「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

陛下の”終りなきご慰霊の旅”と激戦地のご遺骨収集

2016-01-31 05:10:57 | 2012・1・1
天皇、皇后両陛下が5日間のフィリピン友好親善の旅から帰国された。80歳を超えるご高齢にもかかわらずご苦労な旅であった。訪問中、両陛下は日本政府が建てた、マニラに近いカリラヤの「比島戦没者の碑」にも詣で、先の戦争で亡くなった日本人50万8千人のの英霊に対して頭を垂れ日本から持参した白菊を供花した。

天皇、皇后両陛下の”慰霊の旅”は、沖縄、広島、長崎、硫黄島の国内に次ぎ平成17年のサイパン、昨年のパラオに続いて今回のフィリピンンは海外では3回目である。両陛下は、ご旅行中関係者に対して、”ご慰霊の旅は終わりなき旅です”と語られていたそうだが、両陛下とほぼ同年齢の僕には、両陛下のご気持ちがよく理解できる。

そのご気持に甘んじるわけではないが、ご健康が許されるならば、僕はもう一つの激戦地だった西部ニューギニア(インドネシア)にも”ご慰霊の旅”を願えないかと思っている。厚労省の資料によれば、この地でも戦争末期、逆上陸してきた連合軍との戦闘で7万8千人がジャングルの中で飢えと病魔に倒れ死亡、そのご遺体は70年経った今でもほとんどが収集されないまま眠っている。

西部ニューギニアには日本政府が建てた慰霊碑は一つもない、僅かにインドネシア現地政府が2010年に激戦地の一つGenyumに建てた慰霊碑(Tugu korban perang di Genyum)があるだけだ。昭和31年に政府の遺骨収集船、大成丸が訪れた際、建てた仮の木製の慰霊碑があるようだが朽ちて詣でる人も少ない。

厚労省は毎年、遺骨収集団を現地に派遣しているが作業は思うように進んでいない。現地(ジャカルタ)駐在のの日本大使がGenyumの慰霊碑を訪れたのかどうか寡聞にして知らない。南溟酷暑の地である。恐らく両陛下の”ご慰霊”の旅は難しいと思う。しかし、そうであれば、昔流の古い表現で言わせて貰えれば、両陛下の心を心にして、せめて政府高官が現地を訪れてほしい。ご遺骨収集はご慰霊以前の問題である。

インドネシア独立志士夫人、101歳日本人女性からの手紙

2016-01-30 06:21:13 | 2012・1・1
戦前から戦中にかけてインドネシアの独立に携わった志士の一人、マジッド.ウスマン氏(故人)と、戦前国際結婚したシティ.アミナ夫人(日本名長田周子さん=101歳)から手紙を頂戴した。お手紙は便せんんで3枚、細かい日本字で記されている。同封されていた愛娘のサルミヤ博士(元東京の日赤病院医師)の添書によると、夫人が何日もかけて書き上げたものだという。サルミヤ博士はおそらく、これが母親の最後の自筆の書になるかもしれないという貴重なものだ。

シテイ.アミナ夫人の波乱な半生については、すでに小ブログ(2011年6月19,20,21日、13年7月6日8日)紹介させて貰っているが、大正3年、山梨県の旧家の生まれで、戦前日本女子大在学中、セツルメント運動を通じて当時明治大学に留学中のマジッド.ウスマン氏と知り合い結婚,ウスマン氏の故郷、西スマトラのパダンに帰国した。ウスマン氏は当時、オランダからの独立運動の指導者であった。昭和16年12月開戦と共にオランダ官憲に逮捕されジャワの抑留所に収容された。やがて日本軍の進駐軍で解放されて故郷に帰り、スマトラの第25軍軍政部の顧問として協力したが、18年4月の”ジャワ、スマトラは独立させず”との大本営決定に翻弄されて、東京へ”政治顧問”として連行され幽閉された形で敗戦後まで滞在、20年7月の甲府空襲まで夫人の故郷の地で経験している。

シティ.アミナ夫人の手紙の内容は主として、日本軍政当時の体験で、その中でも日本軍によるスマトラ義勇軍創設時の夫君、マジッド.ウスマン氏の協力進言が中心である。夫人は夫君が、パダン地方の住民、ミナンカバウの昔からの伝統”ケルクナン”(ママ)にそって義勇軍を創るべきだと強く主張したが、第25軍は、これを取り入れなかったと書かれている。

スマトラ義勇軍については、ジャワ義勇軍に比べて今一つ全体像が明らかではない。義勇軍に教官として参加した日本人の個別的な体験記録だけである。シティ.アミナ夫人の手紙によれば、半世紀の記録はすでにインドネシア語で上梓されており、近日中に愛娘、サルミヤ博士の手で日本語に翻訳され出版されるとのことだ。スマトラ義勇軍を含め、当時の軍政時の秘話が、夫人の書によって明らかにされるのではないかと期待される。


スマトラ(パダン)義勇軍歌 (元パダン義勇軍教官、清水道之助氏提供)

Di zaman dule darah kesateria Prnah mengarir,menghancurukan nusuh
Ribuan korban jiwa pemuda, Supaya djangan tanahair ribuh,
Giyungun laskar rayat,laskar tanahair, Bersedia selalu dengan darah dan nyawa.
Membinasakan musuh sampir hancyr cair, Kemenangan achir mesti di pihak kita.
その昔、戦士の地が流れた 仇敵を全滅させるために。
数千人の若者の犠牲が祖国の荒廃を防いだ
義勇軍、人民の軍隊、祖国の軍隊、常日頃、血潮と精神を鍛え備え
仇敵を粉々に破砕する、最後の勝利は必ず我らの側に



ガン再手術入院記(3) 問題抱える病院の”国際化”

2016-01-29 06:32:01 | 2012・1・1
大腸ガン手術入院の2週間、僕は7回も病室を変わった。うち1回は手術当夜の個室だが、あと6回は病院側の”都合”によるもので、僕が希望したのではない。この病院では、ベッドは移動式にになっていて、そのまま一つの病室から他の病室へ移れる。手術後数日たって、容態が安定してきたある日、僕の隣のベッドにへ外国人の患者が移ってきた。僕は10年ほどJICA(国際協力機構)で外国人研修の仕事をしたことがあり、外国人には馴れているので、早速”隣人のよしみ”から英語で挨拶したところ、西アジアのイスラムの国から来た人であった。

この外国人が深夜2時過ぎ、ベッドの上で大声を上げ騒ぎ出した。看護師さんが駆け付けたが、外国人は日本語が解らず英語で”出て行け”と怒鳴るだけ。とりつく島もなく、そのうち大勢の病院のスタッフが集まり、やっと騒ぎは収まったが、そのとばっちりを受けて、僕のベッドとの境のカーテンは開けられ、とても安眠などできなかった。翌朝、病院側は僕に深謝して、ベッドを別の部屋の移動してくれたが。

騒ぎの発端は、外国人がトイレに行きたくなったが、用意してあった尿瓶(しびん)の場所が判らないことからのようであった。外国人は多分、英語かあるいは自国語で”しびん”と言ったのだろうが、看護師さんには理解できなかったようだ。(恥ずかしながら、僕も尿瓶を英語でなんんというか知らなかったが、広辞苑によると、語源はポルトガル語の“シュビン”からきている)

この病院に限らず、平成24年の入管法改正で在留外国人の国保保険の加入が義務づけされて以来、外国人の通院や入院の数が増えてきている。長期滞在の外国人数は26年の統計では全国で200万人を超えている。日本に長期滞在するのなら、当然、日常生活も日本語で対応すべきだというのは日本側の論理である。しかし、在留外国人の中には、上記外国人のように日本語の出来ない人もいる。外国人に対して国保加入を義務づけるならば、病院側も最低限度、国際語の英語の医学用語の単語ぐらいは理解できてもてもよい気がするが、どうだろうか。(この項終わり)

ガン再手術入院記(2) 治療と介護との分担

2016-01-28 08:32:16 | 2012・1・1
2週間入院した国立病院では、患者は腕にパーコードの腕輪を義務づけられていた。入院中の治療はすべて、このパーコードの読み取りで行われている。多分過去の医療事故の反省に立っての知恵なのだろう。早朝から深夜まで、看護師さんがPCを載せた手押し車で、病床を訪れ、体温、血圧、時には血糖値などをチェック、マニュアルの時間表にそって点滴液を交換してくれたが、すべてパーコードの読み取りで始まった。これが象徴されるように、管理された治療体制は完全だった。ただ僕が気になったのは看護師さんの使う、例の”○○○しても、よいですか”といったマニュアル言葉であった。患者が体温を測って貰うのは当たり前である。

マニュアルの順守は基本中の基本だが、その弊害もある。僕は入院中介護の面で何度かこれを体験した。どこの病院でも専門の介護士さんはおらず、たいていは看護師さんが併行しているようだ。僕は3年前左膝に人口関節を入れた後、国から身障者4、介護1の認定を受けたが、普段の日常生活では他人のお世話にならずに済んでいる。しかし、今回の入院では1週間の点滴生活や手術直後、身体に張り巡らされた管で、夜間、尿瓶(しびん)のお世話になるにもベッドから起きられず困った。ナースコールを呼べばよいのだが、患者の心情として、なかなかできないものだ。でも、何回か困り果て看護師さんのお世話になったが、マニュアル人間として教育されたためなのだろうか、俗な言葉で言えば、気が利かない。例えば、僕がベッドから立ち上がれずにいるのに手をかさないし、言わないと靴も履かせてくれない。これは一人の看護師さんだけではなかった。

医療界の事は知らないが、看護師は資格を取れば、同時に介護師の資格を得られるのだろうか。しかし、その逆はないと思う。でも、僕が思うには介護の仕事は主に治療を目的にした看護師の仕事とは違う。病院の夜間シフトにも介護士を常時配置したほうが患者には助かるのだが。

ガン再手術入院記(1) この恵まれた医療制度に改めて感謝

2016-01-27 06:53:01 | 2012・1・1
日本列島が寒波に襲われた「大寒」前後の2週間、僕は2週間、大腸ガン再発手術のため、東京の国立病院の病室でぬくぬくと避寒生活を送れた。戦前、僕が子供の頃の病院といえば、暗い、薬品の臭いがするジメジメとした建物が多かったが今は違う。僕がお世話になった病室は、9階建ての高層の6階にあり、病室から晴れた日には白雪の富士の霊峰も眺められた。病室は一部屋に4ベッドがあり、カーテンで仕切られており、3平方メートル近いスペースがあった。室内は採光もよく、常時、適温適湿に保たれていた。3度の病院食も美味で下手なビジネスホテルにいるよりも快適だった。

僕は多少、年金のほかに多少収入があり、後期高齢者医療保険に属しながら窓口支払い分担は現役なみの3割を支払っている。その関係で僕がこの恵まれた病室に入れたわけではない。同室の隣ベッドのお年寄りは、生活保護を受けて老人ホームでくらしている方で、看護師さんとの会話から、飲料のペットボトルの水も買えず、水道水を使用していた。はす向かいのベッドには、西アジアからの外国人がいた。日本人だけでなく長期滞在の外国人でも、入院出来るのだ。(この外国人についての同室体験は別項で紹介する)

2週間の入院費用が6ケタの数字に多少かける程度ですんだ。手術前の諸検査料を入れても、1週間ハワイへ観光旅行へ行くよりも安い。誤解を呼ぶかもしれないが、こんなに恵まれた環境の中で、高度の医療手術を受けられるのは、世界の国々の中でも日本以外にそうないのではなかろうか。世界に冠たるわが国の国民医療制度のお蔭である。少子高齢化で、この医療制度の存続が危機にあるそうだが、なんとか後世の代にも、この素晴らしい制度を存続させたいものである。

作家の曾野綾子さんが産経新聞の随筆の中で、90歳の老人がドクターヘリを要請した例を挙げ、日本の老人には利己的な年寄りが増えてきたと批判されていた。そうかといって生命がある限り、人間は医療を受ける権利はある。しかし、あまり意味のない薬を競い合って服用する悪習は改めてもよいのではないか。

大腸ガン再発手術を終え、無事退院

2016-01-26 11:12:43 | 2012・1・1
今日1月26日、無事退院てきた。旧臘、再発が発見された大腸(結腸)ガンの摘出開腹手術のため国立病院に12日から入院していたが、手術後の経過が良好で、予定通り2週間で退院できた。80歳半ばの老体では、再手術にかなりの抵抗があったが、老妻はじめ周囲の温かい激励があり、思い切って手術に挑戦したが、結果的には今のところ、よかったようである。

小ブログで何回も紹介しているが、僕はすでに膀胱ガンで4回、一昨年暮れには大腸ガンの腹腔手術をしている。そのほか3年前には右ひざの人工関節置換手術をしており、大手術には慣れているとはいうものもイヤなものだ。今回も朝9時から全身麻酔をかけられ、手術が終わった午後3時半まで6時間僕は全く記憶がない。そして手術後約10日間、口からの食事はなく点滴生活であった。

病床で老妻が持参した新聞で”ガンの部位別10年生存率を読んだ。戦後すぐの時代には、ガンといえば死に至る病で、医師は患者にガンであることを告げなかった。しかし、医療の進歩で今は、僕が罹患した膀胱ガンの5年生存率は70.3パーセント、大腸ガンでも69.0パーセントという高率である。

しかし、僕が幸いだったのはガンが早期発見されたことである。膀胱ガンは前兆として出血と痛みがあったこと。大腸ガンは区の定期検査でステージ2の段階で発見されたことだ。部位によっては、早期発見困難なガンもあるようだが、普段からガンについては、留意し機会があれば、検査を受けるのが、ガンによる死亡率を低くする道のようである。(明日から入院記を連載します)

ガン手術で入院 ブログの更新休みます

2016-01-12 06:30:08 | 2012・1・1
旧臘(ろう)再発が発見された大腸がん(横行結腸)の開腹切除手術のため、今日12日から約2週間、国立病院に入院します。従って、この間、小ブログの更新も休ませて頂きます。
過去に膀胱がん4回、大腸がん(腹腔)1回、膝の人口関節置換など10回も入院歴がありますが、心身共にいやなものです。しかし、そのつど、新しい体験と発見があります。何事も前向きにというのが僕の心情です。退院後、再度、ブログが更新出来るのを楽しみにしています。

その他大勢 小沢一郎氏の野党再編論

2016-01-11 06:54:53 | 2012・1・1
NHKテレビの「日曜討論」で与野党の党首が新年の抱負を語っていた。与党は自民党の安倍晋三総裁と公明党の山口那津男代表の二人だが、野党は岡田克也民主党代表以下九党である。NHKは各党の議席数に応じてか各代表の発言時間を決めているようだが、「生活の党と山本太郎とそのなかまたち」の共同代表の小沢一郎氏の持ち時間は僅か数分、野党その他大勢の一人、まさに天下の秋を感じた。

「生活の党」の所属議員は衆院は小沢一郎氏他一名、参院は”やわらちゃん”こと谷亮子他一名の合計四人、これに「山本太郎となかまたち」の山本太郎議員の一人が加わって「政党」を結成、”政党助成金”を頂戴しているようである。小沢一郎氏といえば、政党作りと政党毀しのベテランである。自民党を振り出しに新生党、自由党、民主党、国民の生活が第一、日本未来の党、生活の党となんと九党も渡り歩き、作ったり、毀したりしている。

その小沢一郎氏が、最近また野党再編をにらみ、イタリアの故事にならって”オリーブの木”論を主張しているようである。確かに今の日本の政界は、自民党の一強多弱で、正常とは思えないが、政策も主張も異なる政党同士の野合では困る。先日参院の北朝鮮の核実験に対する抗議決議案に対して、小沢一郎氏と共同代表をつとめる山本太郎氏が棄権していた。党としては賛成していたが、個人的にせよ共同代表が棄権するとは理解できない。

その昔、連合軍総司令長官だったマッカサー元帥が政界を去るに当たって”老兵はただ消えゆくのみ”といったそうだが、”一兵卒”など軍隊言葉が好きな小沢氏のこと、そろそろマ元帥の故事にならったら、どうだろうか。

スラウェシ縦貫鉄道建設も中国が受注 日本の対インドネシア外交

2016-01-10 06:26:33 | 2012・1・1
先日、インドネシア関係のある会合で、スラウェシ(セレベス島)縦貫鉄道建設がいよいよ始まり第一期工事、マカッサル―パレパレ(177キロ)間の用地買収も終わり2017年には開通するという話を聞いた。将来的には、この鉄道はマナド(メナド)まで1772キロを時速200キロで結ぶ大工事だ。僕は1966年以来半世紀にわたる”インドネシア.ウォ―チャ―”だが、最近のインドネシア事情にはうとい。が、昨年、ジャワ高速鉄道建設計画の落札で中国に負けたばかりである。今回のスラウェシ鉄道については、最初からプロジェクト参画ししていなかったのか。それとも、国際入札で負けたのか調べてみたら、スラウェシ鉄道工事もジャワ鉄道と同じ中国の北車集団の唐山軌道が工事から車両調達まで請け負ってる。

ジャワ高速鉄道建設は、一方的に日本側が有利と伝えられ、昨年8月、東京で開かれたインドネシア独立祝典では、二階自民党総務会長(日本インドネシア議員会長)が、日本側の落札を見越したように年内に日本から(そのお祝いに)1000人の観光客を送り込むと約束していた。それだけに、土壇場にきてのきての中国側への決定は、日本側にとっては、ODA最大の受領国なのに"背信行為だ"という意見さえ出てきた。正直言って、僕もその一人だったが、最近のインドネシア事情に詳しい知人から資料を頂戴し、読んでみると、どうも日本側の対インドネシア政策についての勉強不足が原因しているようにも思えてきた。

2014年に発足したジョコ.ウイドド政権は一貫して国家予算を大型プロジェクトに投ずることを禁止してきた。ジャワ高速鉄道計画が中国に決定したのも、中国側の計画案が日本案より優れていたのではなく、国家予算を使わずに済むからである。また、ジョコ政権は、ジャワ集中のプロジェクトを避け、かって植民地時代”外領”と呼ばれたスマトラ、スラウェシ、カリマンタンの開発に力を入れている。スラウェシ縦貫鉄道もその一つである。採算のとれないプロジェクトには手を出さないといのが国策なら理解できるが、やはり相手側の意向も配慮しるければ”商談”は成り立たない。

猫や虫を食べているシリアのマダヤ市民

2016-01-09 06:07:30 | 2012・1・1
NHK.BSのワールド.ニュースでショッキングな画面を見た。シリアの首都ダマスカスに近いマダヤという町で2万人の住民が政府軍と反政府軍との数か月にわたる戦闘で、町が外部と封鎖され結果、食糧道を絶たれれて飢餓状態に陥っている。画面には痩せ細ってアバラ骨まで見える少年が登場、住民たちは、木の葉(tree leaves)のスープで腹を満たし、猫の肉や虫まで食しているという。

敗戦を挟んだ昭和20年(1945年)から21年にかけて日本は数か月間、国民は食糧の配給が止まり、飢餓寸前に陥った。皇居には25万人の都民が集まり“コメ寄こせデモ”まであった。幸い、わが家では、なんとか餓えずにすんだが、一回だけついに食べるものがなくなり、フスマを焼いて焼いて口にした事があった。勤労動員先の千葉県の運河では、空腹から無味乾燥な醤油滓を食べたこともあり、飢餓は実感としてよく解かる。

昭和20年秋は天候不良から凶作であった。多分、そのまま放置すれば多数の餓死者も出たのかもしれない。見るに見かねた進駐軍の働きかけて、米国の民間救済団体LARAから救援物資が贈られてきた。東京などの大都会の保育所には脱脂ミルクが、一般市民にも、米のかわりにチーズやバター、缶詰が配給されて飢えを救った。僅か70年前の出来事である。

中東は今や政府があってないようなシリア、イラク、イエメンの内戦をめぐって外国が入り混じって軍事援助をしているが、マダヤの惨状を見て、今必要なのは相手に対する空爆ではなくて緊急な食糧援助である。百万人を超す欧州難民の受け入れも緊急な課題だが、それよりも根源にある宗派対立といった問題をアラブ自身の叡智で自浄解決できないのであろうか。