「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

介護職の待遇改善が先決

2015-11-30 06:49:31 | 2012・1・1
「一億総社会参加」実現に向けて政府は緊急会議を開き対策に乗り出した。これを受けてNHKの「日曜討論」番組がこの問題を取り上げ加藤勝正担当相も参加した。僕は普段あまり、この番組を見ないのだが、わが身にも無関係ではない老人福祉がテーマの一つなだけに、メモを取りながら視聴した。

番組の率直の感想は、加藤大臣は「一億総社会参加」の”旗振り”だけに高所からの視点で問題をとらえているが、果たして今危機的ともいえる老人福祉について、どれだけ理解しているのか疑問に思った。これに対して直接、この問題に日常的に携っているNPOの代表、林田俊弘さんの意見は、さすが現場の声であり僕も同意見だ。

林田さんは政府が「一億総社会参加」策の一環として「介護離職ゼロ」を打ち出した時、一瞬「介護(職)離職ゼロ」と勘違いしたそうだが、実は僕もそう思った一人である。福祉施設で働く介護職員の待遇が悪いのは周知であり、ハローワークの有効求人倍率はいつも高い。その理由は介護職の給料が一般社会の給与に比べて低く、離職率が高いことは僕でも知っている。

政府は50万人を超す特別養護老人施設への入居待ちの老人対策として、国有地などを活用して新しく50万人を受け入れる”受け皿”を用意する計画だという。また、介護職員の給与も月1万2千円程度引き上げる案もあるとのことだ。しかし、一方では施設に対する介護報酬率2.27パーセント引き下げる案もあると聞く。これでは介護職の給与は若干改善されても、魅力ある職とは思えない。介護職の待遇が改善され、特養施設での受け入れが可能になれば、介護のために職を辞める人はいなくなると思うのだが。

品川寺の”洋航帰り”の梵鐘(ぼんしょう)

2015-11-28 16:52:31 | 2012・1・1
昨日、わが家の恒例行事になっている品川の荒神様の秋季祭礼に参ったあと、同じく旧東海道筋にある品川寺(ほんせんじ)に参詣した。品川寺は真言宗醍醐派の古刹で、伽藍は江戸城を開いた太田道灌が長録5年(1457年)に寄進したと伝えられる。門前には川4代将軍家綱が寄進した露座の大きな地蔵が鎮座している。お寺の境内には樹齢数百年という銀杏の木もあり、品が寺の歴史の古さを物語っている。

山門の左側の鐘つき堂に”洋航帰り”として知られる珍しい梵鐘がある。明暦3年(1657年)京都で鋳造されたものだが、明治維新前の混乱期に品川寺から消え、慶応3年(1867年)パリの第2回万博に展示され、明治3年のウイーン万博にも出品されている。しかし、この梵鐘の行方は全く不明だったが、大正8年(1919年)スイスの美術館にあることが判明した。当時の住職の努力で日本外務省を動かし、スイス側の好意で梵鐘は昭和5年品川寺に返還された。戦後の平成3年、品川寺のある品川区はジュネーブと姉妹都市関係を結び、新たに梵鐘を鋳造してスイスの美術館に寄贈した。その記念のプレートが境内にある。
(写真は(1)荒神様で呼ばれる海竜寺(2)品川寺の山門(3)鐘つき堂(4)ジュネーブとの友好記念プレート

老人泣かせの東京のバス停

2015-11-28 06:10:38 | 2012・1・1
最近、通院のためバスを利用することが多いが、東京ではほとんどのバス停に屋根がなく、椅子が置いてないことだ。かっては近所の方が中古の椅子を好意で置いてくれていたのだが、いつの間にか撤去されてしまった。歩行者の邪魔になるという理由か、それとも街の美観を損なうという理由なのか。これで一番困っているのは足腰の弱くなった老人たちである。

僕がよく利用するのは環七にそったバス路線だが、1時間に2,3本しかなく、それも交通渋滞から定時に運行されたことはない。バス停には屋根もない。数年前までは、誰かが寄付したのであろう、古い木製の椅子が置いてあったが撤去されてしまった。ここのバス停だけではない。目黒通りの老人の通院が多い整形病院前の椅子も片づけられてしまった。

2020年の東京五輪、パラリンピックに向けて東京の公共交通機関の整備が問題になっているが、老人の目から見れば、バス路線が最も遅れている一つである。地方への高速バスのターミナルの東京、新宿などの判りにくいこと。新宿では五輪に向けて、分散している今のターミナルを一つにする計画があるそうだが、東京駅はどうなのか。東京生まれ、東京育ち80年の僕でも、なかなか行く先のターミナルに行けない。

バスの車体は”ノン.スッテプ”になり、老人にも便利になったが、車イスの利用者は依然大変である。運転手がいちいち車から降りて出入り口に道具を置いてサポートしている。運転手も大変だが、利用者もこれでは進んでバスを利用する気にはならない。降雨の日など屋根もないバス停で待つのも大変だ。アジアの国々をバス旅行したことがあるが、わが国のバス路線は便利だが、関連施設は遅れている。


大腸ガンの再発  再手術への挑戦

2015-11-27 06:17:15 | 2012・1・1
ショックである。大腸ガンの再発を宣告されてしまった。昨年11月、腹腔手術で患部を摘出し病院の指示に従い定期検査を受けていたが、1年後の内視鏡検査の結果、前回摘出した患部の結合部分にガンが再発していた。主治医によると、ステージⅡであった僕のようなガンの再発率は13パーセントほどだそうだ。運が悪いとしか言えないが、80歳半ばの老人には心身ともこたえる。

再発を宣告されて、僕は正直言って、すでに老体であり、がんの進度も遅いと聞いているので、主治医に再手術を断った。しかし、主治医の説得もあり老妻と話し合いで結局、手術へ再挑戦することにした。その決断の裏には一昨年94歳で亡くなった「アンパンマン」の生みの親、漫画家やなせ.たかしさんのいきざまが参考になった。やませ.たかしさんは60歳後半から腎臓結石、白内障、膵臓炎、腸閉そくなどわずらい、なんと膀胱がんは10回も手術している。これに対して、僕はまだ4回にすぎない!?

がん再発を親友(薬剤師)に告げると、出来るのなら再手術を勧めた。そして最近NHKのテレビで放送した作家の瀬戸内寂聴さんの生き様を描いたドキュメンタリー番組の話をした。僕はこの番組をみていないが、一昨年がんにかかり、1年間闘病生活をした瀬戸内さんがリハビリで見事回復し、新しい作品を発表するまでのドキュメンタリーだそうだ。

幸い、僕は体力はあるほうで現在常用薬はいっさい服用していない。12月いっぱい再手術を受けるための事前検査を行い、手術に耐えられるならば、明年1月入院することになるが、やなせ.たかしさんの生前の言葉”死ぬときは死ぬのだ。笑いながら死にたい”というのが今の心境である。

老人には理解しにくい”マイナンバー..カード”申請手続

2015-11-26 06:48:58 | 2012・1・1
わが家にも”マイナンバー(個人番号)のお知らせと個人番号交付申請の”ご案内”が届いた。早速、硬直した頭を振り絞って老夫婦で書類を読み申請に取り掛かったが、なかなか一読しただけでは理解しにくい。

”マイナンバー”制度については個人秘密が漏洩するのではないかとの懸念があるが、僕はこれにはある程度理解があるつもりである。しかし、郵送されてきた、”ご案内”は”ほとんどが、マイ.ナンバー”制度の利点の説明で、肝心の手続き方法が老人には不親切だ。同封の通知カードに記入して同封の封筒にいれてポストに入れればよいのだが、例えば老人にとっては添付の写真を撮るだけでも一苦労である。証明写真などに縁がない老人は、どこで写真を作成してよいかさえ判らない。

都会では、”ご案内”にある無人の「まちの証明用写真機」で撮る人が多いと思うが、地方には、そんなに「まちの証明用写真機」はないし、あってもその利用方法は、普段使用に馴染んでいない老人には解かりにくい。さらに、老人を困惑させるのは、”ご案内”にある”こんな申請方法も”という記述である。親切なつもりで、スマホでも自宅のパソコンでも「まちの証明写真機」でも申請できると紹介しているが、これはITアレルギーの老人にとっては逆効果である。「まちの証明用写真機」のお世話になろうと思っていた僕は、これを読んで逆に利用するのにためらいを感じた。

超高齢化時代である。日本人の8人に1人は75歳以上の後期高齢者だという。そのほとんどが、スマホもパソコンにも縁がない。お役所は”マイナンバー制度”といった重要文書の”ご案内”には、老人に対しての特別な配慮が必要になってきたのではないだろうか。


駒沢郷愁

2015-11-25 05:56:09 | 2012・1・1
小春日和に恵まれた昨日、70年来の近所に住む旧友二人に誘われて駒沢五輪公園に出かけた。公園に添う駒沢通りの銀杏並木は見事に黄葉していたが、園内のカエデや桜の紅葉は、まだ若干早くまだら模様であった。しかし、晩秋の一日を充分に楽しめた。

駒沢公園は、自宅から近いこともあって想い出の地である。昭和39年の東京オリンピックの際には、サッカー、バレーボールなどの会場などになり、それを記念して「五輪公園」の名がつけられている。この地には元々、東京で初の本格的な東京倶楽部のゴルフ場があった。昭和7年、朝霞に引っ越すまで昭和天皇を初め内外の有名人がここでプレーをしている。当時は、東急線の自由が丘駅からキャデイバスが出ていたと聞く。そのクラブハウスが戦後まで残っており、引揚者住宅に使用さていたのを憶えている。また昭和24年の第4回国体でもここはホッケー会場にもなり、僕は亡父と一緒に応援に出かけている。

五輪を記念して建てられた総合運動場の一角には昔、プロ野球の東映フライヤーズ(現在の日ハムの前身のフランチャイズ球場があった(昭和29年―37年)。往年の名選手、張本や土橋(故人)などがここで活躍している。僕も昭和30年頃、新婚当時自宅から老妻と歩いて観戦に出かけたが、球場近くにはまだ田畑が残っており、僕らはあぜ道を横切って行った

僕ら三人はカエデの大木の下、落葉の散り行くのを見ながら、それぞれ持参した弁当を開き、戦中戦後の多難だった”こしかた”を語り合った。

”下流老人”の死は防げないのだろうか

2015-11-24 06:16:41 | 2012・1・1
昨日,NHKテレビのニュースで高齢者に関係する痛ましい事件を二つ伝えていた。一つは埼玉県の利根川で貧困と母親の認知症看護に疲れた三女(47)が両親と一緒に車ごと入水心中を試みたが、自分は死にきれず、殺人と自殺ほう助容疑で逮捕された事件。もう一つは東京.江東区の都営住宅で死後数か月を経た81歳の兄と71歳の妹の遺体が”孤独死”状態で発見されたニュースだ。

いやな言葉だが、最近”下流老人”という言葉を耳にする。老後、年金だけでは生活出来ず、生活保護を受ける老人家庭が急速に増えている。厚労省の統計(平成26年2月)では、すでに163万世帯をこえ、そのうち65歳以上の高齢者世帯は45.5パーセントと半分に近い。この数字は今でも毎月、更新続けている。

利根川の事件を見ると、亡くなった父親は最近まで新聞配達をして生計を立てていたが、病気になり収入が立たれた。その上、妻が認知症とあれば、申請すれば生活保護は受けられると思うのだが、申請しなかったのか、それとも受給できない事情があるのだろうか。都営住宅の兄妹の”孤独死”も考えさせられう。集合住宅には管理組合もあると思うのだが、何故数か月も放置されていたのであろうか。

老人の福祉医療の相談窓口として、各地に「包括センター」があり、昔から民生委員がいるが、最近この種の事件、事故が起きるたびに思うのは、こういった制度が果たして機能しているか、どうかである。僕の周囲の健康な老人の仲間は最近まで「包括センター」が何をする役所なのか知らなかった。一方、民生委員も未曾有の高齢化時代を迎え、いまのようなボランティアでは手が回らないという声を聞く。いずれにせよ”下流老人”が、国の援助の手が届かず、死に至るのは問題である。


遅くなってきている東京の黄葉

2015-11-23 06:02:51 | 2012・1・1
11月23日の勤労感謝の日は昭和22年まで新嘗祭(にいなめさい)という国民の祝日であった。戦時中小学生だった僕らの世代は、10月15日の神嘗祭(かんなめさい)とともに懐かしい。紀元節などの四大節は学校で祝賀式があったが、他の祝日は休日であった。だいぶ遠くなってきた記憶だが、一年の最後の祝日の新嘗祭の頃になると、東京では秋が深まり、紅葉、黄葉が始まった気がするのだが、ここ数年、12月にならないと木々の変色、落葉は見られなくなった。

昨日、家の近くの旧都立大学(首都大学)跡地のパーシモン公園に散歩に出かけると、正門前の銀杏並木の黄葉は始まっていた。多分陽射しがよく、風通しがよいためだろう。しかし、公園に近い日蓮宗の古刹、常円寺境内の樹齢数百年の大銀杏は、まだ黄葉も始まらないのに落陽し始めていた。古木による寿命なのか、それとも気候の変化によるものだろうか。

70年前、昭和20年11月の庶民生活

2015-11-22 05:33:24 | 2012・1・1
「戦後70年」というが、その70年前の昭和20年について知る世代も少なくなってきた。日本の人口1億3千万の12.5パーセント、8人に1人が75歳というから無理もない。昭和20年は8月15日の敗戦を境に戦中と戦後に別けられるが、後半の戦後にあたる4か月半については、あまり語られていないが、庶民の生活は最悪であったように思われる。たまたま亡父の残した日記帳(11月)にその一端が覗われるので紹介してみる。

▽1日(木)日比谷公園で児玉誉士夫主催の”餓死対策国民会議”が開かれる。冬が来るのに政府の対策は大丈夫なのかというわけだ。深谷(埼玉県)からヤミの運び屋Sが馬鈴薯を運んでくる。
▽3日(土)さすがに明治節、穏やかな小春日和、午前中町内会の勤労奉仕で防空壕埋め作業。栄養失調か下痢続く。体重13貫(約50㌔)割りこむ。
▽11日(日)代々木で進駐軍のカウボーイ大会あり。省電(JR)地下鉄、都民の足ストップ。どこへも行けず。

▽12日(月)妻定例の野菜の買い出しのため元住吉(東急東横線川崎)へ。朝から薪割り。この日朝食イモ入り飯。昼食イモの粉パン。夜食自家製の即席パン。息子戦時中の動員先の工場から退職金40円。
▽18日(日)電熱器毀れる。駅前の店から新品購入95円。夕食に空き瓶交換で得たビールに久しぶりにありつく。蘇生の思い。
▽20日(火)朝、遅延していたコメの配給あり、ついで午後イモの配給。夜停電下、ローソクの灯の下で一升ビンにコメを入れ”精米”。

亡父の12月31日の日記の後書きには「わが国開闢以来、未曾有の最悪、ようやく暮れる」とある。