「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

羽田飛行場のころ

2006-04-30 05:44:22 | Weblog
大型連休で各地の空港は大賑わいである。東京の玄関口
羽田もそうである。ところで、かって空港は飛行場と
呼ばれていた。名前が空港と変わったのは、いつごろ
だっただろうかー。昭和30年ごろ、商業航空が本格化
したころではなかっただろうかー。

一枚の写真がある。「昭和18年3月於羽田・国民学校6年}と
ある。卒業記念に羽田へ潮干狩りへ行った時のものだ。
65年前には羽田飛行場の沖でアサリやハマグリがたくさん
とれた。近くの蝦取川ではチンチン(黒鯛の子)も
釣れた。あの潮干狩りをしたのは、どのへんだったので
あろうかー。多分、今では滑走路かなにかに変っている
のであろう。まさに”滄海桑田”の感である。

ところで、羽田が国際空港としてデビューしたころ、赤い
鳥居に富士を配したポースターが印象的だった。外国からの
観光客誘致には効果的だった。成田も関空にもそれがない。
コンペで募集したらどうだろう。




天長節 御真影 奉安殿

2006-04-29 06:13:58 | Weblog
天皇誕生日は戦前までは天長節であった。新年、紀元節、明治節と
ともに四大節といって国民の四つの大きな祝日、この日は学校、職場
ごとに式を挙げ祝った。昭和天皇の誕生日は4月29日であった。

四大節を学校で祝った世代にとって、忘れられないのは、その式典の
長く、きつかったことだ。直立したまま、子供にはあまり判らない、
教育勅語、校長の話を聞くのは苦痛だった。たいてい一人か二人、
式の途中で倒れて衛生室(保健室)に運ばれたものだ。

モーニングなど礼服を着た先生が御真影(天皇と皇后の写真)と教育
勅語を奉安殿(御真影と教育勅語を奉納してある場所)から恭しく
捧げて式場に運んでくる。国歌とともに四大節の歌が歌われる。
天長節の歌は「今日のよき日は大君の生まれたまひし、よき日なり」で
始まる歌であった。

戦前、作家の久米正雄の父親は失火で奉安殿を焼いた責任をとって
割腹自殺をした。札幌の小学校では豪雪から御真影を死守するため
殉職した校長がいた。今の時代ではとうてい考えられない話だ。
あの時代の子供には、学校から紅白の饅頭を貰ったことが四大節の
唯一の楽しい思い出だ。


ホセ・リサールと目黒のお寺

2006-04-28 07:03:25 | Weblog
日比谷通りを背にした公園の一角にホセ・リサールの
記念像がある。ホセ・リサールの名は、フィリッピン
人なら、誰でも知っている国民的な英雄である。
スペイン植民地政府の暴虐を批判したため反逆罪で
1896年、36歳の若さで公開処刑されている。

記念像のあるあたりに昔「東京ホテル」があった。日比谷
公園が出来る以前で、近衛師団の練兵場があったころの
話である。この「東京ホテル」にホセ・リサールが1888年
2月から4月まで滞在していた。当時の彼の日記が後年
マニラで発見されたが、ホセはこよなく日本を愛していた。
その理由の一つは滞在中”おせいさん”という日本女性と
知り合い、彼女の案内で各地を見学できたこともある。
ホセにとってはまさに”黄金に輝く”一か月だった。


日記の中の一節「あの目黒の寺のひと時のような神々しい
午後を、私はまたと経験することがあるだろうか」。
ホセは当時28歳”おせいさん”の歳は不明だが、多分
若い女性だろう。明治はじめのこの時期、日比谷から目黒の
お寺まで、どのように連れ立って行ったのかー想像する
だけでほほえましい。

きょう28日は目黒不動の縁日、ホセが”おせいさん”と
参拝した目黒のお寺は目黒不動尊ではなかったのかと、
勝手にこれまた想像し往時を偲んでいる。

ルック・シンガポール

2006-04-27 06:25:02 | Weblog
マレーシアのマハティール元首相の”Look East"に
ちなんで"Look Singapore"運動をあえて提案します。

最近のわが国のモラルは最低です。混雑した車中
(近距離)で、飲食しても平気、老人がきても,無
反応で漫画本を読んでいる男、人前で化粧に余念の
ない女etc。シンガポールではMRT(電車)内で飲食
したら500S.㌦(約4万円)タバコを吸ったら1,000S.㌦の
罰金です。路上でのポイ捨ても厳禁だから街は
清潔できれいです。

孤食が問題になっていますが、シンガポールでは
コミュニティごとに簡単に食事が出来るホーカーズ・
センターがあります。中国、インド、マレー三人種
ごとのブロックで朝から夜まで店を開いています。
一人暮らしの高齢者もここへくれば仲間と雑談しながら
食事が楽しめます。
都会の高齢化した団地などでホーカーズ・センターを
設けたら如何がですかー。、

スカルノ作詞「愛国の花」

2006-04-26 06:17:52 | Weblog
デヴィ夫人の夫君、スカルノ(インドネシア初代大統領)が
作詞した「さくらの花」をご存知ですかー。この元歌は「愛国
の花」(福田丈夫・作詞,古関裕而・作曲)で、昭和13年、
渡辺はま子が歌ってヒットした歌です。

昭和37年2月、今の天皇ご夫妻が皇太子時代、天皇の名代
としてインドネシアをご訪問された時、スカルノは、「愛国
の花」にインドネシア語で詩をつけ、お二人の前で1万人の
小学生と一緒に歌ったのが「さくらの花」です。

Bunga sakura indah berseri-seri 美しい桜が咲き誇る
Di Nipponlah tumbuhnya     まちがいなく日本人が 
Sudahlah pasti         ほめ愛でる花である
Bunga yang di puja-puja     インドネシア人も
Oleh rakyat Nippon      ジャスミンをほめ愛でる  
Melatidi Indonesia      我々アジアが一つである       
Kita puja pula          証拠である  
Itulah satu tanda
Kita Asia

残念ですが「愛国の花」も「さくらの花」も今ではあまり
歌われなくなってしまいました。


鯨肉と"帝国グルリ”

2006-04-25 07:04:42 | Weblog
きのう駅近くのスーパーで鯨肉を珍しく見つけた.三片で
400数十円と安く感じたので買って帰った。早速テキに
して食べた。やはり、あの昔の味がした。

いつも昔の話で恐縮。安サラリーマンだったころ、よく
”帝国グルり”で焼酎の梅わりを飲みながら鯨のベーコンを
食べた。”帝国グリル”、つまり帝国ホテルのグリルではない。
帝国ホテルの"ぐるり”つまり、周りにあった国鉄ガード
下の安酒場である。

昭和52年、商業捕鯨が禁止されるまで鯨肉は貧しかった
日本人の貴重な栄養源だった。鯨肉は学校給食の定番で、
今でも鯨肉にお世話になった世代は、鯨肉のレシピに詳しい。

ところが、鯨肉は今では高級食材。とても昔のように安直に
安酒場でと、いうわけにはいかなくなった。が、鯨肉は昔から
健康食材として知られている。BSEの危険もない。どうだろう。
安価な健康食材として、世界の捕鯨関係者は、もう一度鯨肉の
効能を見直してみたら。





超長寿のコツ

2006-04-24 07:11:15 | Weblog
「コインになった世界の巨星たち 100選」という、およそ僕には
縁のない本を頂いた。縁がないというのは”おカネ”がないという
意味である。贈り主は、尊敬する関西学院大學名誉教授、久保芳和
先生。この6月で88歳、米寿を迎えられる。先生が趣味で半世紀
にわたって集められた”世界の巨星”のコインに解説を加え一冊の
本にされたものだ。久保先生は経済学博士。

先生は戦争中、海軍主計大尉としてボルネオの石油基地に勤務
していた。同じ海軍の先輩、林田悠紀夫少佐(元法務大臣)もボル
ネオの民政部勤務だった。林田先生は、久保先生より長寿で今年
11月の誕生日がくると卒寿、90歳になられる。

お二人の長寿は戦争中ボルネオで食べた亀の卵のせいではない。共通点は
お二人とも趣味をお持ちになり、それに深い"こだわり”をもって
おられることだ。林田先生の書画は玄人はだし。「李白の詩」の書と
「熱帯の夜」の油絵を展示会で見たが、下手な画家は”はだし”で
逃げ出すこと必至だ。
長寿のコツは一芸に秀で、それにこだわりを持つこと。健康は
それについてくるものとみた。、

世界のトビウオの記録

2006-04-23 07:17:40 | Weblog
全日本水泳選手権をNHK・BSでみた。改めて驚いたのは
400メートル自由形で優勝した松田丈志君の記録である。3′
48″08.これでも日本記録ではない。昭和22年世界中を
驚愕させた古橋広之進氏の当時の記録は4′38″4。
古橋氏には失礼だが二人を一緒に泳いで貰うと"世界の
トビウオ"こと古橋広之進は100mも遅れてしまう。半
世紀以上の時の流れを感じる。

勝負には時の運がつきものという。金メダルまちがい
なしーといわれた古橋氏も五輪ではメダルを貰っていない。
参加した昭和27年のヘルシンキ五輪では、選手としては
峠を過ぎていた。戦争で二回、五輪が流れているが、
この五輪の時機にピークを迎えたスポーツ選手は不運
だった。有望な沢山の選手が戦争で死んでいった。

古橋選手が世界記録を樹立した神宮プールの栄光の第5の
コースで僕も泳いだことがる。予選レースは記録に関係
なく泳げるからだ。僕の記録は今では小学校の女子の記録だが、
古橋氏と同様、元気でいられるのは水泳のお蔭である。



蕎麦の刺身

2006-04-22 06:26:16 | Weblog
旅先の郡山で蕎麦の刺身をご馳走になった。駅から近い
住宅街の中にある昭和初期の民家を店にした「隆仙坊」
という名の御蕎麦屋さんである。蕎麦と刺身という妙な
取り合わせだが、決してゲテ物ではない。「稜飩蕎麦刺し」
というのが正式名称。氷で冷やした蕎麦を山葵で食べる
のど越しがなんともいえない。

食糧難時代を経験した世代は出たものは何でも残さない。
絶えず飢餓感を持つ"悲しい性”の持ち主が多い。この
世代には「隆仙坊」の絶品は量的には物足りないが、やはり
うまいものはうまい。「揚げそばがき」、など他の絶品と
ともに地酒にあい、昼間から陶然とした気分になった。
店の民芸的な調度が、いっそう料理をうまくする。

ここでは”とっくり”に”おちょこ"、"床の間”に
"日本髪"が似合いそうである。あの戦前の貧しかったが
人間味豊かだった時代を想起した。



"豊かな人々の群れ”

2006-04-21 20:37:04 | Weblog
30数年前勤めたことがある郡山の会社のOB会に出席した。
折から開成山公園の桜は満開、週末のお花見を楽しもうと
早くも公園のあちこちに青ビニールが敷かれ、場所の陣取
が始まっていた。


開成山の周辺は、明治16年オランダ人のお雇い技師の
指導で猪苗代湖から水を引き、安積疎水を完成させるまでは
荒地の原野であった。当時の農民の貧しさについては、
プロレタリア作家、宮本百合子の"貧しき人々の群れ”の
中によく描かれている。貧しさの度合いは、今いう所得
格差なんていうものではなかった。

もともと、この公園は安積疎水の水を貯水するために掘った
三つの池の周りにつくられたもので、同じ郡山ゆかりの作家、
久米正雄は、この三つの池を号にして「三汀」と称していた。

いまや郡山は福島県では最大の都市、かっての"貧しい人々”
が生活していた面影はない。"豊かな人々の群れ”で週末は
大賑わいを見せることでしょう。”豊かな人々”は多分、
プロレタリアの言葉を知らないのではないだろうか。