「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

台湾での国際スポーツ大会の中止と中国の言いがかり 前回ジャカルタのアジア大会回顧

2018-07-31 05:42:32 | 2012・1・1
来年8月、台湾中部の台中で開催予定だった国際的なスポーツ大会「東アジア.ユース」(日中韓など9か国加盟)が中国の横やりで中止された。現地の台湾メディアを総合すると、台湾の一部の政治団体が、2020年の東京五輪を前に、台湾の国際スポーツ大会の名称「中華台北」を「台湾」に変更しようという動きがあったからだという。投票の結果、中国など7か国が台北開催に反対、日本は棄権した。中国の政治的な言いがかりとしか思えない。

政治のスポーツ介入といえば、前回1962年のジャカルタ.アジア大会に前後のことが思い出される。当時のインドネシアのスカルノ大統領は"北京ジャカルタ枢軸”の外交政策を進めており、アジア大会に不参加の中国への配慮から、台湾代表とイスラエルへのビサ発行を認めず事実上参加を拒否した。さらに、東京五輪を意識して63年には、中国と組んで「新興国スポーツ大会」(GANEFO)を開催した。

半世紀の歳月が流れ、二回目のアジア大会がジャカルタで開催され、開会まで3週間を切った。前大会は政治的な問題もあって参加国はわずか17か国と地域、競技も17種目に過ぎなかったが、今回は40か国と地域、競技種目はなんと463種目に増加した。現地からは政治的な問題は何も聞こえて来ない。日本のメデイアは選手村の横を流れる川の汚染の悪臭対策が問題になっている。悪臭なら”蓋”をすればよい。やはり、スポーツ大会に政治は介入すべきではない。

台風12号、役立たなかったのか”これまでの経験”

2018-07-30 05:29:22 | 2012・1・1
台風12号は、異例の針路をとり、日本列島を東から西へ走り抜けた。屋久島沖で低気圧に変わり停滞する見込み。九州奄美地方はまだ、大雨の予断は許さないが、僕の住む東京首都圏は、大きな被害も出ずに済んだ。台風12号の到来に備え、気象庁から”これまでの経験が通用しない”と警告があった。そう言れても老人二人には困るのだが、早々と雨戸を閉め、テレビの警戒警報に聞き入った。

台風が通過した一夜が明けて、PCの動画を見たら、小田原の国道135線の海岸通りが冠水し、車15台が立ち往生している写真を見た。車の中には救急車や警察のパトロール車まであった。幸い人的被害はなかったが、一大事になるところであった。同じ動画には熱海のホテルの二階のレストランに海水が窓ガラスを破って侵入した写真もあった。二つと満潮時の高波による被害であった。

気象庁は台風の事前警告で,繰り返し高波による被害を警告していた。しかし、僕の聞く限り、満潮時が何時なのかの知らせはなかった。大地震の津波時には主要港の満潮時の予告があるが、今回はなかった。あれば、国道管理事務所で通行禁止などの措置が取られたであろう。国道135線は数年前にも堤防が決壊、冠水して一部で工事中とのと。

台風12号は”これまでの経験が通用しない”台風だったそうだが、やはり過去の体験も必要である。今回も高潮の時間は事前にわかっていたのだから、関係者には台風の推定上陸時間ともども注意があってもよかったのではないか。

”69年”ぶり都立小山台高校野球部の決勝進出 青春の日々

2018-07-29 05:50:23 | 2012・1・1
高校野球も大詰めに来て、ひざ元の東京東大会でも都立小山台高校が準決勝で強豪の帝京高校を6対2で逆転勝ちし、これまた甲子園常連の二松学舎と優勝をかけて対戦したが、6対3で惜敗した。小山台高校(都立八高)は、2014年春のセンバツで二十一世紀枠での甲子園出場はあるが、夏はなく、決勝戦への出場でさえ69年”ぶりであった。”69年”前、昭和24年といえば、僕は前年、旧制中学を卒業、大学予科に入学に入学した年で、記憶にないが、この年は慶応高校が9対0で小山台高校を破って優勝している。

わが母校、攻玉社とは私鉄沿線の駅一つ隔てた距離にあり、幼な馴染の中にも小山台へ入学した友が多いが、野球部といえば、大学時代の友人の弟、海老坂武君が忘れられない。海老坂君は一橋大学の元教授で、フランス文学者、30年ほど前、ベストセラーになった「シングルライフ」(中公文書)の著者でもある。。ノーベル作家、大江健三郎とは東大で同学である。しかし、東大時代は野球部のレギュラーで一番ショート、長嶋茂雄と打撃ベストテンを争ったほうが知られていた。

僕は小山台高校時代の海老坂少年は知らないが、近所の碑文谷サレジオ教会の少年野球で白球を追っていた彼の姿はまだ目に浮かぶ。先年、僕は大腸ガンで入院生活をしていた時病床で、教授の近著「自由に老いる」(さくら舎)を読んだ。教授は生涯独身で、サルトルの実存主義の立場(?)から”おひとりさまのあす”を書かれている。サレジオ教会の野球少年の海老坂君の青春からは想像もつかない。69年の歳月である。

オーム真理教の時代と当時の若者たち

2018-07-28 05:16:18 | 2012・1・1
オーム真理教関連事件の死刑囚13人のうちの6人の刑が執行された。これで事件はピリオドが打たれたわけだが、改めて6人の年齢を調べてみて、最高年齢の林泰男(60)から最低の豊田亨(50)まで、事件のあった30年近く前はまだ20歳代の若者であったことを知った。この若者たちが、常識では考えられない凶悪な犯罪に走ったのはなぜなのか。

当時の社会風潮も遠因としてあるのではないか。振り返ってみたら、バブルが始まったのは1980年代後半から90年初頭にかけてだが、91年から93年にかけて早くもはじけている。オームの一連の事件は、この時期に起きている。世の中全体が変に浮き足出しだった時代であった。私事で恐縮だが、僕も81年、30年近く勤めたマスコミを50歳で定年前退職している。そして、東京郊外に家を買い、すぐに売却したのもこの時期であった。

僕はすでに50歳をすぎ、一応、遊び事には卒業していたが、世は挙げてデイスコ.ダンスブームであった。特に若者はバブル景気日本語酔っていたが一方では、将来に対する不安もあったに違いない。オーム事件の死刑囚のほとんどが高学歴で、凶悪事件を起こすような人間ではない。それこそ”魔がさした”のかもしれない。人生百年時代なのに、半分の年齢で獄死されるのみて、死刑にの是非についても考えさせられる。20歳代のまだ世の中をよく知らない若者の死刑については一考してもと思うがどうだろか。想い出せば、あの時代は台風のような時代でもあった。

ラオスのダム決壊 韓国人の国民性

2018-07-27 05:37:36 | 2012・1・1
東南アジアの小国ラオスの山中にある発電用ダムが決壊、90人が死亡、2000人が行方不明になっている(AFP電)。大惨事である。このダムは韓国の大企業SKエンジニアリングが請け負い、ラオス、タイの企業と合弁で建設中だった。ベトナム戦争中、「北」から「南」へのホーチミン兵站ルートの峻厳な山中にあり、ラオス政府が近隣のベトナム、タイなどへ電力を提供するための”バッテリー”だということだ。

SKエンジニア側は、決壊は豪雨による自然災害だとしているが、韓国のメデイアは人為災害の疑いもあるとして、決壊前から地盤が沈下していたと報道している。さらに中国の環境新聞は、決壊前に韓国の技術者53人が現地から避難していると報じている。本当の原因は調査中で時間がかかるが、韓国のメデイアの中には、2014年韓国で起きたセウォール号沈没事件との関連で韓国人がダム決壊前に避難した道徳的責任を問題にする声もある。

セウォール号の沈没事故では,Wikwpediaの指摘によると、韓国社会には”人を押しのけ生き残りたい”気持ちが強く、これがセウォール号の犠牲者増につながったという。まさか、大事故が起きるとは想定しなかったと思うが、このような批判が出ることに問題がある。

ラオスとはこの4月、河野太郎外相も訪問しており、最大の援護国である。ダム建設については、70余年前,日本の統治下,鴨緑川にかかる水豊ダムを建設した経験もある。水豊ダムは依然、現役として北朝鮮の電力源として使用されている。ラオス側から要請があれば、技術援助の手を差し伸べよう。

理解できない老人医療.介護の窓口負担の基準

2018-07-26 05:22:12 | 2012・1・1
お役所仕事は理解しにくい。この生命にも関わる危険な暑さの中、老人にとっては生命の綱ともいうべき新しい「後期高齢者医療被保険証」(保険証)がわが家に郵送されてきた。例によって色々難しい役所の説明文書とともに8月1日更新の保険証が入っていた。老夫婦でそれぞれの保険証を確認しあったら”万歳”を叫びたくなった。二人とも窓口3割負担が1割に引き下げられた。肝心の理由が書かれていないが、僕の昨年度の住民税の課税所得が1割基準の年間150万円以下だったのだろう。

保険証の発行元は東京都後期高齢者地域連合という役所だが、別に僕の住んでいる目黒区から「介護保険負担割合証」が届いた。僕ら老夫婦はともに要介護1の認定を受けているが、サービスは受けたことがない。ところが、この「割合証」を見ると、僕の窓口負担が2割で、老妻は1割である。説明文を読んでみると、僕の年間所得が160万円以上あるかららしい。老人にとっては医療も介護も同じよなもので理解しにくい。

保険制度である。支払額に高低があるのは当然だが、医療の負担が1割で、介護が現役並みの2割なのか。しかし、わが家にとって医療の1割負担は朗報である。7月末に医療チェックがあったが、医院に連絡して8月2日まで延期してもらった。3割と1割では晩酌の焼酎1本ぐらいの違いは出てくる。こんな冗談がいえるのはまだ健康な証拠かもしれない。年金以外、これといった収入がないわが家にとって1割ダウンは有難い。だからといって意味のない医者がよいは慎しもう。

酷暑の中の高校野球 主催者の危機管理 

2018-07-25 10:29:24 | 2012・1・1
昨日高校野球の東東京地区予選、小山台高校対安田学園の試合を地元のケーブルテレビで見たが、二つ考えさせられることがあった。一つは小山台高校選手が外野席に打った打球について、ホームランかファールかの判定ををめぐって両軍ベンチからクレームが付き、審判団の判定が二転、三転し結局ファールの判定になったが、テレビの画面を見ても後味が悪かった。プロ野球では今年から”リクエスト”制度が導入され、審判の判定に異議のある場合は、球場の大きなビデオ画面を観客に写しながら再検討するが、高校野球ではそれがない。ホームランの最初の判定で、喜んだ選手が小躍りしてホームに駆け込む映像を映したあとの判定である。リクエスト制度の影響がなければよいが。

試合は1点を争う熱戦だったg、途中何回か試合が中断された。酷暑の中のプレイのためか足が痙攣し、動けなくなり担架が運び込まれた。35℃を超すグラウンドである。審判団は途中試合を中断させるなどの措置は取れなかったのだろうか。京都の予選,准々決勝、立命館宇治と鳥羽の試合は猛暑を避けて午後1時半開始を急遽、午後7時のナイターに変更した。全国的な大会で色々問題があるが、選手、審判、観客の健康にかかわることだ。

地方大会の主催、運営は朝日新聞社と地元の野球連盟にあるようだが、、何人もの選手が担架に乗せれベンチに運ばれる姿を見て、僕は戦争中の最後の最期までの総力戦を想い出した。判定を二転三転するような審判団は問題外だが、それより、何人も担架で運ばれる事態なのに放置していた主催者の危機管理はどうなっているのか。。

未体験 生命に関わるこの記録破りの暑さと恐ろしさ

2018-07-24 05:49:10 | 2012・1・1
戦前、中等学校(旧制中学.高等女学校)の地理の入試問題として、わが国の最高気温はいつ、どこで記録、何度だっか出題されたものだ。正解は1933年(昭和8年)7月25日、山形市、40.8℃である。僕も昔、懸命に記憶した思い出があるが、この記録は戦後、2007年8月、熊谷市で40.09℃を記録するまで65年間、破られずにいた。この熊谷の記録は2013年8月、四万十市(高知県)が41.0℃を記録、破られたが、昨日、再び熊谷市が41.1℃を出し抜き返した。

東京でも昨日、初めて青梅市で40.0℃を突破した。気象庁の観測史上初めてである。これまでの記録は2004年7月の39.5℃であった。遠い記憶になるが、戦前も夏休みには宿題として市販の”夏休みの手帳”が渡され、毎日、その日の気温を記したものだが、当時、暑いと感じる基準は30℃であった。35℃を越えた日はなかった気がする。

ネットに気象庁が作成した日本全国の高温20が載っていたが、やはり、そうだった。20のうち戦前は3か所しかない、残りは戦後、しかもこの30年間の記録であった。ついでに最低気温の記録を見ると、第一位は1923年1月旭川のマイナス41℃であったが、これもまた低温記録は、この30年間が多かった。この二つの間に何か関係があるのだろうか。異常気象なのだろうか。

いずれにしても、これまで体験したことがない暑さである。熱中症など気の緩みだ。昔はエアコンも扇風機もなかったではないかと強がりを言っていた年寄りだが、”生命に関わる”問題として素直に警告を受け入れよう。いまだかって体験したことがないのだから。

まだ東京ではセミの声が聞こえてこない

2018-07-23 05:17:28 | 2012・1・1
安倍晋三総理は9月の自民党総裁選挙に出馬するかどうか、セミしぐれを聞きながら決断するというが、東京のわが家のあたりでは、いまだにセミの声が聞こえてこない。連日の暑さに地上へ出るのを辟易しているのであろうか。そんな暑さの中で、昨日、老妻が庭で打ち水をしていて、駐車場のコンクリートの上で、ごめいている羽化したばかりのアブラゼミを見つけ、そーっと庭木の根元に置いてきたいう。

戦前昭和の10年代、僕の子供の頃は、夏休みが始まった今頃は、東京23区の町中でもアブラゼミの大合唱が始まっていた。梅雨明け前から鳴きだしていた小型のニイニイゼミには、あまり関心を見せなかった子供たちは、一斉にモチ竿を手にして外へ飛び出した。当時、僕が住んでいた目黒川の川プチではいくらでもとれ、僕らは”宝物”とされていたミンミンぜみやオーヒーツクを求めて高台の池田山へ遠征した。皇后陛下の実家があった高級住宅街である。

昭和の終わりの60年代、僕は八王子郊外の集団住宅に住んでいたが、朝晩のセミしぐれの声は忘れられない。住宅は森林を切り拓いた中にあるので、朝晩のひと時聞こえてくるセミしぐれは神々しささえ感じた。平成もすでに30年たつが、あのセミしぐれはまだ残っているのだろうか。

安倍総理は、どこでセミしぐれを聞きながら出馬を決断されるのだろうか。赤坂の国会周辺でもセミしぐれは聞こえるのだろうか。内外多難の時の国のかじ取り役である。慎重に決断をお願いしたい。

”生命に関わる危険な暑さ”では 心配な東京五輪

2018-07-22 06:06:27 | 2012・1・1
連日、東京も”生命に関わるような危険な暑さ”が続いている。昔から猛暑、酷暑、“うだるような”焼きつくような”暑さという表現はあったが、”命に関係してくる〝とは、あまりにも警告的、直接的だ。それだけ酷しい暑さなのだろうが、表現の問題だが、生死に関わるような中、2年後の東京五輪に世界から観客を集めて大丈夫なのか。

今さら、日程の変更など”覆水盆に返らず”だが、改めて過去の東京の暑さを調べてみた。最高は2004年7月20日の39.5℃。僕はちょうど白内障の手術をする直前で、新聞も読めず苦しんでいた時だ。気象庁が暑さの順位30位、36.6℃までを表にしたのがネットであったが、改めて僕が驚いたのは戦前の記録は一つもなく、それも戦後能力1998年からの記録が多かった。多分、地球の温暖化の影響だろうか。

前回の暑さ東京五輪の開幕日、1964年(昭和39年)10月10日朝、東京は前夜の台風も去り、抜けるような秋空であった。当時、10月10日は晴れの特異日なので開幕日に選んだのだといわれていたが,真偽のほどは知らない。今回の五輪は、開催費用を多くを負担する米国のテレビ局の影響で、7月ー8月のこの時期に決まったといわれているが、東京の暑さ30位のうち半分近くが五輪期間(7月24日ー8月9日)中だ。

先日のIOC(国際五輪委員会)の会合で、競技日程が決まり、マラソン、競歩など屋外競技などについて暑さを配慮してスタート時間が繰り上げされた。当然である。問題は”生命に関わる暑さ”の中での観客の対応である。日本の暑さは湿度が高く独特である。消防庁の救急出動がまにあわないような事態でも起きたら大変である。