「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

     反日”のワナにはまった猪瀬都知事のイスラム発言

2013-04-30 08:08:41 | Weblog
2020年の東京五輪にだ大車輪の猪瀬直樹知事が「ニューヨークタイムズ」とのインタービュ記事の中で”イスラムは喧嘩ばかりしてる”とあたかもライバルのトルコ.イスタンブールを批判した、としテIOC(国際五輪委員会)から”他候補を批判してはならない”と注意を喚起されたという。猪瀬知事は自分のツゥイタ―で”真意が伝わっていない”と抗議しているが”後の祭りの感がる。

朝日新聞のニューヨーク発電によると、知事は日本語の出来る二人の記者のインタービュを受け、知事側も通訳を用意したようで、ニューヨークタイムス側は記事の内容に絶対の自信を持っており、録音もあるという。知事は”インタビューの文脈と異なる記事が出たのは残念だ”といっているが、そもそも最近反日傾向の強いニューヨークタイムスのインタビューに何故無防備で応じたのだろうか。

ニューヨークタイムスといえば、今年の新年早々(3日)から安倍総理の河野発言撤回につて酷評しているが、同紙のここ数年の反日報道ぶりは目にあまる。小ブログ(1月4日)はこれは2003年から09年まで東京支局長だった、Onishi Tetsumitsu(大西哲光)という日本名も持つカナダ系韓国人の影響だと書いた。この男は拉致は日本の右翼の煽動によるものだ、とも書いている。

猪瀬知事は、このニューヨークタイムスの反日偏向ぶりを知らなかったのだろうか。それから、また大変失礼だが、知事の英語では公式の席ではやめた方がよい。誤解を呼ぶことになる。また、イスラムについては、くれぐれも慎重な発言をした方がよい。1991年、筑波大学の助教授がイスラム批判の書「悪魔の詩」を翻訳したのが理由で殺された事件もあった。

          試してみよう アロエ(鰐の舌)の効用 

2013-04-30 05:37:39 | Weblog
わが家の”猫の額”みたいな狭いベランダにアロエが、わがもの顔みたいに繁殖している。そのアロエを老妻の友達が貰いにやってきた。アロエの葉をホワイトリカーに漬けて飲むと胃腸薬となり、肌に漬けると美容液になるとのことだ。わが家は試したことはなく、2月ごろ春に先駆けて咲く赤橙色の花を観賞しているだけ。もったいない。今度試してみよう。

インドネシアではアロエの事を「鰐の舌」(lidah buwaya)という。葉の形が鰐の舌に似ている事から来ている。この「鰐の舌」はシャンプ―用として使用されている。市販もされており、昔、僕もメダンに長期滞在していた時、真っ黒な色をしたこのシャンプを使ったことがある。同じ東南アジアでもタイでは「鰐の舌」というと”味音痴”の人を言うらしい。ところ変われば......である。

日本には鰐は自生していないから鰐に関する文化はないが、インドネシアやマレーシアでは「陸の鰐」(buwaya darat)というと”女たらし”のことをいう。鰐は人を引きずりこむ習性があるそうだから、なんとはなく”女たらし”の意味も理解できる。戦争中、日本の兵隊さんの間でもよく歌われた「月の灯り」(toerang bulan)=マレーシア国歌の元歌=にも、「陸の鰐」の口車に乗るなという歌詞が出てくる。

アロエの原産地はアフリカ南部とかマダガスカルとか言われているが、いつ日本に渡来したのだろうか。今では沖縄、九州、四国の太平洋側に自生しており、わが家のベランダでさえ、はびこっている。相当強い植物なのだろう。一度試してみることにする。

  (付録)わが大君に召されなば(最終章)今沢栄三郎

2013-04-29 11:53:12 | Weblog
私たち兵隊は「大日本帝国憲法」の「日本臣民は......兵役の義務を有す」(第二十条)による天皇に対する臣民の義務として軍服を着用した誇りをもっている。だから防人として「国を守るため戦場に赴いた」と信じている。「神聖にして侵すべからず」天皇が宣した「正義の戦い」に臣民として「一旦緩急あらば義勇公に奉ず」(教育勅語)の大御心をわが心に銘じていたのであった。(中略)
今、国家があるから戦争があるんだ、と考える人もいる。ある面で間違いないが、それなら国家が亡くなれば平和に暮らせるかというと、人間の歴史を見ると、全くその逆で、国家を亡くした国民ほどみじめなのものはない。国家があるから民族が不幸になるのではなくて、国家を亡くしたときに民族は不幸になる。
戦後の日本人の中で、軍備は人間にとって最大の悪だといい、軍備を止めてそのカネで、国民の福祉を向上しろという世論づくりをしている。しかし、これも日本の国家が安全で経済も繫栄しているという前提があって初めていえることであって国家を失っては福祉もなにもないのえはなかろうか。(中略)
昭和時代は、明治、大正からいい意味の恩恵を受けたが、明治の日露戦争は勝利を得たが、日本国民を思いあがらせ、ある意味では精神的に強さを失ったのではなかろうか。大正7年、第一次世界大戦が終わると、その反動的な不景気が民心を動揺させた。大正9年のパニック、12年の関東大震災、昭和2年の金融大恐慌があったのを無視し、臭いものに蓋をするような政策ばかり、浜口、井上の財政緊縮、海軍軍縮、官吏減俸きわめて急激なデフレ政策を断行し、たまたま昭和4年の世界恐慌と重なって日本は不景気のどん底に落ちた。これこそ大東亜戦争の根本原因と私なりに考えている。(後略)

          豪州日本人収容所での昭和17年の天長節

2013-04-29 06:30:35 | Weblog
昨年2月、小ブログが書いた「蘭印から連行された戦時中の豪州の日本人収容所」についてシンガポール在住の方から、戦前ジャワのスマランにいた祖父の足跡を調べている、と「コメント」欄に連絡があった。僕は早やとちりして、この方の祖父も戦争勃発とともに蘭印政府によって逮捕され、豪州のアデライト近くの砂漠地帯にあるラブダイ(Loveday)の収容所にいた方だと思った。早速、当時のことを記録した「抑留日記」(古池三八勝著 平成11年私家本)を読み返してみたが、同じ戦前の横浜正金銀行勤務なのに、この方の祖父の名前は出てこない。そのはずであった。祖父の方は戦争が始まる前に日本に帰国されていた方なのだ。

読み返した古池さん(故人)の「抑留日記」によると、当時(昭和17年6月)ラブダイには、蘭印、カレドニアなどから連行された男子のみ992人が収容されていた。「日記」には昭和21年帰国するまでの収容所の生活が、メモの形だが克明に記されている。

今日は「昭和の日」、戦前は昭和天皇の誕生日で「天長節」といった。僕ら昭和1ケタ世代は色々と想い出がある日だが、ラブダイの収容所でも昭和17年の天長節を次のように祝った。「天長節の式典挙行。先ず聖寿の萬歳を寿ぎ、次いで皇軍兵士に感謝と武運長久を祈願、君が代斉唱、奉祝歌。団長の式辞、最後に万歳を三唱して閉会。今日の食事。朝食に菓子、リンゴ、昼食にもリンゴと食卓を賑わせた。幸い天候にも恵まれ、朝8時から運動会。盛会裏に25種目の競技を終了」とある。

昭和17年7月、収容者992人のうち241人が日英交換協定の基づき帰国できたが、古池さんは不幸にもその選にもれ敗戦まで抑留された。しかし、日記の記述によれば、食事、衣服などの待遇は好かったようで、空腹と空襲の内地よりは幸せだったかもしれない。

        老人の星ジャンボ尾崎と「トウカイトリック」

2013-04-28 06:15:37 | Weblog
今日28日の日曜日、年寄りの僕が注目しているスポーツが二つある。一つは兵庫県山の原GCの「つるやオープン」でのジャンボ尾崎こと尾崎將司選手の活躍だ。66歳の尾崎選手はすでに初日で62を記録、自分の齢より少ない数字で1ランドを回り”エージシュート”で花束を贈られている、二日目も暫定首位だったが、さすがに3日目と最終日は崩れ優勝は逃したが、決勝に出場したのは3年ぶりだという。たいしたものだ。

人間を競走馬と一緒にしてはジャンボには申し訳ないが、もう一つの注目の的は春の天皇賞に出た「トウカイトリック」11歳だ。なんと天皇賞に8年連続出場だという。同一G1レースに8回というのは新記録である。残念ながら優勝はできなかったが、馬の1歳というのは人間の4歳、つまり44歳という高齢である。馬齢を重ねるという言葉があるが「トウカイトリック」に限っては、いたずらに馬齢を重ねてはいない。

僕は仕事が現役の頃はゴルフをよくやったが、不器用で運動神経が鈍いから一度も100を切ったことはない。膝が悪く今さらゴルフでもないが、かりに100歳まで続けたとしても”エージシュート”は出せない。後期高齢者の従弟妹夫妻はゴルフ好きで、今でも二人でコースを回っている。とくに従妹は所属しているクラブのチャンピオンだという。年寄りになると時間は持て余すほどあるのだが、カネがない。素人でも”エージシュート”が出せるのはよほど恵まれた人だ。

競馬は頭の刺激になるので、電話投票している友人に頼んでG1レースだけ100円馬券を5枚買っている。僅かな馬券だから大穴で一攫千金を狙ったらよいのだが、固い馬券を買っているが、当たるのは年に数回だけ。通算すればマイナスだが、いくつになってもギャンブルは面白い。しかし「トウカイトリック」には賛辞を送ったが買わなかった。

         (付録)わが大君に召されなば(8)今沢栄三郎

2013-04-27 15:05:17 | Weblog
(前略)8月15日の敗戦から半年後、昭和20年12月31日前に、オランダ軍からセラム島西端のホアマル半島のアリアテ地区に移動を命じられたのは、その年の12月に入ってからであろうか。敗戦といっても無傷に等しかった第5師団は、命令系統が確立されていたので、極めてスムーズに行動した。
移動は事前に察知していたので、マカリキでの自活態勢にあった農場で収穫する作物をビタミン補給用に重点を置き野菜を漬物にするため樽30個ほどを調達した。ホアマル半島で自活できるまでを3か月と見て、100人足らずであったが糧秣の備蓄と栄養補給源の確保につとめた。日獨伊三国同盟と南進論の挫折は神意であったのであろうか。南方諸民族のためのアジア聖戦の夢破れて、敗戦の悲しみが残っているマカリキのカンポン(村)を離れる日がきた。アタップ葺きの兵舎であったが、塵一つ残さぬように清掃した。(中略)
アリアテでは、敗戦下での捕虜としての生活が始まったが、あらかじめ収容所の建物があったわけではない。命令は占領軍から通達されていたが、各部隊は自主的に海岸線に沿って兵舎をつくり自活自営のを営む作業を整えた。(中略)
オランダ軍も豪州軍の監視のない長閑な捕虜生活へ闖入してきたのが朝鮮の人々である。ある朝、将校宿舎で荒らしく罵声がするので、駆けつけてみると、将校たちが部外者の男どおに囲まれて陳謝している姿が見えた。何事かと前後の様子を探ってみると理不尽な出来事であった。将校たちが作っている野菜畑を朝鮮の兵補が無断で奪っていくので、咎めたところ、開き直って日本は負けて、朝鮮は独立したのだから、このくらいの事は当たり前の事だという。真面目に作っている自分の所有物を暴力でもぎ取られても、力のないものは無力であることを目の前でみせつけられたものである。私どもの抗議を先任将校は、たしなめて、これでいいおだと自らをお律していた。

   「主権回復の日」と皇居前血のメーデイのあった時代

2013-04-27 06:17:58 | Weblog
4月28日は「主権回復の日」で、政府主催の式典が天皇皇后両陛下列席の下で行われる。61年前の昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約が発効し、わが国が7年ぶりに連合軍の占領から解放され、主権を回復、つまり独立を回復した記念日である。

61年前、僕は大学4年生であったが何故かこの日について、あまり記憶がない。国もこれといったお祝い行事はしなかったような気がするが。むしろ3日目に起きた皇居前のいわゆる”血のメーデイ”事件の方が鮮明な記憶にある。僕は当時、政治にはあまり関心がなかったノンポリ学生で、メーデイには参加していなかったが、学友たちの中には大勢参加しており、警察に検挙されたものは大学から退学、休学処分にあった。その名前が掲示板に張り出されたのが昨日のように思い出される。

沖縄出身のM君も休学処分にあった一人である。M君はそれほど政治活動に熱心ではなかったが、デモに参加していた。今考えると、日本に主権が戻ってきたにもかかわらず、沖縄が除外されたことに対する抗議の気持ちがあったに違いない。まったく偶然だが10年近く前、僕は仕事で沖縄へ出かけた時、那覇のホテルのロビーでM君と再会した。久しぶりで色々昔話をした際、このメーデイ事件のことになったが、M君はまったく若気の至りと苦笑していた

今日の「主権回復の日」に対して沖縄では”屈辱の日”だという世論が高まっているという。しかし、61年前の情勢を考えれば政府が沖縄、小笠原の返還を後回しにしたのはやむをえなかった。全く沖縄の本土をあきらめたわけではない。20年と時間はかかったが、昭和47年、沖縄の本土復帰はなっている。今さら、沖縄が「主権回復の日」を”屈辱の日”だとし、県知事が式典をボイコットするのは、日本人としてその感情が解らない。

  (付録)わが大君に召されなば(7)今沢栄三郎

2013-04-26 15:47:17 | Weblog
一難去ってまた一難、あとで考えたことだが、こんな行程も地形的関係から無理を承知で作ったのであろうと思ったのだが。緊張感も緩んで冗談の一つも口からでるようになって進んでゆくと、俄然行けども行けどもジャングル地帯のぬかるみである。歩きにくいことおびただしい。比較的歩きよい道に出たと思うとまたしても湿地,ブツブツと軍靴が沈む。もうそろそろ青空の見える所に出てもよいのえはないかと心の隅であせりも出てくる。しかし、だれでもが疲労して声もなく何を考えているのだろう。引き返すこともならず、ただ進むことのみによって活路を求めた。「おおい海に出たぞ」と誰かが叫んだ。(中略)
ジャワ島に集結する陸軍部隊の輸送には海軍の艦艇があてられるそうだ。この噂は私どもを十二分に元気ずけた。いま海軍とても艦艇は足らない悪条件下に置荒れているのに、俺たちの生命を大切にしてくれて、それで沈没したら、また何をいわんやだ。
集結地ビルを目前に控え、いよいよ遺棄軒昂としてマカリキという小に入る前日の事であった。行軍中の炊事班長を命じられていたいた私は主計曹長とと相談して虎の子の砂糖と小豆を使ってお汁粉を作ることにした。行軍中にお汁粉は意外だったらしい。僅かな心づくしが、荒れ果てている兵隊の神経を和らげことになったのに私は満足した。(中略)
最後の日程は思いもかけず、舟艇(ダイハツ)によって輸送され、行軍とは違い落であった。離島間の兵員輸送に行動したのは船舶工兵隊であった。海軍ではなく暁部隊の秘匿名で大東亜戦争中、隠れた功績でその功績は素晴らしいものであった。勇気ある船舶兵に操縦され暁雲をついてマカリキの椰子の浜辺にグーンと乗り入れた。潮風にかざして星明かりで見た腕時計の針は、運命の日より半か月前の8月1日午前4時15分を指していた。

           白寿のお祝いに90代の戦友が3人も参加

2013-04-26 07:37:31 | Weblog

小ブログで連載中の「大君に召されなば」の今沢栄三郎さんの99歳白寿をお祝いする会が昨日、目黒のインドネシア料理店「せでるはな」で催された。今沢さんの長年の日本インドネシア友好を反映して両国の友人知人30人が集まった。驚いたのは93歳、94歳の戦友3人も元気な顔を見せてくれた。
99歳白寿のお祝いなど昔は稀有だった。僕が子供だった戦前の昭和の頃流行した「村の船頭さん」の歌詞には”村の渡しの船頭さんは今年60の御爺さん、齢はとってもお船を漕ぐとき元気いっぱい櫓がしなる”とある。60歳でも御爺さんだったのである。
お祝いを仕切ってくれたのは、お父さんが元軍人で戦後インドネシアに残留したTさんの長女で、今は日本人と結婚して東京に住んでいる。今沢さんはTさんのような残留二世の団体にも関係しているので、昨日も3人が参加した。このほかインドネシアの元新聞記者で、在日30年、イスラム関係の日本語新聞を出しているM氏も参加してくれた。
会場では在京のインドネシア人女性が北スマトラの珍しいマレーの踊りも披露してくれた。90代の戦友の一人は戦争中、この北スマトラのアサハンでオランダの民間人収容所の所長だったために危うく戦犯になるところだったが、オランダ人への扱いが良かったため、逆に収容者からの釈放陳情で戦犯にならず無事帰国できたという経歴の持ち主だ。この従軍世代は皆大正、昭和、平成と三代、激動の時代をたくましく生きてきた先輩である。80代の僕なんか足元にもおよばない。

         (付録)わが大君に召されなば(6)今沢栄三郎

2013-04-25 08:56:08 | Weblog
昭和20年7月末。完全武装に身をかためた私どもは、舟艇に身を託し夜闇にまぎれ、ヅラを出航した。(中略)3か目の夜明け、ニューギニアとセレベスの中間に横たわるセラム島(佐渡島とほぼ同面積)の西端ゲゼルに着く。海上の敵機から逃れて、これから浜伝いに東橋のビルまで日程4㌔ないし6㌔の行軍が始まった。(中略)ニューギニアと離島方面の前線の兵力を徐々に撤退させ、ジャワ島に全兵力を集中し、南方派遣軍の骨のあるところを英米連合軍にお目にかけようという作戦の意図をここで知った。
第一日目の行軍は、大地に踏みしめる軍靴に足取りも軽く、砂浜の彼方に突起する形の良い岬ヲ目指した。あの岬を越せば、また小休止と、みな童心に帰って小休止の度に燥いでいた。力はセーブしなければいけないと思って私はウキウキしている兵隊の気持ち抑えつけることをせう、自然に来たるべき困難に耐えうる心構えを醸しだせるよう心を痛めていた。砂浜伝いの行軍は滑り出しは順調だったが、潮の引き際に通りすぎなければならず、時には断崖をよじのぼった。
無理のない行程が組まれてあったものの、私どもには全く未知の行軍であったし、原住民だけ通られれる道らしく2日、3日とすぎる頃から体力の個人差があらわれてきた。ジャングルの奥から流れてくる急流は、岩に激しく砕け、河口はとても歩行できる状態ではなかった。(中略)
行軍中の最大のヤマ場である。戦争はまだ続いている。俺たちの生命は国に捧げテあるが粗末にはできない。無駄死には嫌なことだ。明日の事先の事は知れないが、名もわからないこんな河に落ち込んで死んで花実が咲くわけではない。白昼の静けさの中で一人一人が曲芸師のように静かに綱渡りよろしく難関を突破した。(後略)