「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

百歳時代には”キョウヨウ” と”キョウイク”

2018-03-31 06:15:38 | 2012・1・1
産経新聞の3月30日付け17面(首都圏版)に「百歳時代とヘルスケア」という座談会の特集記事が掲載されていた。この座談会で基調の挨拶をされた東京医科歯科大学の朝田隆特任教授が”これからの高齢者には”キョウヨウ”と”キョウイク”が必要だ”と面白いことを言われていた。朝田教授の言う”キョウヨウ”とは「教養」ではなく「今日用事」、”キョウイク”は「教育」ではなく、「今日行く」ということだそうだ。

こじつけだが含蓄のある言葉である。言われてみれば、加齢とともに老人には毎日決まった用事が少なくなってくるし、今日行くところも減ってきている。僕も朝起きて”朝シャン”し、三食食べて、テレビをみて、PCの前で座るのが、ルーティンの毎日の生活だ。変化がない。他人と違うと言えば、75歳から始めたこのブログ書きだ。原則として毎日更新につとめているが、結構、頭の刺激にはなっているようだ。

困るのは”今日行く”のほうだ。幸い介護にはなっておらず、デイサービスの身ではない。70歳代には毎朝ラジオ体操に通っていたが、膝に人工関節を入れてから”今日行く”場所が無くなってしまった。どうしても運動不足になりがちだ。加齢とともに社会との接点が少なくきたが、出来るだけ昔の会には出ることにはしているが、”今日行く”ではない。僕の”今日行く”は、家人から嫌われるが、毎日の買い物だ。杖をつきつ老爺が買い物姿は哀れに見えるらしいが、百歳時代を生きる老人の知恵かもしれない。

貴乃花親方 金正恩委員長

2018-03-30 06:08:55 | 2012・1・1
大相撲の貴乃花親方が昨日開かれた相撲協会理事会で委員から平年寄りに二階級降下処分にさせられた。理由は先場所中に無断欠勤を繰り返したり、弟子の十両力士、貴公俊の付け人暴行事件の責任を問われたものだが、貴乃花は今年一月、協会の理事を解任されており、僅か三か月で、協会の位を五段階も降格させられたわけだ。横綱経験の親方が、平年寄りへの降格は過去にあまり例をみない。

昨年の九州場所前に起きた横綱日馬富士の貴ノ岩暴行事件から派生した貴乃花親方の相撲協会に対する言動は組織人としては理解しにくかったい。その親方が協会の改組を訴え、内閣府へ告発状を出したと聞いて、過去の相撲協会の紛争史に詳しい僕には、これで親方は自爆だと思ったが、その通り、貴公俊事件のおまけまでついてけりがついた。

”床屋談義”めくがが、僕には貴乃花親方の謝罪と反省の記者会見をテレビで見て、何故か北朝鮮の金正恩労働党委員長が北京へ電撃訪問して、習近平国家主席とニコニコ顔して話し合っている姿とオーバーラップしてみえた。核実験とミサイル発射で中国との関係は冷え込んできたと伝えれていたが、やはり「北」にとっては頼れるのは中国しかないのだ。貴乃花親方も相撲協会なしではやっていけない。

二人とも共通点が多い。二代目の御曹司で、世間知らずである。”過ちては改むに憚る事なかれ”(論語)である。貴乃花親方は”真摯に処分を受け止め鍛錬に励む”そうだが、金正恩委員長はどうか。世界の流れは、和平に向かって「北」の思うようにいってているようだが、謝罪と反省がなければ本物とは言えない。








旧東海道筋 品川宿の春

2018-03-29 06:12:28 | 2012・1・1

三月なのに初夏を思わせる昨日、老妻と一緒に旧東海道筋にある曹洞宗の古刹、海雲寺の春の例祭に参拝してきた。海雲寺は江戸時代から”竈(かまど)の神様、火の用心にご利益があるとのことで、庶民の間で〝荒神さん”として人気のあるお寺さんだ。わが家でも先代の昔から春秋二回の例祭には必ず、御神体に護摩を焚いて貰うしきたりになっている。

今年の東京は染井吉野の桜の満開が早く、例年なら七分から八分咲きの”荒神さん”の枝垂桜まで満開だ。同じ東海道筋にある真言宗の古刹、品川寺の桜も江戸地蔵第一番の露座のお地蔵さんをバックに咲き誇っていた。

二つの古刹とも品川宿から1キロほど離れているが、旧東海道に面してある。昔は海にそって街道があったこともあって、品川寺には江戸時代に海難事故でなくなった犠牲者の慰霊碑もある。荒神様の街道の縁日の露店には、往時の名残りなのか、わかめなど海産物を売る店が今でも多い。

桜だけではない。街道からちょっと横道をはいった、象のお寺で有名な日蓮宗、真了寺近くの塀にはボケの花がこれまた、まっ盛りであった。お江戸の昔の春をしのぶ、うららかな一日であった。
(写真説明)上段左から右へ ①と③と④が品川寺の染井吉野と露座の地蔵 下段左から右へ縁日のわかめ売り、旧東海道,真了寺とボケの花

藪の中の森友文書改竄 いつまで続くのか

2018-03-28 05:59:32 | 2012・1・1
森友文書の改竄について佐川宣寿前国税局長官の国会喚問の模様を昨日、午前(参院)午後(衆院)テレビの生中継でみた。合計4時間超にわたる喚問だだったが、改竄の時期、動機、経緯など肝心の点になると”刑事訴追の恐れがある”一点ばりで証言を控えた。これでは喚問の意味はなく、依然として真相解明は藪の中だ。

森友疑惑が表面に出た昨年2月から4月にかけて当時財務省理財局長だった佐川氏は国会質疑の参考人として何回も呼ばれ,お馴染みだが、昨日の喚問もあの暗い無表情な顔つきながら、”刑事訴追”を理由に56回も証言を控える時には苦渋がにじみ出ていた。時々、回答に困り、補佐人の弁護士に助けを求めていたが、僕には何故”刑事訴追”を怖れて証言を拒否するのか理由が解からなかった。

政治や法律にあまり詳しくない僕である。改めて過去の国会喚問を調べてみたら、”刑事訴追”云々は偽証罪を避けるための常套の台詞とのことだ。国会喚問で偽の証言をすれば、逮捕されるので、この台詞を使うのだそうだ。官僚のトップを極めた人物だから、こういったことには長けているのだろう。佐川氏はこれで、国会喚問は切り抜けたと思っておるかもしれないが、森友問題は根が深く終息したとは思えない。

世界情勢が急転している。北朝鮮の金正恩労働党委員長が中国をお忍びで電撃訪問したようだ。南北首脳会談を前に何を話し合ったのか。それにつぐ米国と北との首脳会談は実現されるのか。トランプの”アメリカン.ファースト”の通商政策はぢこまで行くのか―などなど難問山積しているが、森友文書改竄という一官僚の個人的理由で、国の政治が停滞してよいのだろうか。





老人専用車 老人専用トイレを!

2018-03-27 05:37:21 | 2012・1・1
半世紀前以上も前、机を並べて一緒に仕事をした親友(故人)のT夫人と久しぶりに会い、満開の桜の下で、食事をしながら、老妻と三人、故人を偲びながら近況を語り合った。三人とも昭和1ケタ世代、戦中戦後の厳しい時代の共通体験があるだけに話があう。

T夫人は曽孫三人にも恵まれているが、ご自分の意思で、長年住み慣れた東京郊外の集合住宅で独り住まいをされている。お元気で毎朝地域のラジオ体操に参加、そのあと絵日記を書き、随筆の同人会でも活躍されているスーパーおばあちゃんである。僕ら夫婦との近況のやりとりもメールである。

話の中で、夫人が月一回、都心の眼科病院に通院されていることを知ったが、驚いたことに乗車駅の立川から御茶ノ水まで40分間、立ち詰めのことが多いという。病院の予約との関係で朝のラッシュ時とぶつかるからだ。夫人は足が丈夫で杖を持たないせいか、老人優先席でも席を譲られることがないという。僕にはとても耐えられない。婦人専用車の是非をめぐって話題になっているが、車両の半分でもよい老人専用車を設けて貰えないだろうか。

僕の体験で困るのは、公共施設などに”多目的トイレ”が少ないことだ。杖つき老人になると、用をたすのに一般トイレ、とくに和式ではできない。僕はあらかじめ、インターネットで駅などは調べてゆく。超高齢化時代、外出するお年寄りも多くなる。2020年の東京五輪。パラリンピックがが良い機会だ。関係者は、老人向けの施設を再検討して貰いたい。

桜 木蓮 満開

2018-03-25 18:22:03 | 2012・1・1

東京の桜は例年より7日も早く24日、満開宣言が出ているが、わが家近くの呑川緑道(目黒区)は8分から9分咲きといったところだ。最近すっかり有名になった目黒川と違って、こちらは住宅街の中とあって、日曜日なのにお花見の人は少ない。ベンチもなく道行く人がカメラに収めるぐらいで、もったいない。

緑道(暗渠)から少し入った小道のマンションの庭に紫色した木蓮の木があり、こちらは盛りを過ぎて散り始めてきた。桜はパツと咲き、パっと散る、その姿が大和魂だと言われた時代があったが、木蓮の花言葉は”持続性”、開花して長い間、人々の目を楽しませてくれる。人生、80歳半ばをすぎて、やはり、一回限りの人生”である。桜の短い華やかさもよいが、多少老醜はあっても木蓮の持続性もよいと思うようになった。


リカレント教育とRPA(事務のロボット化)

2018-03-25 07:27:36 | 2012・1・1
人生百年構想会議の席上、安倍晋三総理がリカレント教育の普及拡充を関係閣僚に指示したという。リカレント教育とは英語の「recurrent」、回帰、反復という意味からきていて”学び直しとでも訳そうか。百年という超長寿社会を前に、若い時の教育だけでなく、人生の途中でもリカレント教育が、とくにIT技術では必要になってきたというわけである。

IT時代の先駆け、ワープロが世に出た昭和の終わりから平成の初め頃ではなかっただろうか。機種の一つ「一太郎」の名称が、戦前、軍人美談として教科書で学んだ僕ら昭和世代の話題になったことを覚えている。30年ほど前のことである。そのワープロ時代が去ってPCインターネット時代に移行したのは今世紀になってからだ。僕が75歳を機会にPCでブログを書き始めたのは2006年からである。

総務省の統計によると、2016年度のわが国のPCの普及率は73.2%、スマホも71.8%と固定電話の73.0とほぼ同じである。30年前にはゼロだったのだから驚くべき急速な普及率である。そして、このIT革命は依然進行中である。昨夕、NHKテレビのニュース番組で「RPA」を特集していた。「RPA」とは"Robotting processing automation"の略で、人屋も口知能を備えたロボットによる業務改革の事で、すでに導入中の企業が400社もあるという。

ワープロから僅か30年のこの変化である。レカーレント教育がなければ社会についていけない時代になってきた。PCのインターネットで手一杯の80老人には難しい時代になってきた。


理解が難しい南方軍の旧陸海軍の配置組織

2018-03-24 05:44:33 | 2012・1・1
昨日、小ブログでスラウェシ島で敗戦直後、インドネシア独立戦争に参加して戦死された菊池康郎さんの甥の優さんから康郎さんの軍歴をお聴きしたが、戦後73年、昭和40年代生まれの優さんにはわからない。当たり前のことだ。昭和6年生まれ、しかも大東亜戦争下のインドネシアについて本まで出している僕でさえスラウェシ(セレベス島)の旧陸海軍の組織と配置図は理解しにくい。

戦時中、旧蘭印(インドネシア)は、大別してジャワ、スマトラは陸軍占領下、セレベス、バリ、カリマンタン(蘭領)は海軍占領下に置かれた。ジャワは第16軍、スマトラは第25軍でそれぞれ仏印(ベトナム)サイゴン(現在ホ―チンミンし)の南方軍総司令部の配下にあった。一方、セレベスなど蘭印時代外領と呼ばれた地域は海軍の第二南遣艦隊司令部に所属し、その特別根拠地隊がマカッサルにあった。マカッサルには外領地域全体の軍政を統括する民政府もあった。

セレベス島には、マカッサルのほか北部のマナド(旧メナド)には軍港と海軍航空基地があり、言ってみれば島全体が海軍占領下の島だったが、昭和18年10月、豪北(オーストラリア北部)地域に駐屯していた第二方面軍(阿南惟幾司令長官)が戦局の変化によりセレベス島中部の山岳地帯のシンカンに司令部を移し、全員1万2千人が移転してきた。

敗戦後、第二方面軍兵士は連合軍指定の俘虜収容所のあるマリンプンに集結を命じられた。その”死の行進”の模様は「セレベス戦記」(奥村明 昭和49年)に詳しいが、菊池康郎さんのお墓のあるエレンカンも部隊は通過している。奥村さんの本によると、部隊からは”逃亡兵”も出ていたようだ。陸海軍の組織配置の難しさが73年前の当時の出来事を闇にしているきらいもある。

スラウェシ島でインドネシア独立戦争に参加した日本兵

2018-03-23 07:12:38 | 2012・1・1
昨日、横浜で開かれたスラウェシ研究会に参加、会に同席された、戦後の混乱期、中部セレベスのエレンガンでインドネシア独立戦争に参加、戦死された菊池康郎さんの甥にあたる優さんから昨年、墓参した際の現地の話を聞いた。研究会のネット会報誌「スラウェシ.マガジン」には,同じように戦後、東南スラウェシ州コラカで独立戦争に参加、和蘭軍に捕られら処刑された樺島海軍中尉の事が紹介されているが、菊池さんのように陸軍の一般兵士の参加は初めてのことだ。

戦後インドネシア各地に残留し、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の軍人、軍属はジャカルタの残留二世組織の「福祉友の会」などの資料を参考に推定すると、千数百人で、そのうち数百人が戦死しているが、はっきりしない。それに「福祉友の会」の資料はジャワ、スマトラに残留した会員たちの情報によるもので、バリ、セレベス、カリマンタンは含まれていない。

しかし、戦後の連合軍BC級マカッサル裁判資料記録(茶園義男編1992年)によると、戦後の独立戦争に参加した理由で海軍特警(憲兵)だった畑田實さんら3人が処刑され、ほかに陸軍憲兵だった安島末蔵さんが同じく処刑された記録がある。戦後の事件でBC級裁判にかけられ処刑されたのはマカッサル裁判だけである。今回初めて菊池さん話を聞き、歴史の表面から消えてしまったが、戦後スラウェシでは、ほかにも独立戦争に参加した日本人がいたかもしれない。

東京港区の古刹、青松寺の境内の一角にはインドネシアの初代大統領スカルノが揮毫した”独立は一人類のものならず、全人類のものなり”の顕彰碑が改めて想い出されれる。菊池康郎さんは陸軍少年戦車学校出身で、当時弱冠20歳であった。菊池さんのお墓は今、エレンガンの英雄墓地の一角にある。








「後期」が「前期」より増えた高齢者新時代

2018-03-22 05:57:20 | 2012・1・1
総務省のこの3月1日現在の人口推計によると、75歳以上の後期高齢者人口が1,770万人で、65歳-75歳までの前期高齢者の1764万人より増えた。この傾向は、団塊世代(1942年―49年生まれ)が75歳以上になる2025年に向かって加速して行く。超高齢化時代の到来である。医療、介護、年金などいろんな問題が派生してくるが、今の「前期」「後期」という年寄り定義でよいのだろうかー。

10年前の2008年、後期高齢者保健制度が発足した時、当時でも「後期」という言葉に抵抗があり、福田康夫首相が「長寿」と名称を切り替えたりしたが、今は日本老年医学会が高齢者は75歳からと提言したり、事実、前期高齢者の中には年寄りと思えぬ元気な人が多くなってきた。

今、87歳の僕だが、自分が老人になったと感じたのは80歳を過ぎてからであった。81歳の時、僕は3回目の膀胱ガンが再発して入院、同じ年、左膝人工関節置換手術、さらに82歳と84歳の年に大腸ガンの腹腔、開腹手術を2回している。これだけ、集中的に入院手術をくりかえせば、健康を誇示していた僕も自分が年寄りになったと感じるようになった。

10年前の75歳時は”老人”ではなかった。日記を見ると、膝が多少痛み出したが毎日早朝ラジオ体操は続けており、ドバイまで1週間の旅行をしている。パソコンを始め、ブログを書きだしたのも75歳からだ。老いへの”歩みのはやさは、それぞれ”だが、65歳から高齢者とする社会通念は時代にそぐわないのでないだろうか。75歳「後期」とする高齢者制度も改革の必要があるのではー。