「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

     早くて長かったこの一年 わが家の十大ニュース

2010-12-31 07:17:36 | Weblog
平成22年(2010年)も今日で終わり。馬齢を重ねると月日の流れが加速度的に早く感じるようになる。あっという間の一年だったが、僕にとっては多難の年であり、早く感じる一方で精神的には短い一年でもあった。それは10年ぶりに膀胱ガンが再発し、しかも二回にわたって切除手術で入院するというアクシデンツにみまわれたからだ。

もちろん、わが家の十大ニュースのトップは、この二度の入院だが、長かった記録的な猛暑も忘れられない。もともと僕も老妻も暑さには強く夏バテしないのだが、さすがに今夏は二人ともいささか参った。僕の二回目の入院が7月の初めだったこともあるが、今年ぐらい夏が暑く長かった年はない。

でも二人とも後期高齢者にしては元気である。11月には結婚55年を記念して台湾へ3泊4日の観光旅行にでかけてきた。台北の夜市でゲテもの料理にも挑戦してきた。このほか国内旅行も1月甲府へ8月長野へ夫婦一緒にでかけ、そのほか老妻は町会の老人会で新潟へ、僕も昔勤めていた会社のOB会で郡山へも出かけた。

孫の一人が有名大学に入学できたのもニュースだが、僕個人にとっては、このブログが常時ランキング入りしてきたこともニュースだ。そして一度だけだが、121位という上位に入った。小ブログも書き始めて来年で5年目にはいる。やはり継続は力なりである。
今年の小ブログの上位5位は次の通り。
(1)「団塊世代 名古屋市長の”政治ごっこ” 121位
(2)もう老人は民主党を信用しない 1383位
(3)小沢一兵卒のラッパ 4076位
(4)もう聞きたくない空襲警報のサイレン 4746位
(5)インドネシア独立記念日と紀元節 4749位

         何をしたのか民主党政権のこの一年

2010-12-30 07:29:06 | Weblog
民主党政権はこの一年何かしたのかー改めて考えてみた。僕にはとっさに頭に何も浮かばない。昨年大晦日の小ブログは「鳩山総理あなたを信用しません」を書いた。鳩山総理が米国のオバマ大統領に対して”Trust me"(私を信用してくれ)と言ったが、大統領ばかりか日本の国民も鳩山総理の言葉など信頼していない、と言った批判であった。ちょうど、あれから一年たったが、まさに僕の言った通りだ。民主党の政権公約(マニフェスト)はほとんど実行されず、すべて先おくりばかり、さらに悪い事には尖閣問題の処理など外交政策の迷走のオマケまでついた。

昨年12月30日、鳩山政権は”人間のための経済””輝きある日本”と美辞麗句をならべて経済成長戦略を発表、100兆円の需要を起こし、400万人の新規雇用を創設すると国民に約束した。しかし、一年後の今日、この戦略はどうなってしまったのか。鳩山前総理のあとを継いだ菅総理もやはり“有言不実行の民主党政権である。

今年は暮押し迫って小沢一郎・元代表の国会政治倫理審査会(政倫審)出席をめぐって二転三転、国民を小馬鹿にした茶番劇が続いている。”政治とカネ”の問題は一年前からいっこうに進展していない。このまま年を越してしまったが、解決のメドはたっているのか。

昨年の日本列島も暮から新年にかけて暴風、高波、大雪といった気象予測であった。小ブログは、新しい年が荒れた年にならなければよいが、と懸念したが、その懸念どおりの年になってしまった。今年も気象庁の予測は全国荒れ模様のようである。願わくば予測がはずれて一年が平穏で幸せな年になることを祈っている。

          “納めの不動“ 70歳の歳月

2010-12-29 06:57:09 | Weblog
今年も数え日となった。昨日午後、老妻と一緒に近くの目不動尊へ参詣に行った。一年最後の縁日を”納めの不動”という。一年間の無事息災に感謝して護摩を焚く行事からきているようだ。わが家は今年は僕の二度にわたる膀胱癌手術入院など多難な一年だった。そこでその回復を感謝し、来るべき年にむけて病魔を納めて欲しいというのが正直な気持ちであった。

目不動は別名,龍泉寺という。本堂に上る階段の右手に独鈷(とくこ)の滝があることから来ている。滝は二つの龍の口を通じて滝壷に落ちている。70年前、僕が少年だった頃は滝の水は、もっと勢いがよく、僕らは滝壷でしぶきを上げて水浴したものだった。が、今は龍の口から流れる水はちょろちょろだ。

本堂への階段は急な男坂とゆるい傾斜の女坂とがある。つい最近まではなんの苦もなく男坂を上ったものだったが、今年は手すりの世話になっても上れそうもない。仕方がない。やっと女坂の手すりにつかまりながら、本堂にたどりついた。自分ながらなさけない限りだ。

本堂の裏手には小さな公園がある。昭和13年の秋だったが、この公園で卒業した幼稚園の運動会があり参加したのを覚えている。当時はかなり広いと思った公園だが、今、見るとそんなに広い感じがしない。逆に公園に降りる階段が、こんなところに階段があったのかと、驚いた。僅か3段しかないのに手すりがないのである。70年前にも、この階段はあったに違いないのだが。やはり70年の歳月の流れなのである。

            老人ばかりの「火の用心」

2010-12-28 07:49:12 | Weblog
”火事と喧嘩は江戸の華”といわれたほど昔から東京は火事の多い所だった。徳川時代267年間に江戸の町に49回も大火が起きている。同じ時代、京都は9回、大阪は6回というから、いかに江戸で大火災が多かったがわかる。戦前の東京もそうだった。僕の記憶の中にも何度か野次馬みたいに消防自動車の後を追っかけて火事現場を見に行ったことがある。

そのせいなのか、東京では暮になると、町内ごとに”火の用心”の夜回りをする習慣がある。わが町でも昨夜8時から町会長宅前に20人ほどが集まって2組に別れ拍子木を叩きながら”火の用心”と町中を回った、と参加した老妻からの報告があった。本来なら男性の僕が参加しなければならないのだが、夜は一杯飲んでしまうので。

老妻の話では夜回りに参加したほとんどが60歳以上の年寄りで、しかも女性だったという。子どもは一人もいなかったそうだ。昔は”火の用心”の夜警といえば子どもたちの行事だったような気がする。僕も寒い夜空の下、”火の用心、マッチ一本火事のもと”と大きな声で町の中をまわった記憶がある。

子どもの数が減ってきたこともあるが、地域社会と子どもとのかかわりが薄れてきている。戦前、僕らが子どもの頃は、大人たちが、地域の子どもたちの面倒をよくみてくれた。例えばお正月には広っぱでタコ上げ大会をしたり、初午には甘酒を造ってご馳走してくれたりした。また、子どもたちも町内の清掃には積極的に参加した。やはり、子どもの時から地域社会の活動に参加させるよう、大人たちが教えないと、将来、地域社会に無関心な人間ばかりが多くなってしまう。


             寒梅に雪国の生活を想う

2010-12-27 07:01:20 | Weblog
通りを隔てた高台の隣家の寒梅が早くも白い花を咲かせ始めた。小ブログによると、一昨年は12月30日が開花日だから、今年は5日ほど早い。今夏の猛暑の影響かもしれない。早速、写真に撮ったが、僕のカメラと技術では、ご覧の通り家と梅の木の写真だけだ。

東京はこのところ寒さは厳しいが好天が続いている。しかし、日本海沿いの北陸、東北、北海道は大雪に見舞われている。お見舞い申しあげます。東京生まれ、東京の生活が長いのだが、現役時代、長野、郡山、札幌とトータルすれば10数年、北国で生活しており、雪の厳しさはいやというほど体験している。

昭和45年の冬だったと思うが、会津若松から出張の帰途、猪苗代湖畔の国道49号線で、乗っていた車がものすごい雪煙りに巻きこまれ、にっちもさっちも行かなくなり、深夜遅くやっと郡山にたどり着いたのを覚えている。今回も同じ49号で300台もの車が豪雪で立ち往生して長時間にわたって交通がスットプした。

札幌の冬は長野、郡山の比ではない。転勤して1,2年は珍しくもあり北海道の冬をエンジョイしたが、3年目頃から苦痛になってきた。東京育ちの人間は屋根の雪降ろしや雪かきなどしたことがない。子育てのまっ最中だったが、信州生まれの妻に代行してもらったが、女手であり上手に出来ず、郵便配達の人から、お小言を頂戴したりした。凍てつく深夜、酔って帰宅し、何回も転倒して痛い目にもあった。

雪国の人には申訳ないが、その点、雪の少ない東京は幸せだ。30年前の3月、雪の札幌から沈丁花の匂いただよう早春の東京に戻って来た時の幸福感が忘れられない。誰でも生まれ故郷が一番よいのかもしれないが。

             泥道への郷愁

2010-12-26 07:01:48 | Weblog
運動不足解消のため昨日も自転車に乗って自由が丘の無人スタンドへ行き、赤かぶ(200円)大根(150円)小松菜(150円×3)を買ってきた。計650円(写真)。老妻はこれでお正月のお雑煮の材料はそろった、と大喜びだ。老夫婦二人だけの正月である。若い時と違って御節料理も家で作るのはやめようと思うのだが、やはりそうもゆかないらしい。

無人スタンドで買ってきた野菜はドロつきなのがよい。東京の区部では最近ドロを見たり触れる機会がまったくなくなってしまった。それだけに、ドロがなにか新鮮なものに感じるから不思議だ。戦前僕が住んでいた目川ぞいの町では、大通から一歩入ると舗装されていなかった。ちょうど今ごろの季節は、霜が降りサクサクと音をたてながら通学するのが楽しみだった。

露地のドロ道の上では釘倒しの遊びもできた。五寸釘をドロ道に差し、これを別の釘を打ち込んで倒すという遊びだったと思う。その傍らでは、多勢の子どもが"陽なたぼっこ”をしており、寒くなると「おしくら饅頭」で暖をとった。”おしくら饅頭、押されて泣くな”-あの頃は、東京のどこへ行っても子どもたちの元気な声がしたものだったが。

暮の今ごろは今より寒かったような気がする。カラッ風が吹く中、子どもたちは霜焼けやひびの入った手に暖かい息を吹き付けながらとびまわっていた。ドロ道の水たまりに氷が張って、その上を歩いて靴を水だらけにして母親から怒られたこともあった。自然に触れることがない、今の都会の子どもたちは不幸である。

       孔子もびっくり この半世紀の変わりよう

2010-12-25 07:03:29 | Weblog
ジャカルタ郊外の観光施設「タマン・ミニ・インドネシア」に孔子廟が新しく出来、この完成式にユドヨノ大統領ら政府首脳が出席、盛大に祝ったと、現地の新聞が伝えている。変われば変わったものだ。44年前、僕がインドネシアに滞在勤務していた時、国内には反中国の嵐が吹き荒れ、在ジャカルタ中国大使館の建物は群衆によって焼き払われた。そして長い間、政府によって漢字の使用は禁止され、華僑は現地人名に改名させられたのだったが。

同じ頃、中国は文化革命のまっただ中で、国内では紅衛兵の若者たちが古いものはすべて悪とばかり、各地にあった孔子廟を破壊し、孔子像の目をえぐりとるなど勝手な行動に出ていた。その中国で、今年ノーベル平和賞に劉暁波氏が選ばれたのに対抗して「孔子平和賞」を創設した、と中国のマスコミが報道、第一回の受賞者に台湾の連戦・元総理が選ばれたが、連戦氏はこれを断ったらしい。孔子もこの一連の出来事に目をパチクリ、びっくりしているに違いない。

日本でも戦後すっかり忘れられていた孔子の教「論語」が昨年当たりから静かなブームだという。これは何を意味しているのであろうか。戦争中、旧制中学で「漢文」という名の授業で論語など四書五経をかじった僕らの世代にとっては歓迎だ。若者が「論語」を勉強し、孔子が説く所の道徳律を理解してくれれば、電車の中で老人の優先席に我がもの顔にすわりこみ飲食するようなことはしなくなるだろう、と期待している。

中国でも「論語」が見直されているらしい。もしこれが事実ならば、他人の領海に勝手に入り込み無礼な行動はとらなくなると、期待しているのだがー。

        誤りがあるシンガポールの戦争公文書

2010-12-24 07:04:33 | Weblog
先日、シンガポールの戦前戦中の歴史に詳しい知人と話し合う機会がった。前から僕はシンガポール政府アーカイブが発行している公文書「The Japnese Occupation 1942-1945」(日本の占領期 昭和17年ー20年)の内容に疑義を持っていたが、知人も同じ意見だった。この公文書はシンガポールの国立博物館の売店でも簡単に入手できるものだ。

二人が一致した誤りの一つは、昭和17年2月シンガポール作戦の一端を指揮した第五師団(広島)の松井太久郎師団長(中将)の顔写真が南京作戦の松井石根大将のものと誤って掲載されている。松井石根大将はシンガポール作戦には関係がない。

第五列(The Fifth Column)というタイトルで戦前の日本人のスパイ活動を紹介しているが、その写真の一つに”逮捕されたスパイ”のキャプションで船のタラップを上る着物姿の日本の婦人の写真を掲載しているが、これは明らかに戦争勃発時にマレーの収容所に送られる時の写真なのだが、昭和16年11月と記述されている。

日本軍の残虐さを示す絵がある。捕虜らしき中国兵をさかさ吊りにして、日本兵らしき男がムチ打ちしている絵だが、これは中国の”南京虐殺”事件の資料としてよく登場してくるものの一つだ。

シンガポールは観光を国の政策の一つにしている。年間訪れる日本人の観光客も多い。たしかにシンガポール占領直後の虐殺を始め、戦争の暗い面があった事も事実だが、政府の公文書にこういった初歩的な誤りもある。正しい歴史を後世に伝えるために、在外公館は誤りを指摘すべきである。


        鳴った鳴ったサイレン 陛下の喜寿のお祝い

2010-12-23 07:12:28 | Weblog
昭和8年12月23日の明け方、日本国内津々浦々に高々とサイレンが鳴り渡った。皇室に全国民待望の皇太子がお生まれになった。当時皇室には4人の姫君はおられたが、皇太子はおられなかった。それだけに国民の喜びは多きかった。昨年秋の皇室園遊会のさい、女優の森光子さんがこのサイレンの話を天皇陛下にされていた。サイレンはご誕生の奉祝歌の歌詞にもなった。当時僕はまだ2歳10か月だったが,うら覚えながら知っている。
       ♯ 「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋 作曲中山晋平)
   日の出だ日の出に 鳴った鳴ったボーボオ サイレンサイレン ランランチンコン
   夜明の鐘まで お喜びお喜び みんなみんなかしは手 嬉しいな母さん
   皇太子さまお生まれになった。

天皇陛下は今日、77歳の誕生日を迎えられた。民間でいえば喜寿のお祝いである。僕らと同じ昭和の一桁世代である。皇室といえども戦中戦後の困難な時代を生きてこられた。戦中は日光に学習院の級友と一緒に学童疎開されている。当時天皇陛下と疎開先で共に暮した僕の旧友(故人)は、よく当時の食糧難の話をした。

77歳の誕生日に当たっての記者会見によると、陛下自身、最近お耳が遠くなってきたという。テレビを見ていてもアナウンサーの声は聞こえるが、そうでない人の声は、時々お聞きとれないこともあるという。僕もそうである。でも陛下それはお耳が遠くなったのではないのです。若い人の日本語がおかしくなってきたからなのです。ご安心を!
  

             東京のパワー・スポット

2010-12-22 07:14:20 | Weblog
伊勢神宮(内宮・外宮)の年間参拝者数が今年はすでに860万人を越えた。これは過去最高の記録だという。これまでの記録は1973年で、この年は20年に一度の式年遷宮の年だったが、今年はそうではない。昨年に比べても7・7%という伸びようだ。その背景には若者を中心にしたパワー・スポットの”ご利益”があるようだ。

パワー・スポットという僕ら年寄りには聞きなれない言葉だが、現代の世相を反映してかなにか神聖な場所からエネルギーやパワーを貰おうというのがブームなのだそうだ。ネット情報によると、ホテルやレストランなみに効果がありそうな順に五つ星から一つ星まで300近くのパワー・スポットがある。誰がどのような基準で選ぶのか判らないが、五つ星のスポットの一つ京都の鞍馬寺の本殿の前の石には休日には行列ができるほどだという。

東京のパワー・スポットはどこなのか調べてみたら五つ星は明治神宮の境内にある清正の井戸だという。80年近く東京に住んでいても、僕はこの井戸に行ったことはない。加藤清正に関係があるのかどうか寡聞にしt知らないが、こんこんと湧き出る井戸にパワーを感じるらしい。明治神宮に近い原宿の東郷神社も二つ星ながら入っていた。日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥を祭主にした神社だが、元帥の勝運にパワーがあるとのことだ。

同じ日露戦争の勇将、乃木希典大将夫妻を祀った乃木神社も赤坂にあるが、ここはパワー・スポットに入っていない。乃木大将夫妻は明治天皇のご逝去のあと、殉死されておられるが、現代の若者にはあまりパワーを感じないのかもしれない。一過性の流行だと思うが、神社仏閣にとっては、思わぬご利益である。