「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

               野田総理の巧言令色

2012-03-31 07:23:28 | Weblog
昨夕巨人ヤクルトの開幕試合のテレビ実況を楽しみにしていたところ急に野田総理の記者会見の模様がNHKで流された。国民の一人として総理の発言を無視するわけにはゆかない。総理には申し訳ないが、僕はちびりちびり晩酌をしながら聞いたが、酔いも多少あっかも知れない。総理の冒頭の話は僕には「巧言令色鮮仁」に映った。

総理の雄弁さにはいつも感心しているが、それが昨日は空虚なものに感じた。消費税率引き上げ関連法案の国会への提出を受けての記者会見だったが、肝心の社会保障との関連が僕にははっきり見えてこない。総理は”今日よりは明日がよくなる”ことを信じてと、繰り返し言っていたが、そんなことは政治家としては当たり前なことだ。

後期高齢者の僕が聞き捨てならないと感じたのは総理が”(従来の社会保障が)高齢者中心だったが、(これからは)子供中心、子育てに厚くする”といった発言をしたことだ。表現は多少ちがうかもしれないが、現在の社会保障がまるで年寄り中心であるかのような言い方だ。冗談ではない。日本の年寄りはそんなに総理が考えるほど恵まれていない。政権交代の際のマニフェスト(公約)で後期高齢者医療制度を即時撤廃するといったのは民主党だったが、一向に代案がでてこない。

野田総理は会見で与野党協議を呼びかけ”政局ではなく大局に立って政策のスクラムを組みたい”と言っているが、これがそもそもの認識のあまさだ。自民党など野党が民主党に呼び掛けているのは議会の解散総選挙だ。当たり前ではないか、これだけマニフェスト違反して平気で政権の座にある政党とスクラムなど組めるわけはないではないか。 
                                                                                                                                                                                                ちなみに「巧言令色鮮仁」(論語学而)は三省堂慣用句ことわざ辞典によると、うまく言葉を飾ったり顔色をつくろったりする者には人の道を心得たものがすくない。心にもないことを言っておべっかを使う八方美人には誠実な人間はすくない、とある。

         ガソリン値上げデモで揺れるインドネシア

2012-03-30 07:18:53 | Weblog
昔、インドネシア(蘭印)に駐留した日本軍の兵士たちは”Nasi(お米)はなし、kue(お菓子)は食え”と現地の言葉を覚えたそうだが、ガソリン(minyak)は、土地から吹き出すほどあって驚いた、と戦友会誌に書いてある。大東亜戦争緒戦の蘭印進攻作戦もも東カリマンタンの石油基地、タラカン島攻略で始まり、パレンバン(スマトラ)への落下傘部隊の降下も石油基地確保が目的だった。

そのインドネシア全土が、ここ数日政府のガソリン価格値上げ発表に反対した学生、労組員などの大規模なデモで揺れている。デモ隊は政府が4月1日からガソリンなどの燃料価格を1リットルあたり6000ルピア(54円)にすると発表したことに抗議している。日本でもこのところガソリン価格が高騰し、一部には1リットル160円のところも出てきているが、これに比べればはるかに安い。

インドネシアはOPEC(石油輸出機構)加盟時は政府が補助金を出して国際価格よりも安くする政策をとってきたが2007年脱退後も同じ政策を維持してきた。が、最近の高度経済成長につれて国内の石油消費が増え、外国から大量に輸入しなければならなくなった。このため補助金が膨張し歳出を圧迫する事態になってきた。しかも、わが国と違って公共輸送機関の整備が遅れているインドネシアでは、バスやオートバイが庶民の足である。ガソリン価格の値上げは庶民の生活を直撃する。

1998年、スハルト政権崩壊につながる金融危機の時も、政府がガソリン価格の補助率を引き下げたため連日、デモ隊が町に展開されていた。1966年のスカルノ政権崩壊の時も、学生たちが毎日、激しいデモを行った。偶然だが、僕はこの二つの事件に遭遇している。在インドネシア日本大使館はHPで、在留邦人にデモに巻き込まれないよう注意しているが、油断は禁物である。くれぐれも注意したほうがよい。

           荒神さまのお祭りとと江戸庶民文化

2012-03-29 07:00:35 | Weblog
昨日老妻と一緒に旧東海道品川j宿のはずれにある臨済宗海雲寺の春の例大祭に出かけた。昨年は東日本大震災のため護摩たきなどの行事が中止となり、二年ぶりの参詣である。海雲寺祭りは、古くから荒神さまの名前で江戸庶民の間で”竈おこしの神様”として信仰を集め、春秋二回行われる大祭には警察や消防まで出て警備に当たるほどの人出で賑やかであった。この例大祭の参詣客が最近減ってきている感じだ。昨日も温かい陽気にもかかわらず人出はまばらであった。

昭和10年代の初めごろ、僕が母親に連れられて行った頃は、最寄の京急青物横丁駅からお寺までの道の両側には露店がいっぱい立ち並び、人込みでやっと歩けるような状態であった。しかし、この10年ぐらいを見ていると参詣客は確実に減ってきている。何故なのだろうか。理由の一つは、信者の中心だったた昔からの商家が東京では大手のスーパーなどに押されて廃業してきたこと。それと東京の中心部(旧江戸市内)の人口が都市開発で郊外へと移動したからではないだろうか。

荒神さまと同じ旧東海道に面して江戸六地蔵の一つ品川寺がある。境内には「金生七福神」が祀られており、樹齢四百年の大銀杏もある古刹だが、ここもほとんど参詣する客はいない。江戸時代には街道の往還客で多分賑わったお寺であろう。昔、東海道は海岸にそって通っていた、その名残であろう露座の地蔵の横には「溺死者の墓」もあった。「江戸」から「東京」に名前が変わって、すでに百五十年、荒神様の参詣客が減るのも当然と言えば当然なことなのだが。

(写真は品川寺の地蔵)

         年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず           

2012-03-28 07:57:24 | Weblog
このところの陽気でわが家の近くの桜もやっと蕾がほころび始めてきた。首都圏での開花宣言もまもなくだろう。それにしても今年の冬は老体には厳しかった。昨日、昔の同僚から同人誌に載った原稿とともに手紙が届いた。”今年の冬は寒かったですね”という書き出しである。やはり御同様であったのである.

何年か前まで”暖冬異変”という言葉をよく耳にしたことがあった。十年一昔という。ためしにその一昔前の日記帳を調べてみた。2002年(平成14年)の東京は、早くも3月16日、桜の開花宣言が出て春分の日には満開。4月1日には散り始めていた。やはり暖冬であったのである。10年前というと、僕は70歳、古希であった。日記には毎朝散歩した歩数が記されていた。当時は一日五千歩を目標に歩いていた。二冊目の本を自主出版したのもこの年であった。

この季節になると、僕は古代中国の詩人、劉廷芝の詩「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」を思い出す。まさにその通りである。10年前、一緒に花を見、ともに酒を楽しんだ友人はすでに鬼籍に入っている。フィレンツエの古い町並みを案内してくれ、バールでビールを痛飲した友も世界を異にしてしまった。

古希の時は自分も世にも希な年になったと、驚いたものだが、あれから10年以上の歳月が流れた。この間僕は二回も膀胱がんの切除手術で入院したが、幸い傘寿(80歳)も迎えられた。次は卒寿(90歳)が目標だが、年々生きるハードルは高くなってきている。歳々年々人同じからずだからだ。

            恥ずかしい田中防衛相の答弁態度

2012-03-27 07:04:23 | Weblog
参院予算委の集中審議でまたぞろ田中直樹防衛大臣が答弁を巡って野党議員から、まるでボクシングのサンドバッグのように袋叩きにあっていた。テレビでこの場面をみて、国民の一人として、曲がりなりにも一国の防衛を守る大臣である。その恥ずかしい答弁内容と態度に僕は不快感を抱いた。画像が世界に流れれば、日本の恥であり信用にもかかわる。

自衛官出身の自民党の佐藤正之議員が質問に立って、開口一番田中大臣に対して、後ろの閣僚席にいないで前の閣僚席に座って答弁してくれと注文を付けた。防衛問題の質疑であり、僕もなぜ当の大臣が一人だけ後部の席にいるのか不思議に思っていたところだった。なんのことはない。答弁に困った際の事務方が黒子のように椅子の後ろに控えていたのだ。

田中大臣の答弁はひどすぎる。シリア情勢に関連して自衛隊国連平和部隊がゴラン高原から撤収するような事態が起きた場合の撤収計画について”報告書の表紙だけをみた”という答弁は野党議員が怒るのは当たり前だ。答弁も”あの””あの”が多すぎる。質問者を”先生”呼ばわりするのも卑屈にみえてみっともない。もっと胸を張り、堂々と答弁してもらいたい。

前部の閣僚席に移っても、黒子みたいな事務方が画面に見え隠れする。さらに隣席の玄葉外相が時々”助け舟”を出している。テレビ中継を見ている国民は、国の防衛に関する重要問題をこんな人物にまかして果たして大丈夫なのか正直いって不安になる。野田総理は適材適所の人事だと言っているが、誰が見ても田中氏が防衛大臣にふさわしいとは思えない。

               "クンロク”六大関時代

2012-03-26 06:53:57 | Weblog
昔”クンロク大関”という言葉があった。”クンロク”とは元々麻雀の点数俗語で、9,600点のことを指すが、これが相撲界では毎場所9勝6負の成績しか上げられない大関の陰口となった。日本中のサラリーマンが麻雀に夢中になっていた昭和40年代の頃の話だ。

若貴横綱の父親、初代貴ノ花も”クンロク”大関であった。昭和47年11月場所、直前3場所の成績が33勝12敗で、一応規定に達したので大関に昇進した。が、その後の成績がよくない。9勝、8勝、0勝、8勝、8勝、9勝と1年間2ケタの勝利をあげていない。典型的な”クンロク”大関だった。

昨日千秋楽の大阪場所は、関脇鶴竜の大活躍で白鵬との優勝戦には負けたものの13勝を挙げ、来場所は大関に推挙される。そうなると来場所は大相撲史上初めてという六大関になる。それは結構な話だが、今場所の5大関の無様さはどうなのか。5大関のうち稀勢の里。琴奨菊の日本人2大関が9勝6敗、大関歴の一番古い琴欧洲に至っては8勝7敗という不甲斐な成績だ。

六大関時代になれば、毎場所”クンロク”大関が二人や三人は出てくる。一横綱、六大関だから星のつぶしあいで、平幕の力士に負ければ”クンロク”さえ維持できなくなる。現行の規定では、大関は2場所負け越せば平幕に落ち、落ちた場所で再び10勝以上あげればカムバックできる。しかし、見ていると、過去の大関の中には八百長といわれても仕方がないほど、この規定を上手に利用していた。相撲協会は六大関の"豪華さ”をセールスポイントにしいているのかもしれないが、逆目にでなければよいがー。

           輿石訪中使節団と小沢訪中使節団

2012-03-25 06:32:49 | Weblog
輿石東幹事長を団長とする民主党の訪中代表団一行10人が24日、習近平次期最高指導者と人民大会堂で50分会談した。その20分後鳩山由紀夫元首相(党外交問題最高顧問)が、同じ習近平氏とやはり20分話し合った。鳩山氏によると、事前に二つの会談についての調整はなかったそうだが、習近平氏側からみれば、同じ党から最高幹部と幹事長が別々に会談を申し入られ、別個に話し合いを持つというのは、随分おかしな話で迷惑な話だったろう。

民主党訪中団というと思いだすには2009年12月、時の小沢一郎幹事長が党議員143人、一般参加者483人を引き連れて胡錦濤国家主席に一人ひとり挨拶して”ツウショット”の写真を懇請した”朝貢外交”の時の場面だ。この会談で小沢一郎氏は胡錦濤氏に対して”自分は人民解放軍でいえば野戦の軍司令官でありで、がんばっている”と挨拶したそうだ。

時流れて2年余月、小沢氏は党籍を外され、軍司令官ではなく肩書はない。前回の訪中にも参加した輿石氏は幹事長として今回の代表団長に収まってはいるが、随員は僅かに10人、それに第一線から退いた”しうとめ”みたいな人物が別行動で動いている。幹事長なのに事前に日程調整もできなかったのだろうか。

民主党は2009年12月、習近平氏の訪日のさい、外交上の慣例を破って習近平氏の天皇陛下との会談をゴリ押しして実現させた。これはわが国の身内の話だから、許せるかもしれないが、今回は相手のある話で外交上は大変無礼なことだ。先日の震災一年記念日のさいも外交上の常識を破った行為がいくつか指摘されていたが、みっともない。

           横浜市営地下鉄の”最優先席”

2012-03-24 06:59:32 | Weblog
電車内のすべての席を高齢者や身障者のために”優先席”としていた横浜市営地下鉄だが、あまりそれが機能していないから今年7月から、さらに”最優先席”を設けることになった。市の交通局が調査したアンケートによると、高齢者の半分以上が席を譲られた経験がないという。なんのことはない。”優先席”といったって名ばかりで”一般席”だったわけだ。横浜市営の最長路線は僅か40㌔少し、時間にしても30分。元気な若者なら立っていてもたいしたことはないと思うのだがー。

東京都内を走る山手線でも、僕は席を譲られたことはない。92歳の友人も同じことを言っていた。僕らが若かった時には、年寄りが乗ってきたら、すぐに席を譲ったものだ。今でもシンガポールや台湾ではそうである。いつから日本人は高齢者に対してこうも冷たくなったのだろうか。横浜市交通局は”優先席”と”最優先席”とを区別して”最優先席”は”どうしても席を譲って貰いたい乗客のための席”にするそうだが、僕ら老人の立場からすれば、なかなか席を譲ってくれとはいえないものだ。また言ったって果たして席を譲るとはかぎらない。

残念だが、日本人のモラルが昔に比べて悪くなってきている。老人に席を譲るどころか、車内であられもなく飲食している若者が多い。シンガポールでは即座に罰金である。好いか悪いかは別として、戦前の日本も同じであった。横浜市交通局の考えは解らないではないが、やはり、罰則でも設けないかぎり、老人は席を譲って貰えない。悲しいことだが、現実はそうである。

             あわせて百六十歳、老”夫婦万歳”

2012-03-23 06:47:37 | Weblog
昨日老夫婦そろって地域の老人会の誕生パーティに参加した。会場の住区センターの畳の大広間には12月から3月までの4か月間に生まれたお年寄り約60人が集まったが、その大半は70代以上とおぼしきお婆ちゃんたち。僕のような男性は5人だけ、いつものことながら都会のお爺ちゃんたちは老人クラブがお嫌いのようだ。

誕生会の余興で老妻が「別れの磯千鳥」をフラで踊った。老妻のフラは老人会に入ってから覚えたものだが、今でも週に1回、同好のお仲間と一緒に楽しんでいる。僕は老妻には悪いが、ハワイアンもフラダンスにも一向に興味がない。「別れの磯千鳥」といった日本調の歌をフラで踊るのは邪道ではないかと思っていた。ところがである。ネットで調べると意外や意外。ハワイに関係がある歌なのだ。

”逢うが別かれのはじめとは、知らぬ私じゃないけれど”で始まる「別れのお磯千鳥」の作曲者、フランシスコ.座波(本名座波嘉一)は沖縄出身、ハワイ生まれの日系二世だとのこと。昭和16年の作曲だが、なぜかこの歌が第二次大戦中、イタリア戦線に出兵した日系アメリカ人部隊、第442部隊の兵士の間でよく歌われたという記録がある。日本に入ってきたのは戦後昭和27年、近江俊郎がハワイ公演の際持ち帰ったものだといわれている。そんな関係で戦後、ハワイアンのバンドで、この歌がよく演奏されるようになった。

老妻の踊ったフラダンスには、あまり興味はなかったが「別れに磯千鳥」にまつわるこの話には僕は関心を持った。何事にも関心を持つことが認知症の防止策だという。老夫婦万歳といったところだ。

              民生委員制度について考える

2012-03-22 07:13:28 | Weblog
横浜市旭区の民家で77歳の母親と重度障害を持つ44歳の息子が誰にもみとられずに死亡していた。息子が重度障害であることを行政は認知していたが、この情報が地域担当の民生委員に伝わっておらず、民生委員が知ったのは,母子が遺体で発見されて9日後だったという。どうも行政の関係者が個人情報を配慮しすぎた結果のようである。

最近こういった高齢者や障碍者といった社会的弱者の孤独死がめだつ。そのたびに民生委員が事前に情報をキャッチしていたかどうかが問題になる。民生委員は地域の情報に精通している人が厚生労働大臣の委嘱で任命され任期は3年だが、給与は支給されていない。活動費として年間6万円は支払われているが、一種のボランティアにすぎない。これは昭和23年に制定された「民生委員法」に基づくものだ。

超高齢者時代である。しかも60年前に比べて社会構造も複雑化してきた。しかし、これに対応する福祉の最前線はいまだに民生委員というボランティアに依存している。どう考えても矛盾している。しかも一方では「個人情報」を隠れ蓑にして行政が本来の福祉について怠慢になってきたように僕には思える。

幸い僕の住む地域は街が成熟しており、町内会の組織もしっかりしている。民生委員も顔見知りの方だ。しかし、同じ東京でも新興住宅街や集合住宅では、隣近所の日常的なお付き合いもないと聞く。こういった地域の民生委員の仕事は大変である。昨年の東日本大震災以後、人と人との絆の必要性が叫ばれているが、一朝一夕にできるわけはない。孤独死といった悲劇をなくすには、60年も前にできた古い民生委員制度を見直す時期にきているのではないだろうか。