「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         「なでしこ・ジャパン」と済南事件

2011-08-31 12:27:44 | Weblog
ロンドン五輪アジア最終予選出場のため中国山東省の済南市に滞在中の「なでしこ・ジャパン」が中国のマスコミから”傲慢だ”と集中攻撃にあっているという。済南空港入りした時には2000人もの大歓迎を受けたが、事前の練習の取材を断ったところ"世界一になって生意気になった”というのだそうだ。

済南市は山東省一の商業都市で、2004年のサッカー・アジア大会バーレーンとの試合もここで行われたが、国歌「君が代」が流れると会場からブームイングが起き、スタンドからゴミが投げ込まれた場所だ。あれから8年も経っており、中国市民も多少大人になったかと思っていたら相変わらずだ。

済南市では83年前の昭和3年(1928年)、日本軍の第二次山東出兵にからんで蒋介石軍との間に衝突事件が起きて双方に10数人犠牲者が出ている。この事件はもともと中国の南軍(蒋介石軍)と北軍(張作霖軍)との内戦であり、日本軍は済南市の権益と在留邦人(2000人)の保護を目的に出動したものであった。満州事変とは関係なく、当時日本の出兵は国際的に支持された行動だった。

山東出兵とか済南事件といっても今の日本では中国問題の専門家ぐらいしか知らない。恥かしながら僕も知らなかった。わが国では現代史はほとんど教えていない。しかし、中国では、かなり詳しく教えており、それも偏った歴史観に基づいて教えているらしい。「なでしこ・ジャパン」の試合は明日から始まるが、何事もトラブルが起きなく無事終わることを祈っている。

             野田総理の若さに期待

2011-08-30 05:57:10 | Weblog
野田佳彦財務相が昨日の民主党議員総会で決選投票の末、海江田通産相を破り代表に選ばれた。野田氏は今日の国会で第95代首相に指名される。安倍晋三氏以来久しぶりの50歳代の総理誕生である。世界の主要国の指導者は英国のキャメロン首相、ロシアのメドベージェフ大統領、オバマ米大統領など皆1960年代生まれで野田氏より若い。野田氏の若さは決してマイナスにはならない。その手腕に期待したい。

僕は民主党は大嫌いだが、個人的には野田氏は好きだ。一度もお会いしたことはないが、テレビの画面で見る限り、年齢の割りに落ち着きがある。自分の子供より一歳も若いのだが大人の風貌の持主だ。その野田氏が代表に決まったあと"ノーサイドにしよう”と言った後”もう”と一言小さく付け加えたのが印象的だった。野田氏ばかりではない。民主党内部の内輪もめは、僕らがみても鼻持ちならない。

その内輪もめの源は小沢一郎氏にあるようだ。残念ながら日本の政治はこの人のためにこ数年、引っかき回されてきたといっても過言ではない。代表選に三連敗しているということは党内でさえ人気が落ちてきた証明だだ。負けるたびに"一兵卒”を宣言しながら口をだしているが、今回の"敗戦”を機会に今度こそ小沢氏は政界を引退すべきである。国民はそれを期待している。

とにもかくにも菅政権が終わりを告げたのは、国にとって"同慶”の至りだ。その菅総理が、まるで”最後っ屁”のように朝鮮学校の無償化の手続き再開を文科相に命じたという。前途多難な野田政権になると思うが、野田氏は"ノーサイド”宣言しても変なところで妥協してはならない。党が割れても党内にいる、おかしな連中を追い出すべきだ。それでなくては野田氏の民主党はない。


           関東大震災 東日本大震災

2011-08-29 05:42:07 | Weblog
最近”しんさい”という言葉がちょくちょく耳に入ってくる。僕ら後期高齢者にとっては”しんさい”と言えば1923年(大正12年)9月1日の関東大震災だけだったが、今は3・11の東日本大震災のことだ。戦前、僕らが子供だった頃は、関東大震災の体験者が周囲に沢山いて、わが家にも震災後の火災で焼け崩れた銅貨が記念として残っていた。が、88年経った今、その体験者は97歳の先輩一人だけだ。

昭和35年にこの関東大震災の教訓を後世に残そうと、当時の政府は閣議で9月1日を「防災の日」に設定した。それまで9月1日は、どちらかといえば、大震災で犠牲になった14万人の人々を慰霊する行事が中心だったが、たまたま9月1日は二百十日に当たり、昔から台風の被害が多かったので、自然災害をいかにして防ぐか、防災意識を高める日となった。

昨日の日曜日、わが家の近くの小学校校庭で、区主催の防災行事が行われた。老妻も町会の誘いで参加、僕もブログの材料にと自転車で見学に行った。会場には炎天下にもかかわらず沢山の参加者があった。今年は3・11の大震災があっただけに特に参加者は多かったようだ。会場の小学校も特別にこの防災行事に全員参加させていた。

"備えあれば憂いなし”である。今回の被災地の中でも過去の津波の被害を教訓にして避難訓練を行っていた地域では被害を少なく食い止めたという。天災がどうしても宿命であるわが国は、やはり、こういった事前の備えが必要なのだ。「防災の日」参加のお土産に貰ってきた、非常食品を食べながら、つくずく僕はそう思った。

       半年後には支払られた強制疎開補償金

2011-08-28 06:03:16 | Weblog
66年前の昭和20年8月28日の亡父の日記である。「品川区役所に行き苦心惨憺折衝の末、ようやく半年ぶりに疎開家屋の補償金解決。青物横丁(地名)の安田銀行で、9020円受け取る。夕食に臨時配給の日本酒を飲む。嬉しいことばかりである」

わが家は20年3月10日の下町空襲の直後、1週間以内に出て行け、との政府命令で家屋を破壊された。空襲のさいの延焼を防ぐのが目的だった。借地だったが、家は自分のもので二階建て、今流にいえば4Kで、築10年ぐらいであっただろうか。この補償金が半年ぶりに支払われたわけであるが、今考えると、国は戦いに負け、行政機能が混乱していた時代に"苦心惨澹の折衝”だったとはいえ、よく支払られたものだ。

9020円という補償金の額は今でいうと、いくら位であろうか。この時代はものすごいインフレの時代で参考になるかどうか判らないが、前年19年19月の父の日記に転職したさいの月給が210円、わが人生で最高という記述がある。また翌21年2月の"新円切り替え”のさいの一家族一か月の金融機関からの引き出し額限度が300円とある。これからみると、かなりの額であった。

補償金を貰えたのはラッキー中のラッキーだった。東京だけでも数十万家族が焼け出されたが、一銭も補償金も見舞金も貰っていない。地域によっては、長野市のように消失家屋に100円支払われた記録もあるが、大半の犠牲者は罹災証明証が一枚渡され、全国の国鉄(JR)が無料だったぐらいであった。

今回の大震災は戦災とは違うが、原発事故で故郷を強制的に避難させられた人たちへの補償金はどうなっているのだろうか。半年経過しても仮払い金だけのようである。これでは将来への生活設計もできない。複雑な問題はあるが、出来るだけ早く問題を解決すべきである。

         ”菅難”(艱難)汝を玉にして欲しい

2011-08-27 08:35:58 | Weblog
昨夕6時からのテレビニュースを見ようとしたら、菅総理の民主党代表辞任の記者会見だという。どうせ自己弁護と釈明にすぎない。早速、チャンネルを野球中継に切り替えた。同じ思いは被災地でも同じであった。朝刊をみたら被災地、気仙沼の避難所で、辞任表明にまったく関心を示さないガラガラの部屋の写真が載っていた。

とにもかくにも菅総理に辞任表明で物事は一歩前進したかに見える。しかし、菅総理辞任後の民主党の代表選をめぐる”テイタラク”はなんだろうか。政策論争ではなくて、あいも変わらぬ"小沢”か"反小沢”かの構図である。小沢一郎氏は刑事被告人ではなかったのか、党でも党員資格停止になっている人ではなかったか。小沢氏も何回も"一兵卒"宣言をしていたではないか。

代表選に5人が立候補した。29日の選挙までに、それぞれの政策を明らかにするが、国民には選挙権はない。代表(総理)を選べるのは389人の民主党議員だけである。代表選に立候補した5人が、なぜかすでに"小沢参り”をしている。その肝心の小沢氏は海江田候補支持を表明し、海江田氏なら前進があるといっているそうだ。

投票権のない僕だが、個人的には海江田氏には票はいれない。理由は"小鳩体制”で失政が証明済みであるマニフェストへの回帰である。また、あの時代の迷走が繰り返されるかと思うとゾッとする。また人前で涙を流すような政治家は、菅夫人ではないが総理として的確かどうかである。

"艱難汝を玉にす”という諺がある。人間は苦労を経験して、初めて立派な人間になることができる(三省堂慣用句ことわざ辞典)という意味だ。せっかく"菅難”を体験した民主党議員諸君だ。なんだか国民には理解できない、"数の論理”で代表を選べば、どういうことになるか。真剣に"玉”になるよう代表選びをして欲しい。

       日本人誰もがが過酷だった昭和20年

2011-08-27 05:54:17 | Weblog
母方の本家から三回忌の法要のさいの献杯の音頭を乞われ故人の生前について調べた。故人は当主の母親に当たり97歳の長寿を全うした。僕にとっては従兄弟の嫁に当たるが、戦前わが家は本家の敷地内にあり、従兄弟夫婦の結婚式のさい、僕が"雄蝶雌蝶”の雄蝶役を務めた関係によるものなのだ。

母方の本家は東京の昔は郊外であった目黒川沿いの農家で、僕が子供だった昭和10年代には農業はしていなかったが、敷地は広く大きな屋敷だった。が、昭和20年3月10日の下町大空襲の直後政府の強制疎開撤去命令で取り壊されてしまった。当時81歳の僕の祖母と60歳代の伯父伯母夫婦は伯母の実家があった栃木県の葛生へ疎開した。故人は当時30歳だったが、これより先、従兄弟の仕事の関係で世田谷区の梅が丘に疎開していた。1歳の乳飲み子を含め4人の子供を抱えていたが、その従兄弟が3月27日、応召を受けたため追うようにして葛生に合流した。その後、疎開荷物のほとんどを残してきた梅が丘の家がまさかの空襲で全焼してしまった。

葛生の疎開先での生活は、高齢者には厳しかったのでろう。81歳の僕の祖母は敗戦後の8月28日逝去し、伯父も癌で病床に伏してしまった。馴れぬ疎開先で4人の子供をかかえ、病気の義父の看病でさぞかし故人は大変であっただろう。戦後の11月、伯父は自動車で帰京、入院先で翌21年の1月他界している。従兄弟は幸い、内地勤務だったので比較的早く復員できたが、その間、女手一つで切り回していたわけだ。

日本人誰もがが、昭和20年という年は過酷な年であった。亡父の日記を調べて見ると、親族、知人の葬儀出席の記載がなんと多いことか。戦地だけではなく、銃後でも高齢者、病人などの弱者は食糧不足から、ばたばた倒れていたのだ。

      手を引いたらどうなのだ民主党の長老議員    

2011-08-26 06:11:23 | Weblog
民主党の長老議員の一人、渡部恒三氏が産経新聞のコラム「国益が第一」(8月25日)の中でおかしなことを書いていた。民主党内でマニフェスト(政権公約)を守れといっている一派がいるが、それは個利個略だというのだ。状況が変われば、公約の凍結や見直しは当然だというのである。冗談ではない。一昨年の総選挙で有権者は民主党のマニフェストを信じて投票したのだ。それが守れないのだら、国会を解散し信を問うべきである。それが「国益第一」だ。

昨年の民主党代表選挙で僕はテレビの画面を見て驚いた。党の最高顧問で総理まで勤めた羽田孜氏が介添えされて投票している痛ましい姿だ。今期限りで議員を辞任するそうだが"半身不随”(森元総理の言葉)で、果たしてまともな議員活動が出来るのだろうか。失礼だが、こんな政治家が最顧問では、まともな公党としての活躍は出来ない。

渡部恒三氏は赤いネクタイをして体力的には元気そうだが”頭”のほうは大丈夫なのだろうか。僕は今でも覚えているが、1年前菅内閣の発足のさい、民主党のよりすぐった最高の内閣だ、手放しで絶賛していた。渡部氏は2006年、前原代表(当時)が"堀江メール"問題で代表を辞任したさい、前原氏は"人を見る目がなかった”と批判していた。渡部氏も菅総理を見る目がなかったのだろう。

羽田氏も渡部氏も、もう言ってみれば影響力がない過去の人だ。しかし、困るのは自分たちの失政について反省もせず、いまだに代表選に口をだしている鳩山・元総理や小沢・元代表だ。"挙党一致”と口にしているが、今、国民がもっとも望んでいるのは、政治の安定である。渡部氏は、あたかも大震災によって公約が実現できなくなったかのようなことをいっているが、そうではないことは国民が知っている。一日も早く国会を解散し改めて信を国民に問うべきである。



        カダフィ政権の崩壊とナセリズムの終焉

2011-08-25 06:43:49 | Weblog
北アフリカのリビアのカダフィ長期独裁政権が反政府派軍の首都トリポリ進入で事実上崩壊したようである。今年初めチュニジアから始まった北アフリカ、中東のアラブ諸国の民衆による、いわゆる「ジャスミン革命」は42年間のカダフィ政権をも倒した。次は同じように反政府運動がくすぶり続けている、シリアとイエメンだともいわれているが、アラブ世界に何か地殻変動が起きているのだろうか。

僕は1956年(昭和31年)のスエズ戦争(第二次中東戦争)から1967年の"6日戦争”といわれれた第三次中東戦争までの10年間、新聞社で中東情勢のニュースを担当してきた。この時代は一口にいうと、ナセル・エジプト大統領が唱える"汎アラブ主義"(ナセリズム)がアラブ世界を吹きまくっていた時代であった。結局、失敗に終わったが、エジプト、シリア、イエメン三国による「アラブ連合共和国」(UAR)も一時誕生した。

リビアはその頃王国だったが、カダフィ少年は砂漠の中の宗教学校で、ナセル大統領の「革命の哲学」を読み、アラブの最終的な統合をめざすナセリズムに共鳴していたようだ。同じく今、反政府運動に揺さぶられている、バシャール・アサ大統領の父親のハーフィーズ・アサド大統領も「アラブ連合共和国」空軍の将校で、やはりアラブの統一を考えていたかもしれない。今年初めの「ジャスミン革命」で追放されたムバラク大統領もナセリズム・シンパの空軍将校であった。

カダフィ政権崩壊に拍車をかけたのは、西欧諸国の多国籍軍のリビアに対する軍事介入がある。国連安全保障委員会の決議に基づく介入だが、ドイツなど4か国の棄権はあったが圧倒的多数で軍事介入は許されている。安全保障委員会のメンバーには、アラブの国はレバノン一国だけである。多国籍軍の軍事介入に対して、アラブ諸国からの反対の声は出ていない。ナセリズム全盛の頃では、どうだっただろうか。ナセリズムはもうアラブ諸国では終焉してしまったようだ。

            前原誠司代表(総理)では?!

2011-08-24 06:12:47 | Weblog
出る出ると、もったいぶって前原誠司前外相が、やっと民主党代表選への立候補を表明した。選挙は27日告示、29日投票だというから事実上の選挙選は2日間しかない。各候補はこの僅かな間に自分の政策を完全に訴えられるのか。なのに、マスコミは例によって、お先走り、早くも”前原本命”説を流し始めている。

投票権は民主党議員だけしかないので、こんなことを書いても所詮"犬の遠吠え”にすぎないのだが、民主党議員諸君、もう一度投票前に過去の前原氏の政策や行動をふりかえり、果たして、こんな男に日本の国の"舵取り”をまかせて大丈夫なのか考えて見て欲しい。

前原誠司氏は、僕のような老人が見ると、変な思い込みがあり、自信過剰な人物に映る。2006年、前原氏が民主党代表だった時の"堀江メール”問題を思い出す。まったく事実無根のガセメールだったのに、最後までこれを信じ込み、発言していた。結局謝罪して代表を辞めたが、あのときの変に憑かれたような表情がまだ僕の脳裏にある。

2009年の政権交替直後の谷ツ場ダムの時もそうだ。当時はマニフェストの完全実施に党としても自信があったのだろう。いち早く国土交通相として現地に乗り込み、自信に満ち勝ち誇ったように振舞っていた。いま、その谷つ場ダム問題はどうなっているのか。後任の大臣によってダム建設は凍結されたままだ。

外国人地方参政権を党是に掲げている民主党議員にとっては、たいした問題ではないのかもしれないが、僕ら大和おのこやなでしこにとっては、前原氏が在日韓国人から政治献金を受けていた問題は許せない。百歩、千歩も下がって他の大臣なら、不注意ということもあり許すかもしれない。が、所管が国と国との利害にもつながる外務大臣である。絶対に許すわけには行かない。党だけの代表ではない。総理は国の代表である。

        江戸を感じさせる「谷根千」と牛込界隈

2011-08-23 06:07:58 | Weblog
娘が先日「谷根千」の"やねせん亭”の落語を聞きに行ってきた。すでに”やねせん亭”の落語の開催は16回を数え東京の落語ファンの間で根付き始めている。「谷根千」とは谷中、根岸(台東区)千駄木(文京区)の頭文字を冠した合成地名だ。この地域は山手線の内側にあるが、戦災もあまり受けず、バブルのさいの乱開発からもまぬかれた。そのせいかまだ昔の江戸を感じさせる。

わが家に伝わる古文書を調べていたら、僕の一家も明治32年から10年間ほど東京府下谷中御院殿下上根岸町に住んでいた。俳人正岡子規が上根岸の子規庵で「病状六尺」を著したのは明治34年である。もしかすると、亡父(明治17年生まれ)は子規庵を訪ねてきた夏目漱石や森鴎外らとも界隈で出会っていたかもしれない。写真がないのが残念だが、当時のわが家は、音無川の近くにあって屋敷内には大きなかいどうの木や柿、びわの木もあり、池を隔てて離れ屋敷もあったという。恐らく江戸時代の武家屋敷だったのだろう。

武家屋敷といえば、僕が学生だった昭和20年代には戦災にあわなかった今のホテル・オオタニあたりにも残っていた。白金の清正公近くのバス通りからも屋敷門がみられた。また建物がなくても、その地名から江戸時代のよすがが偲ばれたものだった。

戦前の東京の子供の”ざれ歌”に「火事はどこだ。牛込だ。牛のキンタマ丸焼けだ”というのがあった。先日、老妻のフラダンスの会が牛込箪笥町のホールで催された。箪笥町とは江戸時代徳川幕府の武器(箪笥)を司どる具足奉行が住んでいたところだ。付近には納戸町、細工町、二十騎町など由緒ある名前の町がのこっている。

江戸時代からの昔の町名が東京から消えたのは戦後のことだ。戦前の35区から現在の23区になった時、浅草、下谷両区が合併して、たんにお台場の東だというだけで「台東区」が誕生した。それにつられた訳ではないだろうが、台東区では、江戸時代からの浅草、下谷の町名がすっかり姿をけし、東上野とか西上野といった歴史を感じさせない沈鬱な町名になってしまった。

その点、京都の町名は年賀状の時は長く難しいのに泣かされるが、昔の名前がそのまま残っていてよい。町名によって、その地の歴史まで理解できる。郵便番号さえ判れば、郵便は届くし、メールアドレスがわかれば、文通できる時代だが、何か今ひとつ寂しい。