「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

東京新規感染者100人 数字合わせ?

2020-08-31 17:12:09 | 2012・1・1

今年の東京の8月はコロナ.ウィルス禍と猛暑日、熱中症で終わった。夕刻、PCの速報で新規患者数をチェックしたら100人だとう。昨日今日と連日2日、100人台の軽減ぶり、まさか、終わる8月に”敬意”を称して100人ぴたりとしたわけでもあるまい。

東京では毎日,朝刊の都内版に前日の新規感染者数が23区と市町村別にけいされる。まずチェックするのは自分の住む区で、ついで隣接区と1位の新宿区、2位世田谷区、3位港区の伸び具合い、それに逆に感染数最低の千代田区や23区より人口の多い八王子市や町田市との比較だ.。

皮肉なこ徒に安倍粗利が辞意を申し出たとたん、東京だけでなく全国の新規患者数もここ数日1000人をきっている明日からは9月、秋風と共に、数字合わせでもよい。患者数が減ることを切に願ってる。

 

 


コタコタ.インドネシア(41)シボロン.ボロン スマトラ銘酒

2020-08-31 06:50:30 | 2012・1・1

北スマトラのメダンから西スマトラのパダンへ陸路3回旅したことがあるが、1997年、戦争中パダンで邦字紙「スマトラ新聞」の記者していた先輩と一緒に彼の感傷旅行の途次立ち寄ったタルトン近くの町,シボロン.ボロンの町が忘れられない。

戦争中、地上戦がほとんどなかったジャワ、スマトラは「天国」と兵隊仲間で呼ばれたそうだが、シボロン・ボロンではスマトラに駐屯している兵士用の酒を醸造していた。近くのトバ湖を使用したのか「トバの泉」という銘柄で中なかの美酒だったそうだ。跡地は畜産育種所として残っていた。

 


コタコタ.インドネシア(40)パダン スマトラ新聞

2020-08-30 09:32:41 | 2012・1・1

スマトラ島西海岸第一の港町である。人口83万人。1966年11月、筆者はスマトラ縦断陸路旅行の際、かって中国からの引揚船として活躍した興安丸がインドネシア政府からチャーターされてスマトラ航路を就航していたのを取材にパダン港を訪れた。ブキティンギを拠点とした日帰り旅行だった。

戦争中、パダンには日本人向けように「スマトラ新聞」が発行されていた。同盟通信(共同通信の前身)加盟の北海道新聞などの寄り合い世帯の新聞だったが、上司の一人が勤務していた。その関係で筆者は1996年、パダンを再訪、戦争中兵站旅館だったムアラ.ホテルに泊まり先輩の郷愁の手助けをする一方、当時流布されていたブキティンギの第25軍防空壕跡の労務者虐殺虚妄の打ち消しに役立った。

パダンは地域的にはミナンカウ居住区だが、何故かパダン人呼ぶ。ナシ.パダンはパダンの特別な料理とサービスだ。ベンリと呼ばれる乗り合い馬車で町中を散策するのは旅愁を誘う。

「スマトラ新聞」については小別ブログ、1000都物語りを参照


ご苦労様 ”切れた”がきっ子総理”とは”もう呼ばない

2020-08-29 08:05:34 | 2012・1・1

安部晋三総理が昨日の記者会見で辞意を表明した。持病の潰瘍性大腸炎が悪化し国民の負担にこたえる自信がなくなったという理由からだ。2012年12月、第二次政権が発足してから7年8か月続いた長期政権も幕をとじる。つい先日、大叔父佐藤栄作の持っていた連続在位2799日の記録を越えたばかりだった。

"大変酷で失礼かもしれないが、安倍総理の突然の辞任はまるでガキっ子だ”-今回の辞任に対してではない。2007年9月12日、第一次安倍内閣改造内閣が発足して総理が所信演説をしたばかりなのに突然辞任を申し出た時、小ブログはこう批判してる。内閣支持率が20%に落ち込み、政局がニッチもさっちもいかなくなっていた時、突如総理が潰瘍性大腸炎を理由に辞任を申しでたからだ。

久しぶりにテレビの記者会見で拝見する総理の顔はコロナ禍の対応もあってか憔悴気味に伺われどどた。持病の潰瘍性大腸炎の再発だとのこと。第一次内閣の時あは50歳代の若さだったが、今は60歳代なかばすぎである。無理は出来ない。拉致問題の解決、平和条約締結問題、憲法改正などなど、総理にすれば志なかば多いが、後進の元気な人に道を譲るべきだ。ご苦労さまでした。


東京の飲食店夜間時間短縮の延長よりも

2020-08-28 11:26:40 | 2012・1・1

東京都内で今月末まで実施している夜間の飲食店やカラオケに対する営業時間短縮を9月15日まで23区にかぎり延長すると小池百合子知事が昨日の臨時記者会見で明らかにした。何故、23区だのか今一つ解らないが、東京では昨日も新規感染者は2500人あり、高止まり状態である。取りあえず、23区で様子をみようというのか。

今流行のコロナ.ウィルスの感染は確かにピーク時は過ぎた感はある。増減のグラフの波形をみてる。政府の対応を素人なりにみていると、感染者数の増減りも症状の重軽の仕分け、対応になってきたようだ。感染経路につては時間短縮前には夜の街関係者が34%もあったが、その象徴ともいえる新宿区でさえほとんどまくなった。成果といえよう。

政府の関心が感染者数と同時に症状の重軽それも重症リスクの高い高齢者に向けられてきたのは歓迎だ。小池知事はこの問題に言及はなかったが、要介護老人にとっては緊急の問題だ。秋風が吹き流感の季節がやってくる。秋の夜長、美酒は家でも楽しめるが、コロナの冬、ワクチンなしで大丈夫だろうか。

 


コタコタ.インドネシア(39)ぺカンバル 一番清潔な町

2020-08-28 07:25:44 | 2012・1・1

中部スマトラのリアウ州の州都人口100万人をこす中核都市だ。スマトラのマラッカ海峡側には良港がなく、海峡からシアク河を180㌔も遡上したぺカンバルがインド洋側とを結ぶ中継要衝の地となっている

筆者は1966年と1992年の二回、ぺカン.バルを訪れているが、最初の時は新聞社の連載記事、スマトラ縦断記取材のためマラッカ海峡側の川港ジャンビ―からトンカン(材木運搬船)に乘っていったん海に出て、再びシアク河をさかのぼる3晩4日の旅であった。

半世紀前のぺカン.バルの印象について筆者は"整然とした街並みの清潔な町、パラダイスだ”と書いているが、今もインドネシアで一番清潔な町という賞をを7年連続国からうけているとのことだ。


コタコタ.インドネシア(38)ジャンビ― 陸の孤島だった

2020-08-27 06:56:04 | 2012・1・1

スマトラ中部東海岸のベルハラ海峡からバタン.ハリ川を140キロ遡った川港の町である。昔、7世紀ごろ、この地方にスリブジャワ王国が栄えた時代、パレンバンが旧港といわれていたのに対して新港と呼ばれた歴史ある町だ。今はジャンビ―州の州都として人口50万人もある中核都市だが、半世紀前、筆者は8日間、陸の孤島を体験している。

1966年11月、筆者は新聞社の連載企画としてスマトラを陸路縦断する旅をしていたが、パレンバンを出てジャンビ―に入った途端、折からの豪雨で次の予定地レンガットへ行く道が寸断されてしまった。パレンバンへ引き返す道も破壊されてしまった。結局バタン.ハリ川を下リ、いったん海に出てパカンバルへ脱出する以外方法がなかった。トンカンという材木運搬船に3日乘ってやっと陸の孤島から抜け出た。

1992年、26年ぶりにジャンビ―を再訪した。パrンバンからの悪路は改修され、渡し場には橋が架かっていた。南京虫で悩まされたロスメン(インドネシア式旅館)は高層なホテルに変わっていた。

 

 

 


”重症リスクの高い”高齢者の声

2020-08-26 11:14:41 | 2012・1・1

コロナ.ウィルス感染のニュースの中で”重症化リスクの高い高齢者”といった一括した表現がマスコミで目立ってきた感じがする。僕自身が90歳近い老人だからそう思うのかも知れない。

講読紙、産経新聞、25日付首都圏版1面トップ記事によると、政府は病院、保健所など医療従事者だけでなく、介護施設職員に対してもPCR検査を実施する方針だという。要介護3で週に1回だが、通園リハビリ.サービスを受けてる者にとっては大歓迎だ。また、同じ記事によると、現在の指定感染症で「二類」、結核やSARSと同じように入院が必要とされていたのを見直す方針だという。

よく理解できない点もあるが、重症化リスクの高い高齢者だ。宜しくお願いします。

 


コタ.インドネシア(37)バンダール.ランプン「火の車」

2020-08-26 07:27:09 | 2012・1・1

ジャワからスマトラへの玄関口。昔はタンジュン.カランと呼ばれていたが、隣町、テルクぺトを合併して今ではこの名で呼ばらくれている。南スマトラ、ランプン州の州都で人口100万人の大都市だ。ここからパレンバンまで389㌔の鉄路が走っている。

半世紀以上の昔の1966年11月、筆者はスマトラ縦断の旅でジャワのメラク港からスンダ海峡を渡り、スマトラのパンジャン港に着き、べモ(小型バス)でタンジュン.カランへ入りインドネシア式旅館ロスメンに一泊、パレンバンまでSLの旅をしている。インドネシアでは列車のことを「火の車」というが、空いた車窓から火の粉がとびこんできた想い出がある。

pcの動画を見ると、今はsLではなく、流線型のディーゼル車が走っている。町並みも高層ビルが並び、タンジュン.カラン(サンゴ礁岬)ではなくなってきていた。


政界のご意見番 渡部恒三さんの老衰死

2020-08-25 12:11:40 | 2012・1・1

”政界のご意見番””平成の黄門さま ”会津のケネデイ"など歯に衣を着せぬ発言から人気があった渡部恒三さんが88歳で老衰死された。渡部さんは僕より学年にして2年下だが、ほぼ同じ世代、それが老衰死とはひとつ思わされるものがある。一期一会という言葉があるが、僕は51年前の昭和44年、渡部さんが衆議院に初当選し当時僕が勤めていた福島の会社に挨拶参りに来られた時お会いし会話した記憶がある。

ただそれだけの関係でその後お会いしたことはないが、渡部さんは自民党から何回か当選、厚労、通産大臣を経験した。そのあと脱党して新進党をつくり民主党と愚痴は合併したりした。その都度、政治の表舞台、裏舞台で活躍されたが、何故か僕には民主党時代の国会で"堀江ガセ.メール”問題あ発覚、渡部さんが自党なのに執行部を”人をみるめがない”と叱責したのと、そのあとの懲罰委員会の委員長を買って出たのを覚えてる。

小沢一郎さんんが”誰からも愛される魅力的な政治家だったと評されいるが、その風貌と独特の会津弁の語り口は魅力的であった.。あまり、現役の若い政治家にはみられなくなった。 人から憎まれず、静かな老衰死 渡部さんらしい。合掌