「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       蘭印から連行された戦時中の豪州の日本人収容所

2012-02-29 07:15:55 | Weblog
「スラウェシ情報マガジン」というHPがある。インドネシアのスラウェシ(セレベス)に関するあらゆる情報や文化また戦前から戦中戦後の日イ関係の歴史が網羅されていて面白い。僕も読者の一人だが、先日、このHPの同じ読者の女性からメールが届き、父、大叔父の戦争中の足跡を知りたいと依頼があった。

女性の父上と大叔父は戦前、セレベス島のマカッサルで商売をされていたが、大東亜戦争が勃発した昭和16年12月8日、旧蘭印政府の官憲によって逮捕され、セレベス、ジャワの抑留所を転々と移動されたあと、中部ジャワのチラチャップ港からオランダのクレメール号というオンボロ船に乗せられ、”地獄”の苦労を味わい、西豪州のアデレイト港に到着した。この船には蘭印各地から逮捕され集められた約2千人の日本人が乗っていた。

日本人たちはここで男性単身者はアデレイト近くの砂漠地帯にあるLoveday抑留所へ、家族持ちと女性はメルボルン北方100マイルのTatura収容所へ、また一部はニューサウス・ウェルス州のHAY収容所に送られた。日本人たちは、それぞれのキャンプでジュネーブ協定に基づき、比較的厚遇された生活を送り、そのうち約800人は昭和17年8月、英国との交換協定で帰国した。しかし、残りの1200人は戦後まで抑留され、昭和21年3月、やっと帰国できた。

僕の手元にLovedayの体験を記録した冊子が三つある。そのうちの二冊はジャワ島で逮捕され、Lovedayに送られ、交換船で帰国するまでの記録だが、もう一冊の「抑留日記」(古池三八勝著私家本)は正金銀行のスラバヤ支店長だった著者が、逮捕から4年有余にわたるLovedayでの抑留生活を綴った貴重な記録である。このうち交換船で記録した冊子には、抑留日記と一緒に交換船で帰国した方の名簿と、残留した方の名簿が残っている。

僕は「スラウェシ情報マガジン」の読者から依頼を受けて、改めて名簿をチェックしたが、父上と大叔父のお名前は見当たらない。それどころかセレベスから連行されてきた方々の名前は一人もない。また、どの抑留日誌を見ても、ジャワ、ボルネオ、スマトラからの交流記録はあるが、セレべス組のものはない。依頼を受けた方の父上は昭和21年2月、メルボルン港から「高栄丸」とい引揚船に乗って3月浦賀港に帰国している。「抑留日記」の古池さんもこの船に乗って復員されている。

セレベス組の豪州抑留所の記録は残念ながら今のところ不明である。多分、推測ではHAY抑留所か、LOVEDAYにもう一つ別のキャンプがあったのではないかと思うのだが。Tatura抑留所に少年時代生活していた方の記録が、戦前蘭印におられた方々の会「じゃがたら友の会}の機関誌に掲載されていて、僕も直接電話してお尋ねしたが、残念ながら不明である。どなたかご教示ください。

        アフガン・テロとイスラムに配慮した旧日本軍

2012-02-28 07:15:15 | Weblog
アフガニスタン駐留の米兵がイスラム教の聖典、コーランを焼いたとして国際治安支援部隊(ISAF)要員が射殺され、さらに各地でこれに抗議するデモやテロが広がっている。なんで、こんなバカなことをしたのか。米国はすでにイラク、アフガンなどに介入して長いのに、まだイスラム理解のこんな基本的なことが理解できないでいるのかー。

古い話で恐縮だが、大東亜戦争緒戦時、ジャワ島上陸作戦に従軍した第16軍兵士には事前に”皇軍新たに皇軍をつくる”という手帳が渡されたが、その手帳にはイスラム理解の栞として、こんなことが記されていた。(1)回教寺院に出入りするな(2)土民は(イスラムの掟で)犬や豚を嫌う。左手を使うことを忌む(3)コーラン用語をむやみに使うな(4)土民の礼拝や祭を尊重せよ(5)白い帽子をかぶるな。白い帽子はメッカを巡礼した宗教指導者。

16軍だけではなく、当時の日本軍兵士には基本的なイスラムに接する心得が教えられていた。しかし、それでもイスラムの戒律の厳しいスマトラのアチェでは、占領直後ささいなことから住民との間に衝突が起こり、そのあおりで村のモスク(回教寺院)が焼失している(戦後、当時この事件に関係した有志の募金でモスクは再建された)

20年ほど前の1991年、当時筑波大学の助教授だった五十嵐一氏が、反イスラム作家のサルマン・ラシュディの「悪魔の誌」を日本語に翻訳して出版したために殺されている。最近、日本国内にはイスラム教徒が増え、理解は進んでいるようだが、やはり他宗教について蔑視する行動はしないほうがよい。

             大震災に備えて歴史的な掘り起し

2012-02-27 06:58:48 | Weblog
東日本大震災を機会に過去に国内で発生した大地震や大津波の歴史的な検証が盛んである。確かに大震災前は数百年とか数千前に起きた震災については一般には無関心であった。もう、そんな大震災は起きるわけはないという気持ちが期待をこめて僕らの中にあった。鎌倉の長谷の露座の大仏の首が僅か90年の関東大震災で地面に落ちたことさえ知る人は少なくなり、関心も薄れていた

先日、地域の老人会の旅行で館山市の真言宗の古刹、那古観音に詣でた。お寺は海岸から離れた小高い丘の上に立っており、立派なケヤキ造りの多宝塔がたっていた。住職にいわれを聞くと、二百数十年前の地震のあと建造されたという。帰宅してから調べると、元禄16年11月23日(1703年12月31日)にいわゆる元禄地震が起きている。

元禄地震は房総半島南端の野島岬を震源地とするM8.5の海溝大地震で、付近一帯の海面が隆起したと伝えられている。素人で調べたわけでもないが、那古観音も、このとき隆起した丘の上に建てられたのかもしれない。観音様の本堂へ上る坂道の下には、古い槇の古木があったが、大地震の前は、このあたりに本堂があったのではないかと勝手に想像したりした。この元禄大地震では、対岸の鎌倉にも津波が押し寄せ、八幡宮のあたりまで水浸しになったと記録にのこっている。

平安時代、東北地方に発生した貞観大震災(869年)のことなど、昨年の大地震が起きるまでは一部の地震学者以外、一般には誰も知らなかった。地震のあと、学際的な研究が行われているようだが、想定外のことが起きるということを今回の大臣が教えてくれた。改めて過去の歴史の掘り起しが必要なことを感じた。(写真は那古観音本堂)


                前原”ガキッ子番長”

2012-02-26 07:03:27 | Weblog
民主党の前原誠司政調会長が産経新聞の自分についての報道内容を不服として、国会内での記者会見に産経記者が参加することを拒否した。前原氏は産経新聞のどの記事が悪くて取材拒否したのか明らかにしていないが、どうも産経新聞が前原氏を”言うだけ番長”と揶揄したのが頭にきたものらしい。もし、それが事実であるならば”言うだけ番長”どころか”ガキッ子番長”だ。こんな男が政権与党の幹部だとすれば、世も末期である。

前原政調会長というと、大半の国民はまず、2006年前原氏が民主党代表だった時のメール偽造問題を思い出す。結果的には謝罪したが、あの時の前原氏の、まるで何かにつかれたかのような態度で国会で追及していた姿がまだ目に浮かぶ。同じように2009年、政権交代で前原氏が国交大臣に就任した直後の谷ツ場ダム建設反対の言動もそうである。二つとも、よく事態を調べないで先走った行動に出ている。

過去の例から前原氏が”言うだけ番長”とからかわれても仕方がない。政治家の中にもマスコミ嫌いが沢山あり、記者を会場から記者を締め出してカメラマンだけの会見をしたり、自分好みのネットだけの記者会見をしたりする人もいる。しかし、特定の一社だけに対して、はっきりと理由も示さず取材拒否したのは前原氏が初めてであろう。僕のような末期高齢者からみると、前原氏だけでなく、最近の政治家は昔に比べて子供ぽくみえるが、前原氏にいたっては、いう事なす事がまるでガキである。これで彼の政治生命も終わったようである。

             春を求めて房総へ老人会旅行

2012-02-25 09:30:44 | Weblog
春を思わせる好天気の昨日、地域の老人会主催の日帰りのバス旅行に夫婦で参加した。行く先は房総半島。東京の湾岸高速からアクアラインを通って「海ほたる」経由、千葉県に入り、さらに高速道路で、一路房総半島の先端の館山市の那古観音へ。便利になったものだ。家を出てから2時間足らずだ。昔は両国から房総本線のSLに乗り、那古船形駅まで行くには3時間以上かかったものだ。

旅は観音様を参拝した後、近くの農園で”花摘み”を楽しみ、半島先端に近い白浜で昼食のでサカナ料理を味わい、さらに、山の中の道を行き、カステラ工場と酒蔵を見学、最後に”いちごがり”という盛り沢山のコースであった。参加者は33人で、うち男性は4人だけ、残りは全部おばあさんという構成。会費は昼食代こみで6,800円となかなかリーゾナブル、果たして採算がとれるのかと思えるのだが、それは素人の考えだ。行く先々の見学先で、おばあさんたちは手に持てないほどの買い物をして、そのうえ宅急便で送っている。観光会社はおそらく見学先からバック料金があるのだろう。

4人のおじいさんは、おばあさんたちに圧倒されて、後部座席で静かに手酌で冷や酒を楽しむだけ。まるで昔の女学生の遠足を楽しむかのような女性たちに圧倒された一日であった。でも、それはそれで、毎日、医者に行く以外、暇をもてあましている、おじいさんにとっても変化のある休日で楽しかった。

          小中学校の留年は必要だろうか

2012-02-24 05:43:09 | Weblog
橋元徹大阪市長は,好い悪いは別として話題の発信力のある人だ。2月23日付けの読売新聞首都圏版の第三社会面に”小中学校「留学」検討要請”という見出しの記事があった。小中学生が目標の学力水準に達しない場合は、進級を認めず留年させることを検討するよう橋元知事が大阪市教育委員会に要請したという内容だ。

「留年」というと言葉は良いが、昔流にいうと落第である。義務教育課程での留年は学校長の判断で可能だとのことだが、実際には病気で長期休学した以外あまり例はない。小学校が国民学校と呼ばれた時代でも落第という言葉は聞いたが、実際に落第生はいなかった。

昭和18年4月、僕は旧制中学1年に入学したが、何人かの落第生が他のクラスにはいた。”あいつは国語で落第した”とか”あの男は英語でドッペった”という話を仲間うちで話し合った。戦争が激しくなった翌年からは勤労動員され学校での授業がほとんどなくなったから”落第”制度も自然消滅してしまった。

作家の遠藤周作の本に「落第坊主を愛した母」という作品がある。その前書きによると、遠藤は子供の頃周囲の者や親戚の人たちから馬鹿にされ、学校の先生からも馬鹿扱いを受けて自分でも本当に馬鹿ではないかと劣等感に悩まされたが、母親が”お前には一つ良いことがある。それは文章を書いたり、話をするのが上手なことである。小説家になればよい”と励まされた。遠藤はこの一言で作家への道を選んだとのことだ。

橋元市長は”学んだかどうかに関係なく進級させるのは子供に対してかえって害になる”と言っているが果たしてそうだろうか。僕が知っている限りでも、小中学校時代、学校の成績が悪くても一芸に秀でていた友人は沢山おり、社会に出て成功している。多感な子供時代に留年させても変な劣等感を持たせるだけではないだろうか。

          ”納豆ト―スト”と日本農業の将来

2012-02-23 07:35:03 | Weblog
テレビの夕方の情報番組を見ていたら若者の間で納豆をトーストに挟んで食べるのが流行しているらしい。僕は納豆といえば箸で思い切りかき回し、粘々にして温かいご飯にかけて食べるものと思っていただけに驚きだ。しかし、あまり、これを進んで食べてみたいとは思わない。

日本人の食習慣が戦後急速に変化してきた。その第一はお米離れである。戦争中から敗戦直後の食糧難の時代、お米は配給制であったが、最悪のときでも成人一人当たりの一日の配給量は二合一勺(約300g)あった。(もっともそれは額面だけで実際にはお米がなくて大豆かすやサツマイモで代用されたが) が、額面にせよ、今の日本人にはとても二合一勺の量の御飯など食べられない。農水省の統計によると、2009年の日本人の一人当たりの一日の平均は158gにすぎない。

お米離れの第一の原因は学校給食であろう。戦後食糧難の時代、進駐軍のララ物資から始まった学校給食は日本人の食習慣の多様化を促した。その中での第一はパン食である。今では朝食はパンという家庭は当たり前である。”納豆トースト”もこの中で生まれた産物であるが、考えてみると、トーストの原材料の小麦も納豆のそれの大豆も、自給率は小麦が14%。大豆は6%と極端に低く外国からの輸入に頼っている。

お米離れに連れて、国は減反政策を打ち出し、農家の高齢化も進んで、今農村地帯では耕作放棄地がどこへ行っても目立つようになった。現在の日本の農家人口は総人口の3%、280万人だそうだが、少子高齢化によって20年後には35万人に減少してしまう。こんな中で民主党政権はTPP参加へ向かって交渉を進めているが、もれてくる情報によれば、日本の農業にとってプラスになるものはない。一方、参加後の日本の農業をどう守るのかの具体案もみられない。将来、日本人の食生活が”納豆トースト”で象徴されるように、ドラスチックに変化するかもしれない。それを見据えての農業政策も必要になってくるのではないだろうか。

           震災の瓦礫処理は誰がやるのか?

2012-02-22 10:03:52 | Weblog
あと旬日で東日本大震災から1年だが、被災地の沿岸部岩手、宮城両県とと原発事故警戒地域を除く福島県の瓦礫処理が遅々として進んでいないようだ。環境省の発表によると、震災による瓦礫2252万トンのうち埋立、再利用など最終処分されたのは、なんと全体の5%の117万トンにすぎない。記者会見でこのことを明らかにした細野環境相は政府が瓦礫処分の最終目標にしている2014年までに完了できるかどうか懸念を表明したという。

今さらながら、菅内閣の大震災対応の稚拙さに腹が立ってくる。原発事故という未曾有の災害はあったにしても、この1年間一体全体何をやってきたのであろうか。昨年の大震災の後、小ブログは過去の関東大震災と戦災後の復旧復興事業はどうだったかを調べて書いた。これを改めて読んでみると、菅内閣のこの1年間の対応がいかにお粗末で無能であったかがわかる。例えば戦災後の復旧復興である。敗戦という事態にもかかわらず「復興計画基本方針」が12月には閣議決定されている。戦災被災都市は全国112都市にわたり330平方㌔の広域だったが、当時の内務省の一計画課長の命により行われている。

瓦礫の処理は、復興への最大の問題であり、発足した復興庁の所管だと思っていたが、環境大臣が心配しているのを見るとそうでもないらしい。それより問題なのは被災地からの瓦礫を引き受けたのは、今の段階では東京都と山形県だけだという。神奈川県のように県は引き受けても処理場の住民が放射能汚染を心配して実現できないところもある。戦後の復興時には強力な権限を持つ内務省があって復興への道は比較的スムーズだった。復興庁は総理直属の権限を持つ役所である。瓦礫処理は野田総理の指導力で解決するより方法はないのだ。総理自身が47都道府県を回って協力を懇請したらどうであろうか。


     ”盗人が警官になった”みたいな中国船の行動

2012-02-21 07:09:21 | Weblog
中国国家海洋局所属の船が日本のEEZ(排他的海洋水域)で海洋調査していた海上保安庁の測量船に対して”ここは中国の法令が適用される水域だ”として調査の中止を求めてきたという。この報道を知って、日本の安全保障は一体どうなっているのか”懸念したのは僕だけではないだろう。言葉は悪いが、中国船はまるで盗人が警官になったかのような威嚇だ。

海保の測量船が同じように調査中止を求められたのは一昨年9月のあの中国漁船も違法操業事件以来とのことだ。暫くおとなしくしていたが、また騒ぎ出してきた。何の魂胆があるのであろうか。多分日本政府が、このほどEEZの起点になる尖閣諸島の七つの島のうち無名だった四つの小島に命名し、三月中に国土地理院に届け出をすることになったことへの反発なのだろう。

今さらいうまでもないが、尖閣諸島はわが国の固有の領土であり、領土問題など存在しない。明治以来、ほとんどの島は日本人の民間人が所有している。戦前には鰹節工場もあり、二百人も居住していたという。戦後は無人になったが、中国はそれにつけこみ1970年頃から領域に油田があるのに目を付けて領土だと主張し始めてきた。

新聞報道だと、先月超党派の議員たちが船をチャーターして尖閣諸島の領域を5時間にわたって洋上調査して船上で獲れたてのカツオを食べたという。領土問題に関心を持つのはいいが、僕にいわせれば姑息の方法だ、やはり、言われているように、ここに船の緊急避難港や電波中継所、気象観測所など建てるなどして”実効支配”したほうがよい。”領土問題など存在しない”といっても相手が相手だ。玄葉外務大臣は在日中国大使を呼んで厳重に抗議しないと、相手は頭に上るだけだ。