「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          多難だった2011年、さようなら!

2011-12-31 06:50:19 | Weblog
2011年(平成23年)も今日で終わる。今年は一言でいえば、3月11日の「東日本大震災」でつきる一年であった。千年に一度というM9・0の大地震と巨大津波に見舞われ、さらに東京電力福島原発の未曾有の事故まで発生した。80年を超える僕の人生にあっても1945年(昭和20年)の敗戦の年とならんで忘れられない一年であった。

今年、小ブログも開始して5年、更新2千回を記録したが、調べてみると、ほとんどテーマは震災に関係していた。なかでも震災発生の3月11日から三か月ほどは連日そうで、しかも政府の震災後の対策の遅れと無策を批判したものだった。4月27日のブログ「管総理”月月火水木金金”でお願いします”は一日のアクセスが7916人、14位の高ランキングであった。管総理が危険区域住民の一時帰郷について、あまりにも無神経に”連休明けになる”と発言したことへの批判であった。

今年1年の小ブログIP上位ベスト・ファイブは次の通り。
(1)6480(4月26日)「管総理”月月火水木金金”でお願いします」
(2) 510(4月15日)「人迷惑な内閣官房参与は辞任せよ」
(3) 406(4月13日)「管総理の感性と国民との見解の相違」
(4) 370(4月28日)「なんとかならないのか農産物の出荷停止」
(5) 362(4月29日)「”復興方程式”のカギは管総理の辞任」

管総理の退陣後、小ブログのIPは低下傾向にある。野田内閣に代わって、政治がある程度安定してきた証拠かもしれない。新しい年もこの傾向が続くことを期待している。

             消えて行く歳末風景に郷愁

2011-12-30 07:17:42 | Weblog
今年もあと2日、押し迫ってきたが、ただそれは言葉だけで実感はない。やはり馬齢を重ねたせいなのだろうか。戦前、子供だった頃の東京の師走には歳末の風物詩があったが、今はこれが消え去りつつある。ほのかな郷愁みたいなものを感じる。

昨日、病院帰りに駅前の商店街を歩いたが、一向に歳末を感じなかった。戦前は”数え日”の今頃になると、商店街の空き地に臨時に歳末大売り出しの抽選場が設けられ、一等賞の桐の大箪笥が出たりすると、街中が大騒ぎとなった。駅前には、チンドン屋さんのジンタが響きわたりいやがおうにも、歳末の慌ただしさをかきたてた。そして、夕闇が迫ると駅頭には、制服を着た救世軍の兵士たちが”信ずる者は皆こい。ただ信ぜよ”と歌いながら、慈善鍋を前に往く人々に募金を呼び掛けていた。

歳末になると、戦前は東京の区部でも餅つき風景がよく見られた。僕の母方の実家でも早朝から近所の人が集まり、もうもうと立ち込める蒸篭の湯気の中で、次々と餅がつきあげれていった。そのつきあげの餅を餡や黄粉でくるめて食べる喜びは忘れらない思い出だ。わが家は当時JR五反田駅近くの目黒川沿いにあったが、大森海岸から暮れになると、漁師さん(魚屋)が正月用の新鮮なサカナや海産物をリヤカーにいっぱい積んで売りにきた。まだ江戸前のサカナがたくさん獲れていた。

昨日、駅前通りを見た限り、昔のような豪華な門松を飾った店は一軒もなかった。昔は”一夜飾り”を人々は嫌い、どこの家でも新年の飾りつけは大晦日前にすましたものだ。”苦餅”といって29日(九=苦)に餅をつくことも嫌った。そして、すべて終えた後で静かに新年を迎えたものだが、今はあまり縁起をかつぐこともなくなったし、けじめをつけることもなくなってきた。

        国民を馬鹿にする”政治屋”どもの合従連衡

2011-12-29 07:21:00 | Weblog
暮れも押し迫った28日、民主党の9議員がそろって辞職届を出した。9人は年明けに新党を結成するそうだ。一方、新党大地の代表で仮釈放中の鈴木宗男元衆院議員が「小沢一郎事件」で民主党を離脱した石川知裕議員(無所属)らとともに「大地・真民主党」を設立し総務省に届け出した。ここへきてのこうした新党設立の動きは、何のことはない、政党交付金交付の基準が1月1日にあるからだ。1円でも多く交付金を得ようというのが目的である。

集団で民主党を離脱した9人のうち7人は比例選挙区議員である。しかもうち6人が小選挙区を持たない選挙区での選出だ。本来からいえば民主党からの離脱は即議員辞職だと思うのだが。本人たちは離脱の”大義”をとくとくと述べているが、本当の理由は次回の選挙での当選が危ぶまれいるからにすぎない。また、6人までが今年2月、小沢一郎の処分問題をめぐって一度は民主党との会派離脱届を執行部に提出した”札付き”議員だ。

小沢一郎氏は、今回の9議員の辞任について”渋々”同意したと、伝えられているが、政治家としての彼の言動に嫌気をさしている国民が多いに違いない。彼は繰り返し”一兵卒”として党のために働くと言いながら、そして党籍がないにもかかわらず、先日の新聞では政府が進めている消費増税に反対して「新しい政策研究会」を立ち上げた。なんとこの研究会には108人の民主党議員が参加したという。  

野田総理は”不退転”で「社会保障と税の一本化」に取り込むといっている。東日本大震災後の復興を抱えていれば、消費税の増税は民主党のマニフェスト違反であっても、国民はある程度理解できる。小沢一郎氏らの主張は、国民には反対のための反対にみえる。「真民主党」と名乗っても国民はもう騙されない。国民をあまりにも馬鹿にした合従連衡だ。

         ブログで見る原発事故調の中間報告検証

2011-12-28 09:11:32 | Weblog
東電福島第一原発事故に関する政府委員会の中間報告を新聞で読み、改めて事故直後の東電の初動の失敗と官邸の無能な対応ぶりに驚き、怒りを感じた。天災により引き起こされた事故だが、やはり、これは人災でもあった。中間報告であり、引続き、事故当時の閣僚からも聞き取りが行われるそうだが、将来を見すえて徹底的に調査してもらいたい。

原発事故当時、庶民はテレビの防災服姿の枝野官房長官の発表を食い入るように見たものだが、今一つ理解に苦しんだ。事故2日目の小ブログ「後手後手の大震災政策」は、枝野長官の早朝の記者会見を批判して”事故の技術的な問題を優先させ、住民の被爆問題を後まわしにしている”と書いている。率直な印象として、当時僕らは政府の発表を鵜吞みにして、津波による原発事故はたいしたことはないが、住民には被爆者も出ているから、その対策を優先すべきだと思っていた。ところが13日早朝には緊急冷却装置が停止し、重大事故になる危険があった。枝野長官はこれが解っていたから、会見では技術問題に終始していた。庶民には理解できなかったが、その後の重大事故に発展する 重大局面であったのだ。

3月21日の小ブログ「放射能漏れ、あいまいな国の対応、自治体の過剰反応」は、政府の放射能漏れ対策を批判しているが、一方では一部「避難区域」に入っているいわき市が、市民15万人に対して安定ヨウ素剤を配布したのは過剰反応で、おかしな風聞を流布するだけだとも書いている。さらに4月27日の小ブログ「郡山の放射能汚染の学校校庭」では市内の学校の校庭の土が暫定基準値を超えてるとして郡山市が独自に表土を削った問題を取り上げ、これを傍観視している政府を批判している。今でこそ除染は当たり前だが、当時の管政府は何をしていたのであろうか。ちなみに当時の関係閣僚は高木義明文科相と細川律夫厚労相であった。

               ”ほっちゃれ”の「鮭節」

2011-12-27 06:39:50 | Weblog
札幌冬季五輪(1972年)の前後あしかけ10年札幌に居住したが、よく”ほっちゃれ”という言葉を耳にした。本来の意味は秋の季節に産卵のため沿岸の川に朔上してくるやせ細り身も白くて味の悪い鮭のことだが、転じてこの”ほっちゃれ”を札幌では、あまりに不味いから”放り投げてしまえ”、つまり”役にたたない”人間のことをいうのだと土地の人から聞いたことがある。転勤してまもなく北海道のの事情にうといわが家では、よく値段が安いからという理由から、この”ほっちゃれ”が食卓に上がった。

昨日の夕方、NHK総合テレビで「産地発!たべもの一直線」という番組を見た。毎週日曜日の早朝放送されている番組の翌々週の再放送番組だが、昨日の番組は北海道釧路局発の「鰹節」ならぬ「鮭節」の紹介だったが、大げさにいえば、慢性的な北海道の不況の起死回生を狙えるできる「鮭節」の紹介で、大変興味深く視聴した。視聴率に関係のないNHKの番組には、時々このような好番組がある。

「鮭節」は釧路近くの標津町に住む建築屋さんが趣味のそば打ちから、おいしいダシをつくろうと”ほっちゃれ”を利用して考案したのが、この「鮭節」だそうだ。標津町は人口5千人少しの畜産業の町で、人間より牛の数が多いといわれる。一方、秋鮭の水揚げもあるが,その身は”ほっちゃれ”で、高く評価されていない。考案者の建築屋さんはこれに目を付け、自宅の工場で細々と「鮭節」を作り始めた。

ところが、テレビの出演者も絶賛していたが、「鮭節は「鰹節とは異なる味があり、ラーメンのダシなどには好適だという。標津町だけではない。北海道経済は慢性的に冷えきっており、人口も札幌集中化で地方からの流出が続いている。「鮭節」は東京でも試験的に販売を開始したが、評判は良いようだ。北海道の主産業になるのも夢ではない。

               PCの寿命と帯状疱疹

2011-12-26 06:46:05 | Weblog
ブログの更新がまさか帯状疱疹(たいじょう・ほうしん)の発病で始まるとは思ってもいなかった。帯状疱疹とは人間の身体が過労やストレスなどで免疫力が低下したときに起こる皮膚病である。昔はあまり聞かなかった病名だが,最近はよく耳にする。それだけ世の中のストレスが多くなってきたのであろうか。背中に赤くぽつんと湿疹ができ、最初はあまり気にもしていなかったのだが、一夜にして半身腹部にまで広がってしまった。

2006年に購入したノートパソコンが12月に入ってから調子が悪く、娘からそろそろ寿命で買い変えの時期だといわれていたが、20日の朝PCを開くと、画面の三分の一ほどにタテの筋が入っていて使用できない。PCの寿命は何年ぐらいなのだろうか。毎日の使用の頻度にも関係するのだろうか。とにかく5年間の”疲労”が重なって使えなくなってしまった。早速、修理店に持って行ったが、修理するより新品を買ったほうがよいという店の勧め。暮れに来て思わぬ出費だが仕方がない。80の老人でもPCがないと不便になってしまった。

帯状疱疹の原因が過労やストレスと聞いて、僕には思い当たる節があった。11月から12月にかけて僕のスケジュールは忙しすぎた。13日から22日までインドネシアへ独り旅行をした。若い時と違って心身共に弱くなってきている。これだけでもかなりストレスだったのに、帰国してすぐ僕は12月になって、二つの会の世話役を務めた。そして、その間を縫うように僕は体力維持のためスポーツクラブへ通った。”貧乏根性”の性格。たえず何かしていないと心配な性分なのである。

”年寄りの冷や水”という言葉もある。自分の年を考えずに少し動きまわりすぎた。人間だって機械と同じように”疲労摩耗”からくる故障はある。反省材料だ。

         インド洋上の中東難民の悲劇

2011-12-20 08:10:31 | Weblog
ジャワ島(インドネシア)南東部400㌔のインド洋を航海中の漁船が転覆して200人以上が行方不明となっている。定員100人の小さな舟に250人も乗っていたといわれる。そのほとんどがイラクやアフガニスタンからの難民だという。彼らはオーストラリア北西部のクリスマス島の難民申請収容所に向けて密航する途中だった。

アフガニスタンは1979年のソ連(当時)侵攻以来の政権不安で、すでに600万以上が隣国パキスタンやイランに亡命、さらにここから欧米諸国やオーストラリアなどにに難民として流れていっている。一方、イラクもUNHCR(国連難民救済機構)の推定では人口の七分の一が隣国シリアなどの中東諸国へ逃れ、さらにこれも欧米諸国へ拡散していると言われている。

今回、難民たちが密航をめざしたクリスマス島は、オーストラリア政府が密航防止のため2005年に、難民申請希望者のために一時的に建てた700人収容の建物施設だという。だという。ここで難民と認定されれば、オーストラリアへの入国が許可されれるが必ずしも全員認められると限らない。

クリスマス島は1643年12月25日のクリスマスの日にイギリス領東インド会社の舟が、この島を発見したことから命名されたのだが、リン鉱石採掘が朱産業で、ここで働くために連行さてきた中国人やマレー人の子孫約2000人が住んでいる。イラクやアフガニスタンも依然として政情は安定していない。難民たちはいつ祖国へ帰れるか、はっきりしたメドもない。クリスマスのこの時期に起きた悲劇である。

         街はクリスマスの電飾の花盛り

2011-12-19 07:20:33 | Weblog
クリスマスまであと一週間。わが家のまわりの電飾は年々賑やかになってきている。10年ほど前には一軒だったのが、今では僅か百mほどの通りの両側に競うように飾られれている。電球の数も500球から1000球と増えている。数年前からLED(発光ダイオード)になって電力消費量が減ったことも電飾の普及に拍車をかけたのであろう。

驚いたのは、この電飾用品の95%以上は中国からの輸入品だとのこと。かってはすべて日本品だったのが、台湾品になり、今は中国で出来ているのだという。

韓国の聯合通信によりと、南北境界線を望む丘の上に今年は二つの電飾塔が出来たという。豊かさの象徴である電飾による北朝鮮への心理作戦である。この電飾も中国製品であろう。中国は北朝鮮の最大の友好国である。その友好国で出来た電飾が、敵対する国によって心理作戦に使用されるとは皮肉である。

その点、わが国は平和である。中国製であっても食品と違って害はない。大震災後の憂さ暗さを若干でも吹き飛ばせれば好い。異国の宗教のお祭りには関係ない。