「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

中国産鶏肉とマックと化石老人

2014-07-31 05:55:07 | Weblog
中国の期限切れ鶏肉を使用していた影響で、日本マクドナルド(マック)が、国内の売り上げが1日あたり2割減少し、廃棄処分や客離れが進んでいると新聞が報じていた(産経新聞首都圏版7月30日)。マックだけではなく、外資系のファスト・フードに対して心理理的なアレルギーを持っている、化石老人には、この問題を語る資格はないのだが、好奇心から改めて少しばかり調べてみた。

僕はこの騒ぎで、マックの社長がサラ・カサノバという女性であるのを知った。外資系の会社だから横文字の社長がいても、おかしくはないのだが、その苗字の”カサノバ”である。どこかで聞いたことがある名前だが思い出せない。やはり年齢である。ネットお世話になって”カサノバ”は、18世紀のイタリア人で、有名な「カサノバ回顧録」の作者であるのを想い出した。読んだことはないが、日本では”女たらし”の代名詞として、僕も知っていた。鶏肉問題とは無関係な話だが、社長のご先祖はイタリア人なのだろう。

マックやケンタッキー・フライドチキン(KFC)が日本で開業を始めたのは1970年前後であった。その当時すでに40歳の”おじさん”だった僕らは、この種の外資系ファストフードに郷愁はない。どうせブロイラー肉だからという先入観もあった。戦後ブロイラー肉が市場に出回ってきたのは60年代の後半ではなかっただろうか。それ以前は町の大衆酒場でも、ナマの鶏肉が”とり刺し”として人気があったが、ブロイラー以降姿を消した。

米国を代表するような飲料コカコーラーを僕が始めて飲んだのは昭和24年秋、後楽園球場でのサンフランシスコ・シリーズと全日本との野球試合の時であった。正直言った。あまり美味しいとは思わなかった。その時の体験か、それとも、あの時代のもたらす影響なのか、僕は外資系ファスト・フードにはアレルギーがあり、進んで食べたいとは思わない。

マラッカ海峡のウナギ料理

2014-07-30 05:45:40 | Weblog
昨日は土曜の丑の日。テレビをつけると、どこも丑の日のウナギの蒲焼きの話ばかり。子供時代、食糧難で蒲焼きなど食べられなかったせいか、僕はあまりウナギにはこだわりがない。それに、年金生活者では一クシ何千円もするものなど食べられない。また、やせ我慢かもしれないが、老人にはスタミナ食は身体にあまり良くない。減塩、野菜中心のいつもながらの食事にした。

日本種のウナギが乱獲のためか将来絶滅の危機にあるという国際機関の勧告を受け、日本の業者の中には海外のウナギに目をつけている。昨日もテレビでミャンマー産の天然ウナギの番組をやっていた。それによると、ミャンマー産ウナギは質がよく、安いからか最近中国が大量に輸入し始めたという。中国料理では、昔からウナギを使っており、今に始まった事ではないと思うのだがー。それとも日本式の蒲焼きがブームになってきたのであろうかー。

17年前、僕はインドネシアのメダン(スマトラ島)の大学S学長(故人)宅に4か月寄宿したことがあるが、日本通のS氏がわざわざ僕のためにウナギ(ikan belut)料理を作ってくれた。メダンは、マルコポーロが世界一美味というマラッカ海峡に近く魚の宝庫である。しかし、普通現地の人はウナギは食べない。形がグロテスクなためなのだろうか。しかし、S氏はかって研修先の豊橋技術大学でご馳走になった浜松の蒲焼きの味が忘れられず、わざわざ、僕のために市場から買ってきて料理してくれた。

味はせっかくマルコポーロご推奨のマラッカ海峡産であってもお世辞にも美味しいとはいえなかった。日本産に比べて皮が固く、S氏が苦労して現地の醤油を使ってタレを作ってくれたのだが、蒲焼きの味ではない。僕にとっては毎朝、S家のお手伝いさんが焼いてくれる鯵に似た大衆魚(Ikan Gumpung)の方が美味であった。やはり、現地産を現地でたべるからこそ美味しいのである。



景気はよいのか悪いのか

2014-07-29 05:23:34 | Weblog
年金生活の長い80老人にとって、今、日本の景気がよいのか悪いのか判らない。アベノミクスの効果が出てきたという人もいるが僕には実感がない。しかし、連日、この暑さの中、隣家二軒の新築音を昼寝の”子守歌みたいに聞いていると、僕の知らないところで、景気は上向いてきているようだ。

築30年のわが家の隣の木賃アパートと古家が7月初め、壊され同時に新築工事が始まった。今、住宅ローン控除枠が拡大されて、利子も最低で、家の新築には絶好の環境にあるらしい。それに来年度からの遺産相続の改定も絡んでいるらしい。この隣家の”槌音”を聞いている限りでは景気は好くなっていると感じるのだが。

そのうちの一軒が最終段階の内装工事に入った。中をのぞいてみると働いているのは、みな東南アジア系の外国人ばかりだ。昼休みにどこの国から来たのか聞いてみると、インドネシアのバリ島からだという。バリ島には十数回出かけたことがあり、親しみから色々聞いてみると、研修制度で働きに来て2年目だという。観光旅行者の目からみれば、バリ島は自然に恵まれ、歴史遺産もあって”天国”である。何も日本に働きに来なくてもと思うのだが。

アベノミクスの第何弾かは忘れたが、不景気の地方経済の創生に政府が乗り出すという。たまに地方へ出かけると地方は駅前のシャッターの下りた商店街や、減反の影響なのか荒地ばかりが目につく。しかし、一方では建築現場のように人出不足で、公共事業まで遅延が出てきているらしい。TPP交渉も最終段階のはずだが、一向に国民には伝わってこない。内閣改造より、腰の落ち着いた政策の持続を国民は望んでいるのでは。

猛暑日などなかった戦前の東京

2014-07-28 05:21:49 | Weblog
東京ではこのところ30℃を超す真夏日が続いている。気象庁の統計によると今年7月の真夏日はすでに18日、35℃以上の猛暑日さえ1日記録している。昔、僕が小学生だった昭和10年代の記憶では、夏休み東京で30℃を超す日は、あまりなかったような気がしていた。。たまたま大東亜戦争が始まった年の昭和16年(1941年)の僕の夏休み宿題帳が保存されてあったので、それを見ると、この年東京では8月1日から夏休みが始まっているが、1か月間で、猛暑日はゼロ、真夏日も14日しかない。やはり記憶は間違っていなかった。

この連日の暑さに80代半ばに差しかっかった僕ら老人は熱中症にかからないよう、じーっと家に引きこもっている。戦前は熱中症という名前を聞いたことがなかった。代って日射病という言葉をよく耳にした。夏休み中、僕ら子供は日中、セミやトンボをとりに出かけたが、母親から”日射病にかかってはいけない"と麦わら帽子をかぶらされたものだ。ペットボトルなどなかった時代だ。しかし、まだ東京の23区内でも、あちこち湧水や井戸があり、子供でもその場所を知っていた。

今朝、街のラジオ体操会へ出かけようと家の階段を降りたら”しおから”トンボが一匹手すりに止まっていた。昔、夏休みが始まる頃になると、わが家の周辺には”しおから”や”ムギワラ”トンボが群れており、油蝉の声がいたるところで聞こえたものだ。地球温暖化が原因なのだろうか。わが家の周りでは、セミの声を聞かない。毎日毎日、各地で猛暑日を記録、熱中症で何百人かが病院へ搬送されたというニュースを聞くたびにつくづく、”住みにくい”時代になったものだと思う。

”後期”など言わず「老人医療制度」を一本化しては

2014-07-27 05:23:29 | Weblog
「後期老齢者医療制度」の”後期”が老人間で不評だから名前を変更し”熟年”したらどうかという案がまた浮上しているという。「後期老齢者保険制度は」2008年から実施されたが、その時も老人たちから一斉に批判が出て、当時の福田康夫首相は”長寿医療保険”と名前を変更したが、定着せず依然”後期”の名前で呼ばれている。

制度の名称変更を示唆した田村憲久厚労相は、例として75歳以上は”熟年”、65歳から74歳までは”若年”と呼んだらどうかと提案した。しかし、名前を変更したからといって、老人医療制度は解決される問題だろうか。わが国の社会保障制度の最大のガンともいわれる老人医療費の高騰は、こんな名前の変更といった姑息なことで解決するとは素人の僕でも理解できる。

80歳代の半ば近くになると、僕らは”後期高齢者”呼ばわれしても抵抗はない。問題は”後期高齢者”医療保険の内容だ。年金生活の僕らにとって、その年金から直に保険金を棒引きされるのは心理的に抵抗がある。しかも僕の場合年金以外に僅かな別収入があるから、年に30万円近くも取られている。保険制度であるから仕方がないと諦めているが、田村厚労相がいう”若年”老人層が依然、老人扱いされず、僕らからみれば”恩典”があるのは不公平である。

日本の現状からみて65歳から老人とみるのは、どんなものだろうかー。例えば制度を改めて70歳以上を老人とし、医療保険制度も「老齢者保険」に一本化したらどうだろうか。そして被保険者は低収入者を除いて一律、現行の窓口負担を1割から2割に引き上げたらどうだろうかー。年金生活者にとって75歳後期というボーダーラインはあまり意味がない。少子高齢者時代、現在の老人医療制度の破綻は目に見えている。制度の名称変更で片付くものではない。

「訓練用五噸焼夷弾」 昭和館「空襲とくらし」展

2014-07-26 06:09:49 | Weblog
東京九段の昭和館で7月26日から8月31日まで3階の特別企画室で「空襲とくらし~そのとき人々は~」が開催されている。(入場料無料 月曜日閉館)。昨日僕は老妻と一緒に内覧会に招待され見学してきた。
数年前だが、僕は亡父がわが家に保存していた戦時中の”ガラクタ”を昭和館に寄贈した。そのまま個人が持っていても散逸してまうものばかりだ。その一つが今回展示されている「訓練用用五噸エレクトン焼夷弾」である。焼夷弾といっても、ただの紙切れにすぎない。亡父の日記によると、空襲が日常化する前の昭和18年4月13日、日比谷公園で手にいれたものである。空中から散布されたものか、どうかはっきりしないが、防空訓練の一環として撒かれたものらしい。

東京への初空襲は17年4月18日であった。太平洋上の空母から発進したB-25爆撃機16機が都内を爆撃した。当時小学校6年生であった僕も、かすかな記憶の中で空襲を覚えている。この空襲の後、東京では防空訓練が強化された。学校でも訓練の日には、教室内に机や椅子をジャングル.ジムのように積み上げたりした。多分、爆風除けのつもりだったのであろう。街中では隣組の主婦たちによる消火バケツリレー訓練が毎月行われた。

こういった訓練は、19年11月から開始されたB-29による本格的な空襲で、全く幼稚で役に立たないことが証明された。幸いわが家は5月23日の山の手空襲で200㍍ほど離れた家に焼夷弾が落下、その破片を火叩きで消した程度ですんだ。しかし、”空襲下のくらし”は体験している世代である。展示会を見学して、改めて連日のように警戒警報、空襲警報が発令され、防空壕に逃げ込んだ当時を想い起こし、今の平和な時代に感謝した。

認知症と生活習慣病との相関関係

2014-07-25 05:32:54 | Weblog
最近の生活習慣から僕は夜8時には床につく。昨年暮の入院生活から、数十年続いた晩酌を止め、食事も野菜中心の低カロリー食に改めた。その結果、入院で約10キロやせた体重を維持し続けている。が、晩酌は最近、復活してしまい、老妻がものの本に従って、薄いお湯割りを小さなコップに二杯だけ許してくれることになったがー。

早く寝ると、どうしても夜トイレに通う回数も増える、昨夜も深夜零時過ぎ、第一回のトイレに起きると、老妻はまだ起きていて、NHKのスぺシャル番組「認知症をくいとめろ」の再放送を見ていた。80歳過ぎの老人になると、だれでもが認知症が気になるものだ。僕もついつい起きだして老妻と一緒に番組を〝拾い見”したが、番組は認知症にかかったら、いかにして病気を食い止めるかが、主点であって、僕らが最も心配している、いかにして病気にかからないか、その特効薬はなかったし、治療法もないみたいだ。

それでも、番組が認知症と生活習慣病との相関関係を説明していたのが、僕の体験上参考になったし、”わが意を得た”感じだった。認知症の予防には、生活習慣病と同じく、日常の生活に留意し、減塩、低カロリーの食事をし、適度の運動が必要だとのこと。当然禁煙、お酒も適量に控えること。また高血圧や糖尿病を抑制すれば、自然と認知症にもならないという。

老妻も僕も最近とみに物忘れがひどくなってきている。二人とも会話中に人の名前が出てこないで困る。しかし、これは高齢者にはつきもののようである。一番心配なのは、足腰の弱りからくる転倒だ。一度強く転べば、打ちどころによっては寝たきりになる可能性がある。お互いに、ゆっくりと助け合うのが認知症の予防である。

機銃掃射を浴びたあの頃

2014-07-24 05:51:22 | Weblog
敗戦記念日の8月15日の1か月前の今頃になると、毎年機銃掃射を浴び九死に一生のあの体験を想い出す。昭和20年7月、千葉県江戸川の運河の拡幅工事に勤労動員されていた時だ。雲の間から突然、米軍のグラマン艦載機が現れ僕らに向かって機銃を浴びせてきた。幸い全員無事だったが、今でも操縦士の顔が想い浮かぶ。それほど至近距離からの掃射であった。

記録を調べると、東京への空襲は5月25日の山の手空襲を最後に大規模なB-29による空襲は終わり、そのあと地方の中小都市への空襲に移っている。同時に洋上からの艦砲射撃や小型艦載機の大編隊が来襲、無差別な機銃掃射を市民に浴びせるようになった。10年ほど前、八王子市に4年間居住、郷土史を調べたことがあるが、同市は8月3日の大空襲で旧市内の8割が焼失、450人近くが犠牲になったが、その直後の5日、今度は中央線の湯の花トンネルに停車中の列車に無差別機銃掃射が浴びせられ50人が亡くなっている。八王子には東京から学童疎開で来ていた品川区の5年生が、やはり機銃掃射で死亡、地元の人がお寺に「ランドセル地蔵」を作り命日には、お地蔵さんを開帳している。

最大の艦載機による空襲の悲劇は、7月25日の大分県津久見市保戸島小学校で起きたグラマンによる空爆と機銃掃射であった。米国側は同島にあったレーダー基地に対する誤爆だといっているが、この空爆と機銃掃射で学童125人が死亡、教師2人も犠牲になっている。学童に機銃掃射を浴びせていて、誤爆とは白々しい。イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの地上攻撃が激しさを増している。テレビの画面を見ると、機銃掃射を体験した僕らは、理由はなんであれ、即時戦闘を止めてくれと祈るだけである。

半世紀続く町の夏のラジオ体操

2014-07-23 05:27:09 | Weblog
昨日から町内会主催の朝のラジオ体操会が始まった。左膝の痛みで昨年は参加できなかったから2年ぶりだ。昨年暮の人工関節置換手術の結果がよく、杖なしでも歩行できるようになった。しかし、大事をとり、跳んだり跳ねたりする運動は避けているが、運動不足がちの老体には気持ちがよい。朝の新鮮な空気を十分に吸って、手足を動かしている。

町のラジオ体操会は、半世紀以上前から当時町内会会長だった家の前の公道で催されている。公道といっても東京の住宅街なので、交通はほとんどない、。しかし、あらかじめ警察の許可をとり、隣近所に対して気配りはしている。ラジオ体操は戦後昭和25年までは”進駐軍の命”によるものだろうか一時中止されていた。時代も食糧難で、皆で体操する空気でもなかったのかもしれない。

戦前昭和から戦中にかけて、夏休み、学校の校庭で催されたラジオ体操は、日本の風物詩であった。子供たちだけでなく、町内のステテコ姿の大人たちまで大勢参加し大声あげてラジオ体操の歌を合唱した。”新しい朝がきた”という今の歌ではなく”踊る旭の光を浴びて”の昔の歌だ。考えると、この昔の歌を知ってい世代は皆、後期高齢者ばかりになっている。

最近、街から子供たちの遊ぶ姿がめっきり減ったが、ラジオ体操の会場には、昔ながらに首から出席のカードをぶら下げた子供たちが、どこからともなく集まってくる。中には浴衣姿の男の子の姿まである。子供たちが集まって遊ぶ機会が減り、その場所も少なくなってきた。夏休みの想い出造りの一つである。社会の大人たちが、もっとこのような機会を提供したほうがよい。

「花子とアン」と昭和20年4月15日空襲

2014-07-22 05:14:14 | Weblog
昨日の朝、NHKの連続ドラマ「花子とアン」の総集編を見た。番組開始以来20%台の高視聴率を維持しているそうだ。わが家でも時間になると、老妻は家事の手を休めてテレビの前に座り込む。僕も時々視聴するが、改めて昨日第一回の空襲のシーンで、主人公の村岡花子さんが、蔵書をいっぱい手にして、外へ避難する場面から、昭和20年4月15日夜の城南空襲を想い出した。

村岡さん宅は幸い、空襲の難から免れたが、この空襲で家のあった大森界隈は灰塵に帰した。先日、村岡さんの義理の娘さんと小学校時代同級だった方の書いた空襲体験記を読む機会があったが、避難先の池上本門寺まで猛火に包まれ、逃げ場を失っていた。当時、わが家は大森から10㌔ほど離れていた地に住んでいたが、亡父の日記には”敵200機京浜西南地区を遅い、各所火の海、初めて空襲の脅威を肌で感じる”と記している。この空襲で、わが家から私鉄で一つ駅先の自由が丘駅前も焼失、勤労動員先の蒲田区六郷(当時)の工場も全壊した。

東京では3月10日の下町大空襲以来、ほとんど毎日のように空襲警報が発令され、都内のどこかかで被害が出ているが、当時は自分が住んでいる周囲しか詳しいことは判らなかった。先日母校の野球の応援で会った友人の一人も世田谷区で空襲にあっている。僕は自由が丘に近い場所なので、4月15日の空襲だとばかり思っていたが、それより先の空襲で、家の周り数軒だけ被害にあい、近くのお寺、九品仏へ母親と一緒に避難したという。当時自由が丘に住んでいた別の友人にこのことを聞いたが、わからないという返事だった。

来年は敗戦70年の節目の年なので、自分の住んでいた目黒区の空襲記録を調べているが、下町空襲前の3月5日、わが家近くの稲荷神社が焼失した記録が残っていない。警視庁カメラマンだった石川光陽さんの写真には、近くで消火する警防団の姿があるから空襲は間違いなくあった。70年の歳月はやはり重い。来年は空襲だけではなく、戦争体験者の証言を残す最後のチャンスである。