西部ジャワのクリヤガン高原地方の中心都市である。国際的には1955年4月、AA(アジア.アフリカ)会議が開催されている、戦後の東西冷戦下、アジアアフリカの新興国の首脳が一堂に会し、注目を浴びた。主催国からはスカルノ、中国からは周恩来、インドからはネルー、エジプトからはナセル、日本からは高碕達之介経済審議庁長官が参加した。
会議場は今、記念館として保存され、通りの名前もアジアアフリカ通りと改名されているが、同じ通りに改築されたが、和蘭植民地時代からの老舗ホテル、サボイ.ホフマンがあるが、このカフェテリアのメニューに「Okura」がある。オクラアイスのことだが、戦前か戦中か戦後かだれか日本人が教示したのであろう。それほど昔から在留邦人が多い。
戦後の独立戦争の際、バンドンは再侵攻してきたオランダ軍によって火の海と化したが、その当時歌われた軍歌”Halo halo Bandon”が、何故か独立戦争を知らない今の日本人にも愛好されている。
バンドン工科大学(ITB)は戦前からある大学で、初代大統領スカルノも卒業しているが、戦争中、東京工業大学の名誉教授だった林雄二郎先生は砂鉄について学生に教えられていたが、ITB側にその記録がないと生前林先生からお聞きしたことがある。