれたが、今まで
こんなことはなかったことだ。この面のことには、まったくうとい僕には
原因がわからないが、近所の小規模開発と関係があるように思えてならない。


家の周囲は戦前、昭和10年代初めに売り出された建売住宅地だ。
土地は地主のものだが、敷地は一区画が広く200坪(約660㎡)と
広い。ここにきて代が変わり、契約が切れたのであろうか、売りに
出されてきた。家の斜向かいの家も、この春ブルドーザーが入り
さら地になった。庭木は根こそぎ引っこ抜かれてしまった。200坪の
土地はいま5分割され、旗がたって売り出し中である。

素人考えだが、小規模開発で庭木が年々なくなったため、生存をかけた
ムシどもが、わが家の猫の額の庭の樹木にまで押し寄せてきたのであろうかー。
人間のエゴと自然との共生、難しい問題である。












おばあちゃんのフラ発表会

2006-08-27 06:01:45 | Weblog
きのう老妻の待ちに待ったフラダンスの発表会があった。主として
首都圏の公的機関の教室でフラを学ぶグループの合同発表会である。
会場は神楽坂近くの牛込箪笥町地域センターという新宿区の施設。
子育てを終えた世代から老後を楽しむおばあちゃん層まで約200
人が日頃のレッスンのほどを披露した。舞台のバックもなく、先生
自身が司会をするという”手造り”な催し。僕も”阿呆”の一人となって
見せて貰った。

僕の青春時代にもハワイアン・ブームがあった。昭和23年、あの
”晴れた空、そよぐ風、港出舟のドラの音高く”で始まる「憧れの
ハワイ航路」が流行ったころだ。大橋節夫のバンド「小さな竹の
橋の下」などのメロディが耳に残っている。しかしあくまで"憧れ”の
ものであった。今は違う。簡単に飛行機で行けるから年間180万の
日本人の観光客がハワイを訪れる。

身近になったハワイ、これを追い風にフラが女性の間で人気となって
ひさしい。わが老妻まで住区センターの教室通いしている。初歩ならば
簡単に踊れそうだし、衣装もTシャツにパウ・スカート、レイ、髪飾りが
あればじゅうぶん。なによりおカネのかからないのが魅力なのだろう。
”馬子にも衣装”(差別用語かな)のわが老妻のフラを見て当分、二人
とも介護のお世話にならずに済みそうだ、と安堵した次第。








関敬六との一期一会 

2006-08-26 06:08:22 | Weblog
あのトラさんこと渥美清の朋友だった関敬六が他界した。浅草をこよなく
愛した浅草の古き良き時代の最後の芸人の一人だった。芸能界にはうとく
知人もいない僕だが、一度だけ関敬六と会い話したことがある。昭和30年秋、
僕が”かけ出し記者”で上野・浅草方面のサツまわり(警察担当)をして
いたころだ。フランス座の楽屋で彼から話を聞いた。関敬六の履歴によると、
当時彼はまだ下積時代である。僕の記憶では彼はストリップの司会をして
いたが、派手な職業に似あわわず、律儀な人だなーとの印象を受けた。以来
半世紀以上、僕は彼に会っていなかった。

一期一会という言葉がある。茶の湯の心得で「茶会に臨む際は、その機会を
一生に一度のものとし、主客ともに誠意をつくせ」という意味だそうだ。
人の一生には数多くの人との出会いがある。1年365日、人生50年とし1日1人
に会ったとしても18万2,500人の人との出会いがある。この出会いの中でいま
何百人、何千人の人の記憶があるだろうかー。いわんや一期一会となるとなる
とー。

最近逝去された作家の吉村昭とも昭和53年、札幌でお会いした。子供の
大學の父兄会の会長をされていたころである。一言お話しただけで作風その
ままの誠実さがうかがわれた。やはり一期一会の精神であった。むかし取材で
力道山とも一度だけ話をしたことがあったが、その応対には誠実さがにじみ出て
いた。これも一期一会である。(敬称は省略)合掌


自由が丘の無人スタンド

2006-08-25 05:47:41 | Weblog
都民が一番住みたい町、自由が丘からほど近い住宅街にまだ無人スタンドが
ある。このあたりは戦前の"幻の五輪"計画で開発されかけたが、戦争で中止
となり、戦後かなり遅くまで畑があった地域だ。途中開発がストップされた目黒通
の上で当時中学生だった僕らは野球の真似事などして遊んだものだ。

夏場は老人にとってはどうしても運動不足になりがち。ときどき陽が完全に
上る前に坂道を自転車をこぎながら,この無人スタンドを訪れる。昨日は
ナスと冬瓜(とおーがん)と縞うりが置いてあった。さっそく珍しい冬瓜
(300円)と縞うり(200円)を買いコインをスタンドの上の菓子箱に入れた。
正直いって高いのか安いのかわからないが、土地で獲れた新鮮な野菜で
あるのには間違いない。

ところが、当然知っているものと思った縞うりの料理法を老妻が知らない
のだ。インターネットで調べると,南信・伊那谷地方の特産で粕漬にすると
美味しいとの教示があった。同じ”信濃の国"出身の老妻はそれを知らないでいた。
とにかく、物は試し、レシピに従って粕漬つくりに挑戦する。サケの肴に
最高だというのを信じて。

無人スタンドの主は”近所へのお裾分け”のつもりでオープンしたのだが、
最近は自由が丘のグルメ店のシェフが早朝来て大量に買って行くという。
数少なくなったスタンドの品を眺めながら申し訳なさそうに僕にいったが、
どなたの口でもよい。この新鮮な野菜が味あえるのならば。

環境省の"風呂敷大作戦”

2006-08-24 06:20:41 | Weblog
環境省が24日まで東京の庁舎で夏休み「子ども霞ヶ関見学デー」を開催
している。夏休みも残り少なくなって、子どもの「自由研究」のテーマ探し
に悩むお母さんたちは、この企画にとびつき会場は子どもづれの母親で
一杯だったと、テレビは伝えていた。身近な水の酸性度の検査、STOP
地球温暖化、燃料電池による体験ツアー、それに風呂敷のいろんな結び方
教室など母子の興味を引くものばかり。

僕の関心をひいたのは何故風呂敷が環境問題かであった。さっそく関連の
HPで調べてみたら、レジ袋の減量作戦が風呂敷普及の目的だった。驚いた
のは家庭ゴミの60%がレジ袋、その重量は60万㌧だという。このレジ袋の
ゴミを減らそうと始まったのが風呂敷の普及。寡聞にして知らなかったが
小池百合子・環境大臣考案の「もったい風呂敷」もすでに市販されている
とのことである。ペットボトルを再利用した布地で出来ている。

しかし、風呂敷はレジ袋を駆逐できるだろうかー。遠い記憶をたどり、
レジ袋以前の買物風景を思いだしてみたが、風呂敷だけ持って買物へ
出かけた主婦はいなかったように思う。なにかしらの買物袋や篭をさげて
買物していたのが目に浮かぶ。
せっかくの環境省の風呂敷大作戦に水をさすつもりはない。風呂敷は伝統
的な便利なものだ。ぜひ、もう一度復活、普及させて貰いたい。しかし、
レジ袋の代替にはなれないような気がする。一工夫お願いしたい。


男らしさは「ハンカチ」か「手拭」か

2006-08-23 05:51:10 | Weblog
948球の熱投で早実に初の全国制覇をもたらした斉藤投手の青い
ハンカチが話題になっている。ユニフォームのポケットからキチンと
たたんだハンカチを出して顔の汗を拭う姿がなんともいえない-
「ハンカチの王子さま」だという。

その王子さまに不謹慎だが,早大の昔の応援歌集に「早稲田小唄」という
こんな歌がある。
# 腰の手拭 伊達にはさげぬ ヨイヨイ
  魔除け、垢除け チョイと女寄せ ヨイヨイ
カマヤツヒロシの歌った「我が良き友よ」(吉田卓郎作詞作曲)は
# 下駄を鳴らして奴がくる 腰に手拭ぶら下げて
  学生服に染み込んだ 男の匂いがやってくるーで始まる。

戦後すぐが青春時代だった僕には、弊衣破帽、腰に手拭をぶら下げた
旧制高校生への憧れがあった。わざわざ新しい学帽に靴墨を塗って
古めかしく、汚くしてかぶったものだ。しかし、今はー。
# 時の流れをうらむじゃないが 男らしさは優しさなのだ
  (「我が良き友よ」から)ーという心境だ。

喜寿の年近くになれば、もはや「ハンカチ」でも「手拭」でもない。
”男は「優しさ」なのだ”と僕は一人つぶやいた。ちなみに斉藤君の
名誉のために、彼が”女寄せ”の小道具にハンカチを使ったのでは
ないことだけお断りしておく。



歴史舘 蝋人形にご注意!

2006-08-22 06:12:22 | Weblog
一昨日のTBS「サンデー・ジャポン」に関連してご注意。番組のサブ・
タイトルは「韓国突撃取材 靖国」となっていた。何を報道するのかと
思ったら、韓国のお笑いタレントの女性を使ってソウルにある歴史博物館
(西大門刑務所跡)の紹介である。蝋人形を使ったかっての拷問の部屋
などを見せ、日本人が如何に残虐だったかを訴える、言ってみれば反日
運動のお先棒担ぎ番組だ。

これを見た若い人の中には昔、無差別に日本人がここで拷問をしていたと
誤解する。が、ここは刑務所であった。しかも狂気の時代であった。
拷問は朝鮮の人だけでなく、日本人に対しても行われていた。「治安維持法」
という悪法で逮捕され、拷問を受けて獄死した犠牲者は沢山いた。蟹工船の
作家、小林多喜二、哲学者、三木清などなど。けっして朝鮮の人たちだけが
”狙い撃ち”されていたわけではなかった。

昔、ロンドンのダッソーの蝋博物館をみて、その精巧さに驚いた。しかし、
人形は人形である。人間が造ったものだ。海外にあるこの種の博物館を
いくつか見たが、蝋人形、絵画、レリーフといった類の展示物は要注意で
ある。人間の恣意で造られたものが多いからだ。今は撤去されたが、スマ
トラ・ブキテインギ防空壕跡の反日レりーフに描かれた絵は日本兵の銃剣の
持ち方が反対であった。オランダの日蘭修交400年の展示室では”従軍
慰安婦”を題材にした映画がまことしやかな事実のように放映されていた。
だまされないようにご注意!