「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

熟年離婚の採算

2007-03-31 06:13:11 | Weblog
4月から離婚すると厚生年金が夫婦間で分割できるそうで
熟年離婚が団塊世代を中心にブームだそうだ。実態はマス
コミが面白おかしく伝えるほとも思えないが、10年前に比較
して2倍になっているという説もある。

この4月13日で僕ら夫婦は結婚52年である。長いようで短か
く短いようで長い。金婚式をすぎた老夫婦が離婚するとは思え
ないが、かりに離婚するような事態が起これば、二人ともその
日から路頭に迷ってしまう。経済的にも精神的にでもある。

あえて、化石に近くなった夫婦が言わせて貰うならば、熟年離
婚は採算が合わないと思う。1÷2=0・5には必ずしもならない。
それに夫婦の味はするめのようなもので、噛めば噛むほどおいし
くなるもので、おカネでは買えないものがある。

高齢社会になって、夫(妻)の定年後の人生は長くなっている。僕
らでも、すでに15年以上経っている。思い出すと、この期間に、二
人で何回か旅行もしたし、孫が誕生、成長している。人生色々だが
やはり”偕老同穴”、平凡ながら昔の諺のな中に幸せがあるように
思われるのだがー。定年時は、まだ夫婦と若く元気だが、70歳を
すぎ80歳に近くなると人生観も変わってくる。





   「1969年3月30日」の頃

2007-03-30 07:14:07 | Weblog
         ☆ フランシーヌの場合は

     フランシーヌの場合は あまりにもお馬鹿さん 
     フランシーヌの場合は あまりにも寂しい
     3月30日の日曜日  パリの朝に
     燃えた命ひとつ    フランシーヌ
                  (いまいずみあきら 作詞
                   郷伍郎 作曲
                   新谷 のり子 歌)
   

この歌は1969年(昭和44年)3月30日の日曜に、パリの町でベ
トナム戦争とビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺したフランシーヌ・
ルコントという女子学生について歌った反戦歌だった。数えたらもう
38年も前の歌だ。

当時、僕は38歳、子供も3人あって新宿駅西口のベトナム反戦集会
に参加する世代ではなかった。個人的にも前年の12月、父親が死亡、
1月には転職と人生の転機であった。

昨日の新聞によると、靖国神社がいわゆる”A級戦犯”合祀可能を国に
回答したのもこの年だったのを知った。日本人の戦争に対する心のどこ
かに変化の兆しが出てきていたのかもしれない。

転職後、僕はなかば希望して地方の都市へ転勤した。高度成長で東
京の空はどんよりと曇り、なんとなく”田舎”へ住みたかった。なぜこの
若者の反戦歌をいまだに覚えているのかはわからない。
 





江戸への郷愁 ”お釜おこし”

2007-03-29 06:39:24 | Weblog
”芝で生まれて神田で育った”江戸っ子ではないが、わが家も
かろうじて三代、東京には住んでいる。江戸っ子を評して,ケン
カ早い、宵ごしのカネは持たない、五月の鯉の吹流しなどという。
五月の鯉の吹流しにはハラワタがない、つまり腹に一物がない、
何でも自分の思っていることを言ってしまう。だから時には他人
に不快感を与えるーという意味のようだ。

ふだんは江戸っ子などと意識したことないが、時にはご先祖の時
代に郷愁を感ずる催事に出くわすことがある。例えば春(3月27,28)
秋(11月27,28日)二回、品川の旧東海道筋にある臨済宗海雲寺で
催される”荒神さま”のお祭りもそうである。

”荒神さま”は江戸時代から続く庚申信仰で、海雲寺ではこの日、所
蔵の千躰荒神像を御開帳するが、これがいつしか火と水を守るかまど
(台所)を守る信仰となり、さらに商家の”かまど起こし”の縁起と
結びつき人気を集めるようになった。

わが家でも年に二回”荒神さま”に詣でるしきたりである。きのうも老
妻と一緒に”老人パス”でバスを乗り継いで詣でた。東京ではここだけ
にしか売っていない”お釜おこし”(300円)や最近あまり目にしなくな
った豆いたや生姜糖を買い、消えてゆく江戸庶民の味にをしのんだ。今
さらお釜をおこす気はないが、せめてお釜をつぶさないようおさい銭を
あげ、手をあわせた。


インド独立志士 焼岳に死す

2007-03-28 06:34:48 | Weblog
ここ数年、昭和10年代生れの見ず知らずの方から手紙や電話を貰うことがある。
いずれも南方各地で戦病死された自分の父親に関することだ。この世代の方も
定年を迎え”自分史”を書きたくなる年代だが、肝心の父親の最後の足跡がよくわ
からないため、戦史の著がある僕に問合せがあるわけだ。

昨日、手紙を頂いたO氏のご尊父はILL(インド独立連盟)プリタムシン書記長
の通訳をされていたが、昭和17年3月10日、東京の会議に出席するため同
書記長他3人の独立の志士と共に上海から東京へ向かう途中、悪天候で飛
行機が北アルプスの焼岳で墜落、遭難死された。

戦争中の僅か3年半の間にM(マグニチュード)7以上の大地震が3回も起き
ている。年代でいうと①昭和18年9月18日 鳥取地震 M7・2 死者1,083人②
19年12月7日、東南海地震 M7・9 1,222人③20年2月12日 南海地震 M
8・0 1,330人ー。昭和新山は18年12月から20年9月までに形成された。しかし
新聞では小さく扱われ、地元民以外では知る人が少なかった。

焼岳の事故は日本軍がマレー電撃作戦を勝利し、シンガポールを陥落させた直
後で現地で捕虜になった英印軍を中心に、インドではチャンドラ・ボース指導の
独立運動が加速していた。この時期での事故だけに日本政府としては扱いに
苦慮、公表されなかった。歴史に”レバタラ”はないが、この飛行機事故も歴史
の表舞台から消えていった。

孫の制服

2007-03-27 07:14:45 | Weblog
風邪でダウンして早々と寝ていると、労妻が起こしにきた。孫が新
しい高校の制服を見せに来ているという。なんだかんだで10万円も
したと娘が嘆いていた制服がどんなものかの興味があった。玄関に
は、すでに180cmちかくある、孫が紺のジャケットに濃いグレイの
ズボン、金茶色のネクタイを締めて立っている。老妻にはその姿が
凛々しくみえたそうだ。祖父母バカもいいところだ。

戦中戦後に学生生活を送った僕らには、格別、制服には想い出がな
い。旧制中学に入学した当時(昭和18年)、中学生の制服は国防色
(カーキ色)の軍服、戦闘帽だった。戦後大學(予科)入学時は物資
がなく、制服どころではなかった。クラスの中には復員してきたばか
りの級友が旧将校服を着ていたり、アルバイト先の進駐軍キャンプの
作業服で通学していた。

そんな時でも若者はおしゃれをしたいものだ。戦前の旧制高校の”弊衣
破帽"のバンカラに憧れ、わざわざ学帽に靴墨を塗ったりする者もいた。
当時の学生はほとんどが学帽(角帽)を被っていた。学生が角帽離れした
のは昭和30年代初め頃か?

孫の制服姿をみて、改めてまた、よい時代だなーと思った。戦後はくズ
ボンがなく、教会の慈善バザーで当たった婦人用の布地で母親が急きょ
作ってくれたズボンをはいて登校した時の”十代の春”を想い出す。そ
れより、戦争中のあの国防色一色の時代だけはコリゴリだ。


大阪場所に八百長相撲はあったか。

2007-03-26 06:04:06 | Weblog
大相撲大阪場所が25日、無事千秋楽を終えた。週刊誌が伝えた八百長
横綱、朝青龍が初日、二日目と連敗し、波乱の幕開けだったが結果的に
は対抗の大関,白鵬が決定戦で横綱をはたき叩きこみ優勝した。数秒足
らづの奇手は、観客をがっかりさせたが、逆にいえば八百長がなかったこ
とを証明した。

わが家は、大げさにいえば一世紀以上の相撲ウォッチャーである。亡父は
明治時代の回向院で横綱、西ノ宮の土俵入を見ており、それを受けた僕も
昭和19年秋の後楽園場所で双葉山の土俵入りを見ている。戦時下両国の
国技館が軍に工場として接収されたため、今のドームのあった球場で野天
10日間興行の珍らしい場所だ。

明治時代から”コンチは相撲”といって八百長相撲はあったらしい。楽日近く
なって十両陥落濃厚の力士が、星勘定のため相手側力士の部屋を”今日は!”
と訪れ金銭を渡し相撲に負けて貰う、つい最近までも7勝7敗の力士が楽日
には必ず勝つと、いった相撲があった。花相撲の怪我を慮る手抜き相撲や無
気力相撲とは違う。大相撲が年二回興行の時は仕方がなかったのかもしれ
ない。

今場所もBS放送で下の相撲から”目を見張って”みたが、僕の目には八百長
相撲はとまらなかった。逆に目にとまったのは久しぶりに日本人若手力士台頭
の兆しをみた。新入幕で敢闘賞を獲得した栃おう山、二度目の技能賞で来場所
三役を狙える豊真将、それに琴奨菊などなど、69連勝の双葉山台頭の時代を
思わせるものがあった。

TVで頭を下げて貰いたくない人たち

2007-03-25 06:40:50 | Weblog
テレビを見ていて不愉快なのは会社や企業のおえら方がそろって
頭をさげ謝罪するシーンである。いつのまにかテレビの謝罪画面とし
て定番化してきた。テレビ局がやらせるのか、会社側が自発的にや
るのかしらないが、視聴者にとってあまり好ましくない。時には白々
しくさえ感じる。

この謝罪シーンを絶対にやって貰いたくなのは原子炉を持つ電力会
社の社長さんである。最近、美浜原発(関西電力)志賀原発(北陸
電力)福島第一(東京電力)などで制御棒抜けのトラブルがあったこと
が明らかにされた。いずれも過去の出来事で大事に至らなかったが、
これを隠ぺいしていた電力会社に問題がある。

僕は数年前、四国電力の美方原発3号を見学する機会をえた。まったく、
この問題については素人だが、整然と動いていて、これではチェルノビリ
ノのような事故は絶対に起こらないと確信を持った。日本人の規律正しい
特性があるかぎり原発事故はないと思った。

しかし、ここへきて、この確信が揺らいできた。以前はプルサーマル計画
など何も問題はない。なぜ地元は反対するのかとさえ思っていた。しかし
再考し、ほかにより安全策はないかと思うようになった。日本人が変わって
きたのである。日本人の勤勉さ、規律正しさは失われてきている。例の正規
非正規社員の差別による”愛社心”の喪失である。

原発関係には、このような差別はないと思うが、いったん事故が起きた時
には大惨事になることを、電力会社のトップはもう一度、心に留め絶対にテ
レビ画面で謝罪するような事態を避けて頂きたい。

ラジオで「センバツ」を聞いた!

2007-03-24 06:14:20 | Weblog
「タミフル」のことをブログで書いた所為であろうか、風邪をこじらせて
しまった("因果関係はありません)。ホームドクターは、僕の身体の
すみずみまで知っているので、僕にいつもの調剤薬をよこした。勿論
「タミフル」ではなかった。

平熱でセキが多少出、喉の痛みがすこしある程度だったが、老妻は
有無をいわせず、僕を床に就かせた。大事をとってのことだが、金婚
式をすませた手前、口答えするのも"大人げ”ないと、すなおに床に寝
た。しかし、昼間から寝られることもない、ラジオで、昨日から始まった
「センバツ」を聞いた。

「センバツ」は今でこそ春を告げる行事になっているが、戦前の記憶や想
出はない。あの中京・明石の25回延長の熱戦は僕らの世代でも知ってい
る。戦後アルバイト先の工場で、あの中京の吉田投手がいて感激した。
「センバツ」はというと、昭和29年の大会で飯田長姫高校の”小さな大投手”
と早実の王貞治投手が優勝したことぐらいで、いずれも僕が社会人になって
からのことだ。

ラジオは大阪桐蔭と日本文理の試合を放送していた。桐蔭の強打者,中田
投手の名前は知っていたが、テレビでも見たことがない。アナウンサーの
表現でどんな投げ方をするのかー、どんな打者なのか想像して聞いていたが
いつのまにか薬がきいてきて眠りに入ったしまった。

オーデイオだけではダメなのである。ビジュアルも伴わないと情報伝達は
不便な時代になってきた。


素人の診た タミフルの因果関係

2007-03-23 06:09:44 | Weblog
インフルエンザ治療薬「タミフル」を服用した10代の患者の中に
異常行動が出るという。厚労省は21日”原則的”に10代の患者
が服用しないよう全国の医療機関に通告を出した。
”原則的”とは薬と異常行動との間の因果関係が解明されていな
い、ということだった。ところが22日の厚労省次官の記者会見で、
これまでの23例8人の死亡事故はは分析したが、それ以外の1、8
00の副作用については分析していなかったとを明らかにし、事実上
”因果関係”の存在を否定する前言を取り消した。

昭和30年代に結婚した僕ら世代は薬害について敏感である。32年
に西独(当時)の製薬会社で製剤し、日本では「イソミン」という名前
で売り出された睡眠薬をのんだ妊産婦から309人も身体異常児が生
まれた。わが家では31,35,40年とまさにこの時期に三児が誕生し
ている。幸い老妻は睡眠薬のお世話にならなかった。でも他人事では
なかった。

専門家が"因果関係はない”と明言しているのだから多分薬の服用と異
常行動との間の"因果関係”はないのだろう。でもタミフルを飲まなけれ
ば患者は異常行動をとらない、それに同じような行動を取るものが何件
もあれば、素人の目には"因果関係”があるように思われる。

老妻は数年前、タミフルを飲んだが異常はなかった。二人とも高齢にして
は健康で、常用薬は僕が隔日に一錠飲んでいる降圧剤だけ。老妻は普段
は薬はなにも飲んでいない。若い時のサリドマイドの体験からか、出来る
だけ薬は飲まないことにしている。だけど、いつお世話になるかもしれ
ない。一日も早い厚労省の解明を望む。



石原慎太郎氏に”ヨイショ”のエール

2007-03-22 05:52:56 | Weblog
東京都知事選挙がきょう告示され4月8日の投票日にむけて選挙
戦が始まった。石原慎太郎現知事に対して浅野史郎慶応大学教授
(前宮城県知事)ほか10数人が立候補している。政治にうとい僕の
予想では石原氏の”地すべり的”勝利だと思う。知事の三期出馬は
本当はは反対だが、過去の実績、とくに環境対策に果たした知事の
功績は大きい。

石原氏の功績の第一は、この東京の青空である。彼もきのうテレビで
語っていたが、この青空は大阪、神戸にはない。都が推進しているジー
ゼル車の排出規制で、東京の空は見事に昔の空によみがえった。

昭和40年代、東京の空は大気汚染でどんよりと曇り、光化学スモッグ
警報が絶えず出ていた。ちょうど都政でいえば美濃部亮吉知事のころで
あった。美濃部都政は”革新”を掲げていたが、財政面の失敗から都民は
閉塞状態にあったのを記憶している。そんな中、小学生だった長男が小児
喘息にかかった。大気汚染(環7)によるものだった。一家は東京を脱出、
北海道へ転勤した。

転居で息子の喘息は完治した。それから暫らくして横路孝弘氏を担ぐ勝手
連の市民運動が始まり、横路氏は知事に当選した。北海道の方言で”いい
ふりこき”というのがある。言葉ではよいことを言うが行動がともなわないこ
とをいう。横路道政はまさにそれであった。美濃部都政、横路道政を知ってい
るだけに同じ”市民運動”の上にのる浅野都政は期待できないと思う。