「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「アンネの日記」と警視庁捜査一課

2014-02-28 06:23:21 | Weblog
ナチス.ドイツに迫害されて死亡したユダヤ人少女の「アンネの日記」などの書籍が東京の公立図書館や本屋で300冊以上も破られていた。警視庁捜査一課が中心となってこの事件を捜査しているが、僕が昔60年ほど前、駆け出し記者で警視庁詰めをしていた時は、捜査一課は殺人、強盗、誘拐、放火などの凶悪事件担当と記憶していたが、今は仕事の分掌の中に特異な事件も入っているようだ。

確かに特異な事件である。正直言ってこんな事件が今の日本に起きるのか理解できない。僕ら昭和1ケタは、ナチス.ドイツやヒットラーを直接知っている最期の世代である。それも1936年、ヒトラーの青年隊(ユーゲント)が、日独防共協定締結を記念して来日、都内を行進した姿が、かすかに記憶にある程度だ。もちろん、ナチスによるユダヤ人虐殺があったのを知ったのは戦後の事だ。

10数年前、友人夫妻とアムステルダムへ観光旅行に行ったとき、市内のアンネ.フランクの隠れ家を訪れた。その時初めて僕はだ彼女が僕らと同世代(1929年生まれ)で、戦争中、彼女らユダヤ人がナチスの迫害をうけ、最期はホロコーストの犠牲になったことを改めて知り、深い同情の念を抱いた。しかし、一般の日本人にとって、ナチスのホロコーストは日常的な話題ではない。1960年代、ホロコーストの直接の責任者、ナチス親衛隊のアイヒマン中佐が20数年ぶりに逃亡先のアルゼンチンで逮捕された時も、日本では欧米ほど大ニュースではなかった。

それが何故今度のような事件が起きるのか。ネット情報によると、特定の国がこれを反日の国際宣伝の具に使おうとしているフシもある。単なる器物破損の事件としてではなく、警視庁捜査一課で徹底的に事件の背後にあるものまで追及して貰いたい。

大気汚染、中国は無法国家なのか

2014-02-27 06:53:58 | Weblog
東京の桜は3月29日咲きそうだと開花宣言が出た。老人には嬉しい便りだが、逆に昨日、列島各地は中国から飛来した「PM2.5」により、大氣中濃度が国の基準暫定指針値を超え、大阪など西日本各地から福島県会津若松までの自治体では、住民にマスクをつけたり、激しい運動をしないよう注意を出した。テレビの画面でみると、大阪市内は濃霧で煙って中国の北京と見間違うほどだ。

中国現地からの報道によると「PM2.5」汚染濃度は計測不能なほどのレベルで、4段階のうち2番目に深刻なオレンジ警報に引き上げら、操業停止の工場まで出ているという。中国では、ここ数年春先になると「PM2.5」汚染は年中行事化してきている。一体全体、この国には大気汚染を規制する法律はあるのだろうか。調べてみると、2011年から5か年計画でNOX(硫酸酸化物)規制を含む法体制が確立されているようだが、どうもこれがきちんと守られていないみたいだ。

スモッグという言葉がスモーク(煙)とフォグ(霧)の合成語だと知ったのは、1952年(昭和27年)12月、僕が大学生の時だ。この年ロンドンでは、二酸化硫黄を多く含む濃霧が5日間立ち込め4000人も死亡している。大気汚染が世界的に問題になったのはこれが初めてだが、ロンドン市庁は早くも1954年には煤煙規制法を定め、56年には大気浄化法を全国的に施行している。

日本も1970年代は光化学スモッグの”無法時代”であった。全盛期の1973年には年に300回も東京で光化学スモッグ警報が出ている。今でも想い出すのは、東京の空から青空が消え太陽の光が見えなかった。環七道路沿いに住んでいたわが家でも長男が小児喘息にかかり通院したりした。その後のわが国の大気汚染に対する取り組みはご存知の通りである。人の領海に出向き”威嚇”行動に出るよりは、人の地に汚染物質を飛来させぬよう配慮するのが”大国”ではないのだろうか。

日韓併合時代35年 戦後の歴史は倍の69年

2014-02-26 06:05:31 | Weblog
韓国の朴菫恵大統領が政権について1年、日韓関係は悪化する一方である。それも韓国側の一方的な”従軍慰安婦”の名を借りた日本側の「歴史認識」への批判から来ている。安倍総理は繰り返し朴菫恵大統領に会談を呼び掛けているが、一向に応じる気配はない。日本が朝鮮半島を統治したのは1910年から45年までの35年間だが、戦後韓国が独立してからすでに69年、倍近くの歳月が経過している。日韓基本条約が締結された1965年からでも49年、ほぼ半世紀が経っている。

日韓併合時代を知っている世代は両国とも少なくなっている。敗戦の日の翌日、僕は勤労動員先の多摩川べりの軍需工場で、朝鮮半島から徴用されてきた工員が”マンセイ マンセイ”と喜んでいた記憶がある。当時14歳だった少年にも植民地下の人たちの喜びの気持ちが理解できた。しかし、戦時下、徴用されたのは、朝鮮の人だけではなかった。例えば、東京都内の商店主は店をたたみ旧満州や北海道の僻地へ開拓団として入植した。苫小牧の郊外には当時の名残か「三軒茶屋」という地名が最近まであった。

”従軍慰安婦”で抗議している団体の一つ「韓国女子挺身隊問題協議会」の”挺身隊”は、当時軍需工場へ動員された女性の事で「慰安婦」とは関係がない。戦時中、日本内地では”ああ愛国の陽は燃えて我等乙女の挺身隊”(西条八十作詞 古関祐而作曲)という歌さえあって”五尺の命ひっさげて国の大事に赴いた”(学徒勤労動員の歌)僕も動員先の工場で口ずさんだことがる。

朴菫恵大統領の父親、朴正煕大統領時代の1965年、日韓両国は過去を清算して日韓基本条約に調印した。この条約で日本側は植民地時代の賠償を兼ねて韓国に対して無償3億ドル、有償2億どる、民間借款3億ドルを提供した。これによって韓国は、いわゆる”漢江の奇蹟”の高度経済成長を達成できた。この半世紀の日韓の歴史を朴菫恵大統領はどう評価しているのか。日本統治時代、極貧の家庭に育った父親が苦労して授業料が無償の当時の師範学校を出て、さらに軍官学校(士官学校)を卒業したことも同時にきちんと検証してもらいたい。

森喜郎東京五輪組織委員長の誤解を呼ぶ敵性語発言

2014-02-25 06:50:48 | Weblog
森喜郎元総理はどうも失言癖の多い人のようだ。2020年東京五輪組織委員長でありながら、先日、フィギュア.スケートの浅田真央選手について”大事な時に、よく転ぶ”と発言した。僕らが同じような発言しても、どういうこともないが、これから6年先の五輪の成功に当たって、組織をかためて行くトップの発言だ。あまり好ましいとは思えない。森さんは現職の首相時代”日本人は神の子”発言で問題になったが、口がどうも災いの人のようだ。

その森組織委員長のソチでの記者会見が外国人記者の間で評判が悪かったようだ。昨年、東京五輪誘致のさいの「オ.モ.テ.ナ.シ」発言などで日本人は皆英語をしゃべれると誤解されたのだろうか。森さんの通訳を通じての会見は評判は悪く、さらに、その言い訳として、自分たちの世代は英語が敵性語だった時代に教育を受けたから、英語ができない”と言い訳したようだ。が、この森さんの言い訳は事実と違っている。森さんは昭和12年(1937年)生まれで、戦争中は幼児であった。英語を初めて習ったのは戦後の25年で、その時代、日本はNHKの平川唯一さんの”カム.カム.イングリシュ”の全盛期で英語ブームの時代であった。

僕は昭和18年4月、中学(旧制)に入学したが、英語は第一(読本)第二(作文)とあり選択で英習字まであった。19年には従来の英語読本は禁止され、新たに文部省編纂の教科書になったが、その中には”General Isoroku Yamamoto"で始まる文章もあった。戦争が激化して20年1月から僕らは軍需工場へ勤労動員されたが、2年生の2学期までは英語を勉強していた。友人が今でも所有しているが昭和19年版の三省堂コンサイス英和辞典の口絵には”撃ちてしやまむ”と書いた航空兵の絵が載っている。

確かに、森さんが言うように英語は敵性語であったかもしれないが、何故五輪の組織委の会見で”敵性語”が飛び出したのか。多分ご本人が英語で会見できない言い訳のつもりなのだろうが、かえって何も知らない外国人記者には、変な誤解をよぶことになる。

2018年冬季五輪の韓国開催と正しい判定

2014-02-24 06:10:42 | Weblog
ソチ五輪が昨夜閉幕式で終わった。”やっと、これで安眠できる”という声が若い人の間できこえるが、僕は五輪期間中一度もテレビの実況を視聴しなかった。一つには馬齢を重ね、物事への関心が薄くなってきたこと。また、一生懸命やっている選手には申し訳ないが、期待外れが多く老体の精神にはあまり良くないからだ。新聞の見出しには「海外最多メダル8」とあったが、競技種目が前回の86から今回は98種目にも増えている。金メダル5を目標にしていただけに素直に成功とはいえないのではないか。

次回2018年の冬季五輪は韓国の平昌である。ネット情報だが平昌は山岳部にあるが、年間の積雪量が26センチで、五輪の開催地としては雪不足ではないかという。また地形的にもボブスレー、ルージュなどの種目には適していないという報道もある。しかし、それ以上に心配なのは韓国民の極端な自己中心の”ミイズム”と政治のスポーツへの干渉だ。

今回ソチ五輪女子フィギュアで銀メダルで終わった金姸児(キムヨナ)の判定が不当だとして190万人のオンライン署名が集まり、韓国スケート連盟は国際スケート連盟(ISU)に対して調査を要請した。ISUはこれを拒否したらしいが、国民性とはいえ、日本ではちょっと考えられない話だ。キムヨナ選手の判定が不当であるかどうか知らないが、昨年の日中女子バレーボール選で、韓国人女性主審が、あまりにも中国寄りの判定をして、会場からでさえブーミングが起きたのは有名な話だ。サッカーの日韓戦の会場に”歴史を忘れた民族に将来はない”といった横断幕が張られたのも記憶に新しい。

平昌五輪の聖火リレーの際、わざわざ竹島に立ち寄り”ここは韓国の独島だ”とスタンドプレイするという話がネット上にあった。国際常識などなんとも思わぬお国柄である。開催しても正しい判定は期待できるのだろうか。

感謝 ブログ3000回更新できました

2014-02-23 06:32:33 | Weblog
2006年1月31日「今日からブログを始めました。とき折々の感想を書き残します。同世代の方、若い世代の方よろしく」という書き出しで、ブログを始めてから、これが3000回目の更新だ。75歳の誕生日を前にして娘から”ボケ防止に書いては”と勧められ、軽い気持ちで始めたのだが、まさか8年間、3000回更新できるとは思ってもいなかった。1日1回更新を目標にしているが、正直いって自分でもよくぞ、これまで続いたものだと驚いている。

若い時マスコミに勤務していた関係で、自分でいうのもおかしいが”昔とった杵柄”、ブログはニュース性を帯びたものを選んでいる。といっても在宅の浪人の身、現役時代と違ってアンテナの張りが狭い。どうしてもニュースは”二番煎じ”になりがちだ。しかし、今は有り難いことにネットが発達していて、新聞社の調査部や図書室がなくともニュースの裏付けは簡単にとれる。幸い、後期高齢者の現役記者はいない。ブログは高齢者の視点に立って、テーマを選び書くことに努めている。

ブログが長続きする一つのコツは、閲覧数(IV)訪問者数(PV)ランキングといった指標をインセンテイブとして利用することだ。書き始めた年はIV、PVとも二けたの数字でランキング入りにはほど遠かった。ランキング10000位以内に入ったのは、書き始めてから3年目の2009年に入ってからである。有り難いことに、IV、PV、ランキングとも年々、伸びており、先週のIVは10319、PV2341、ランキングは2954位であった。長続きのお蔭だと思っている。

ブログが長続きできる秘訣の一つは、コメンテーターの暖かい支援である。その一人chobimamwさんは、2007年以来7年間も、ほとんど連日コメントしてくれている。親子以上の年齢の差がある女性の方のようだが、まったく違う視点からお言葉を頂戴している。もう一人lordyupaさんは博識、見識のある方で、小ブログをきちんとパッチアップして頂いている。そのほか、テーマによって、それぞれ専門的な立場からコメントを頂いている。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。


NHKさん「今日は竹島の日」です 忘れないで

2014-02-22 07:08:50 | Weblog
NHKラジオ(第一)の早朝番組に「今日は何の日」というコーナーがあるが、今朝寝床の中でイヤホーンで聞いたら、案の定”2月22日が「竹島の日」であることには触れていなかった。代ってボーイスカウトの「友情の日」とか、佐賀県の吉野ケ里遺跡が発見された日などと、あまりどうでもよい日だけを紹介していた。2月7日の「北方領土の日」にもNHKは「今日は何の日」で紹介していない。領土問題は相手(外国)との間で”紛争中”であり、わが国の”主張だけを一方的に伝えるのは、公平な公営放送として放送法に触れるとでも誤解しているのだろうかー。

2月22日は「竹島の日}である。明治38年(1906年)2月22日、島根県が竹島を隠岐の島町として県に編入した日で、これを記念して平成17年(2005年)島根県条例で「竹島の日」が制定された。今年も松江市の県民会館で記念式典が開催され、亀岡偉民内閣府政務官ら国会議員18人が出席する。本来は安倍晋三総理自身が出席すべきなのに残念だ。ここ数年来の日韓の不調和音は、もとはといえば2010年、李明博大統領(当時)一方的に竹島に上陸し「独島守護標示」(12メートルの高さ)の塔を建てたことに始まる。

韓国では「竹島の日」に抗議して国をあげて「強奪蛮行糾弾」大会が各地で開かれ、抗議団まで来日している。しかし、日本ではどうか。NHKの「今日は何の日」でもそうだが、国民が領土問題に無関心すぎる。当然、NHKは国が関与し、政府政務官まで出席する式典である。公営放送として国民に周知すべきである。

米カリフォルニア州のグレンデール市の「従軍慰安婦像」についてもそうだが、黙っていれば「20万人の性奴隷」と言った話が世界に広まり、米国の外交委員長までが像の前に膝まずいて祈りをするという事態まで起きる。いたずらに事を荒立てることはないが、毅然として抗議すべきは抗議すべきである。

籾井NHK会長 雑音にひるまず、ボルトを締めなおせ

2014-02-21 06:45:14 | Weblog
昨日の衆院予算委員会をテレビで見たが、民主党佐賀県選出の、僕から見れば”人間のクズ”みたいな二人の代表の籾井NHK会長に対する質問にうんざり、がっかりした。籾井会長の慰安婦などに対する発言は、すでに個人的発言でしかもそれさえ全面撤回しているのである。それをさらに不確かな新聞報道をもとに、まるで”勝ち誇った”ような質問態度は、視聴者に反感を買い民主党離れを加速させるだけだ。

一方、籾井会長の国会での答弁も、馴れていないせいなのか頂けない。もっと胸を張り、反論があれば反論すればよい。日本維新の会の山田宏議員が、NHKの国際放送(英語)の中で、慰安婦の強制連行を意味する”forced"という言葉を使っていたが、これは放送法に違反しないかと質問した。まさしく、一方の意見に偏った放送法に違反すると僕も思うのだが、籾井会長はNHKの現場の通り一遍の答弁を読み上げていた。

NHKの国際放送の原稿はそれぞれの取材現場から上がってきた原稿を国際局の記者が外国語に翻訳する仕組みになっている、とかって友人から聞いたことがある。政治的に公平さに欠けていると批判のあるNHKでも、取材現場の記者がまさか”連行”という言葉を使用するとは思えない。おそらく国際局での翻訳の過程で慰安婦が強制連行されたになってしまったのだろう。

国際放送の原稿は最終的に、その言葉のネーテイブが”目を通す”そうだが、日本の国内事情に疎いネーテイブが、単なる言葉だけの問題から”誤訳”することはないだろうか。山田議員も指摘しているように、、この国際放送は明らかに放送法違反である。会長に選ばれる籾井氏である。卓見の持ち主とお見受けするから、まさか”人間のクズ”の影響を受けると思えない。雑音にひるまず、ボルトとナットを公言どおり締め直して頂きたい。

スキーを日本に伝えたレルヒ少佐と亡父

2014-02-20 04:58:10 | Weblog
ソチ五輪のノルディック.スキー.ジャンプ団体で銅メダルを獲得した清水礼留飛君(20)の「礼留飛」の名前は日本に初めてスキーを伝えた、オーストリアのレルヒ少佐の名前をとって礼留飛君のお父さんが命名したのだそうだ。1911年(明治44年)1月、レルヒ少佐は新潟県高田市(現在の上越市)の金谷山で、旧陸軍第58師団の兵士たちに「スキー術」を伝授した。その地には今、レルヒ少佐の銅像と発祥記念館が建っている。

新聞記者だった亡父は、その翌年の2月、高田で催された日本初のスキー俱楽部の発会式に東京から派遣され”初めてスキーなるものを見、その競技を目にすることが出来た”と「記者生活30年」(未完昭和18年)に書いている。多分、この時に入手したのであろう。レルヒ著「スキー術」(日本語)という冊子が20年ほど前まで、わが家にあったが、高田出身の友人を介して記念館に寄贈した。

ソチ五輪で活躍したスキーも日本に伝わって100年余のスポーツなのだ。レルヒ少佐が俱楽部の発会式に出席したはどうかは不明だが、当時単なるスキー俱楽部の発会式に東京から特派員が派遣されるほど、大騒ぎだったのであろう。しかし、残念ながら亡父はスキーについてはあまりふれず、式に参加していた乃木希典大将(当時女子学習院長)が、学校の火災を知り急きょ帰京したが、その時の乃木大将の態度が沈着冷静だったのに驚いた、書いている。100年の歴史を感じるものがある。

団塊の世代の定年を迎えて「自分史」ブームだという。亡父がこの未完本を記述した時代は戦争の最中で、それどころではなかった。庶民の「自分史」だが、その時代の証人である、出来たら出版しないまでもネットに転記して残したいと思っている。

3か月で10キロダウン 転ばぬ先の杖

2014-02-19 06:25:28 | Weblog
左膝の人工関節置換手術後3か月たち、その経過を昨日病院でチェックして貰った。経過はおおむね良好で、杖なしでも歩行できるまでになったが、大事をとって患部をレントンゲンとCTでとり血液検査をした。膝には防具(サポーター)をつけているが、歩行は手術前に比べて、はるかにスムーズだ。当分医師は大事をとって当分転倒するといけないから杖をついて歩けというが、とにかく手術してよかった。

それより嬉しいのは、手術と並行して入院中行ってきた血糖値を下げる食事療法で、入院前83.5キロあった体重が3か月で10キロダウンしたことだ。医師の指導で入院中はインシュリン注射をして、1200カロリーの病院食を食べていた。退院時が正月にあたり、暴飲暴食の季節だったが、ここ一番頑張った。その自信からか、禁酒は今でも続いており、食事も野菜中心に変わった。

しかし油断は大敵である。実は12年前にも医者から糖尿病と診断されたが、知り合いの医師の忠告で「食品交換表」を買い求め老妻と一緒に一日1200カロリーの食事に抑え、万歩計で5000歩を目標に歩いた。この時もその効果があり、当時の日記をチェックしたら14.5キロも体重が落ちた。しかし、当時は70歳前後で、社会との接点が多く外食の機会が多かった。それに長年の晩酌も復活してしまった。

見る見るうちに肥りはじめ、ダイエット中は几帳面に日記に記入していた体重値が消え、秤で計つていた習慣もなくなった。あっという間にリバウンドしてしまった。今回は折角高い入院費を払って、やっとたどり着いた健康である。なんとか、リバウンドだけは避けたいと頑張っているのだが、一方では残り少なくなった人生をそこまでしなくともという誘惑もある。