「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

闇の中の9.30事件(ゲスタポ)の真相

2013-09-30 06:19:24 | Weblog
早いものだ。インドネシアの歴史を変えた1965年(昭和40年)9月30日のクーデター(未遂)事件から48年の歳月が流れた。この事件は当時インドネシアではGESTAPO(Gerakan Tiga Puluh)と呼ばれ、事件を起こしたとされるインドネシア共産党(PKI)のイメージをナチス.ドイツ秘密警察(Geheim Staatpolieze)とだぶらせて、国民に対して共産党への恐怖感を煽った。

このGESTAPOによってスカルノ(初代大統領)の国連脱退、マレーシアとの対決などの外交政策は一変し、破綻寸前だった経済も西側諸国の援助で救われた。僕は直接この事件は取材していないが半月後のスカルノからスハルト(第二代大統領)への政権移譲期にジャカルタにいてインドネシアの当時の政治混乱期を、この目で見ている。

このGESTAPOの真相については、半世紀近く経った今でも明らかではない。当事者の一人、スハルトが2008年、何も明らかにせず逝去されたので真相は闇の中である。僕が親しくしているバンバン.プルノモさん(88)は事件後軍当局によって逮捕され7年も刑務所に入っている。プルノモさんは義勇軍出身の大の親日家で当時インドネシア国軍の少佐であった。駐日大使をしたバンバン.スゲン将軍の実弟で、PKIに関係あったとはとても思えない。

GESTAPOの政治混乱でインドネシア各地で、共産党関係者を中心に最大300万人が殺されたという説がある。当時日本の新聞もジャワを流れるソロ川が殺害された人々の血で真っ赤に染まったという報道もあった。真相は不明だが、GESTAPOをきっかけにインドネシアが変わり、アジアが変わり、冷戦体制にもヒビが入ったモメントになった。

年寄りには理解できない「高齢者のしおり」

2013-09-29 06:33:15 | Weblog
これまで一律一割だった介護保険利用の自己負担率の割合が収入に応じて変わり、高収入者は二割になる案が厚労省の社会保障審議会から提示された。国会の承認を得て平成27年度から実施される見通しだ。これをめぐって値上げすれば、介護ばなれ現象が起きるのではという心配する声も上がっているという。しかし、現実の介護の実態をみれば、値上げは当然だろう。それよりも、今の介護保障制度はあまりにも複雑で一般には理解しにくい。

数日前、僕ら老夫婦宛てに住んでいる東京の区役所から「高齢者のしおり」が送られてきた。A4版64ページの立派な冊子だが、僕ら二人に多少認知症が出てきたのであろうか、一読してもよく理解できない。専門用語が多すぎるのである。「支援」と「介護」の区別さえ、よく理解できないぼくらにとって「認知症対応型通所介護」とか「認知症対応型共同型共同生活」とか言っても、漢字から大体のことは推察できるが完全には解からない。

「高齢者のしおり」はカラー、イラスト漫画入りで老人にも解りやすく編集したつもりなのだろうが、自分たちだけの用語が多すぎる。例えば地域包括センターといっても何が「包括」なのか解からない。たんに「老人総合相談センター」でよいのではないか。「ミニデイサービス」「ふれあいサロン」といっても何をやっているのか理解できない。老人に関する役所の活動が盛り沢山に書かれているが、どれだけ区内の老人がこれを利用し役立っているのだろうか。

区内に6か所ある特別養護老人ホームはたえず満杯で待機待ちだと聞いている。多分、高収入者の自己負担を2割にしても待機待ちは解決されるものではない。老人福祉については抜本的に改める必要があるように思われる。


孫のLCC貧乏海外旅行と学徒出陣70周年

2013-09-28 06:15:29 | Weblog
LCC(格安航空券)でアジア各地を旅行している大学生の孫から毎日娘宛てにメールで消息を伝えてくる。すでに出発してから10日経ちクアラルンプール、マラッカ、コタキナバルを旅行、今はバリ島に滞在している。宿泊先は、すべてあらかじめネットで調べて予約した安宿やドミトリー(学生寮)を使っている。こういった貧乏旅行は世界的に流行しているのであろうか、フェイス.ブックには孫がクアラルンプールで知り合ったエジプト人の医学生と一緒に撮った写真が載っていた。

今年は戦争が激化した昭和18年10月、徴兵延期されていた大学の文化系の学生が”学徒出陣”してから70年である。僕は当時中学生であったが、学生服にゲートルを巻き銃を担いだ大学生が、雨の中明治神宮外苑競技場を行進した新聞写真を覚えている。出陣の模様はラジオでも実況放送された。

考えてみると、孫はすでにこの学徒出陣した学生たちと同じ年齢なのだ。出陣した学徒たちの多くは、その後、前橋、豊橋、熊本にあった予備士官学校を経て南方の予備士官学校を卒業、前線に送られた。孫が今回旅をしたマラッカ近くのポート.ディクソンにも、その予備士官学校があった。戦後この士官学校を卒業した戦友が編纂した本「鉄の契り」が僕の手元にあるが、学徒出陣した人のなかには特攻隊として戦死した方、戦後BC級戦犯裁判に連座した方もいる。

孫は多分、過去のこういった事実を知らずに同じマラッカ海峡の夕陽を見たかもしれない。コタキナバルでは温泉を楽しんだ、とメールにあった。ここでも戦争中、反日華僑の反乱で50数人日本人が殺されている。敢えて僕は事前に孫には、こういった過去の事を伝えなかった。現実の平和の時代を自分の目で見て、将来につなげてもらえればよいと思ったからだ。

人生最晩年の福祉と独り暮らし老人

2013-09-27 06:22:13 | Weblog
秋は人恋しくなる季節である。64年来の独り暮らしの旧友(93)が、どうしているか心配になって入院中の病院に電話してみたところ、すでに退院したという。しかし、自宅に戻っていないので、現在どこにいるのか教えてくれと頼むと”案の定”個人の秘密だから教えられないという。旧友は昨年から地元の地域包括支援センターの支援を受けて「成年後見人」制度を申請中だったが、体調をこわして入院していた。

都会のマンションでの独り暮らしを心配して、地元の区の老人福祉課に支援を依頼したのは僕ら夫婦であった。しかし、今、僕らはこの”おせっかい”が、果たして旧友にとってよかったのかどうか反省している。NHKラジオの深夜便の「明日への言葉」の中で精神神経医の大塚宣夫先生が,独り暮らしのお年寄りは,独り暮らしの気概をもって生活されており、それだけに元気であるといった意味の発言をされていた。

僕らは旧友の独り暮らしをみていて大変だと思い、折角、介護制度があるのだからと、お願いしたわけだが、支援を受けてから急に旧友のボケが深まってきたようだ。彼は毎年、自分の誕生日に友人を新宿のレストランに呼び会食するのを楽しみにしていたが、支援センターは彼の「認知症」度からみて無理だと判断したようだ。どうも、これが逆に老化を早めたようにも見える。大塚先生は、独り暮らしの老人の中にはは、一日一回の入浴に縛られず、週に一回、自分の好きな時に入浴している人もいると語っていた。

僕の周囲の長寿の先輩方をみると、皆、ある意味では老後の自由な生活を楽しまれている。大塚先生は老後の人生を三期に分け、最後の2,3年を最晩年と呼び、この方たちの医療看護の病院を経営されている。その豊富な体験からの独り暮らし老人についての発言だろう。色々問題はあるが、僕ら夫婦は旧友には悪いことをしてしまったと思っている。

JR北海道と道民気質

2013-09-26 06:26:21 | Weblog
北海道内の7路線で新たに170か所もレールの異常が見つかったという。これでこれまで判明していた97か所を入れると異常レ-ルは267か所に上る。一体、この会社は交通機関なのに、乗客の安全を真剣に考えていたのであろうか。国土交通省は、原因の一つは企業風土と社内体質にあるとして全社的な点検、調査に乗り出した。

道民気質についてインターネットにこういうのがあった。道民気質の一つは”インデナイカ”(言いではないか)というのである。何か問題が起きても、多少のことなら、あまり問題にせず許認してしまうという。よく言えば”おおらか”だが、おおざっぱな道民性である。もう一つは他人への依存性である。2003年まで北海道開発庁という中央官庁が中心になって北海道の総合開発がすすめられていたが、長い間の国への依存が道民の他人への依存度になっているというのだ。僕も40年ほど前、あしかけ札幌の道内企業で働いたことがあるが、事実のように感じた。

JR北海道の体質は、28年前、旧国鉄時代からの慣習も影響しているという。10年の北海道在勤の僕の体験から言うと、道民は新らしいもの好きな反面、非常に昔からのことにこだわる面もある。当時僕は、これは北海道という”島国”の中の”島国根性”と皮肉っていたことを想い出した。

2011年5月JR北街道石勝線で特急が脱線して火災事故を起こした直後、当時の社長が”お客の安全を第一に考えてほしい”との遺書を残して自殺をしている。一連のJR北海道の不祥事は、この社長の遺書を生かされなかったわけだ。”インデナイカ”かでは簡単にすまされないし、責任を他人に任せてはいけない。







民主党の対韓”終活”外交

2013-09-25 06:11:19 | Weblog
民主党の大畠章宏幹事長、高木義明代表代行らが訪韓、韓国与党セヌリ党代表らと会談し、海江田万里代表の訪韓と朴菫恵大統領との会談実現を要請した。民主党は,つい先月も前原誠司氏らも訪韓している。何故この時期に幹部がそろって訪韓するのか。大畠幹事長は韓国側との会談で、韓国が実施している福島原発事故汚染水が原因だとすると水産物禁輸措置撤回を土下座まがいに懇願したという報道もある。事実とすれば、民主党の”終活”外交きわまれりだ。

ネットの上では民主党は”在日政党”だという。たしかに政権時代は政党幹部が在日から政治献金を受けていたことが問題になり、竹島は韓国領だとする牧師出身の議員もいた。”従軍慰安婦”問題で韓国人の反日デモに参加、日の丸に拳をあげて抗議した女性議員もいた。高木代表代行も異常なまでに、朝鮮人学校の授業料無償化にこだわっている。

僕は対韓ヘイト.スピーカーではないが、最近の韓国の一連の反日外交は異常である。これに対して日本側の態度はあまりにも紳士的である。紳士的というより鈍感だ。例えば民放テレビである。BS波チャンネルはたえず2局から3局が韓国ドラマを放送している。さすがに韓流ブームは去り、韓国への韓国客は減ってきているそうだが、日本人ならもっと毅然とした態度をとるべきである。ヘイトスピーチより、韓国料理街などに出入りしなければよい。

日韓外交の正常化は安倍総理が村山談話や河野談話を認めるべきだと、韓国側は主張しているそうだが、安倍総理がこれらの談話を否定したことはあるのか。要するに難癖である。民主党は党の終末が近づいてきた。

”巨人 大鵬 卵焼き”の時代

2013-09-24 06:06:49 | Weblog
プロ野球の巨人軍が2年連続35回目のセ.リーグ優勝を決めた。最近プロ野球にあまり興味がなくなってきたし、巨人軍のファンでもないが、まずはおめでとう。数年前はカネにまかせて他チームから有力選手を引き抜いて顰蹙をかっていたが、今年の原監督率いるチームは、必ずしもそうではない。自前の選手が中心のようだが、今ひとつ人気が出ないのはどういうわけかー。

巨人軍の優勝というと、1965年から73年までのV9時代を想い出す。この時代は、日本の高度成長期に当たり、今思うとすべてが右肩上がりだった気がする。大相撲は横綱大鵬の全盛時代であった。(1961年―71年)1964年には東京でオリンピックも開催されている。当時の流行語に”巨人 大鵬 タマゴ焼き”というのがあった。日本人のだれでもが野球というと巨人、相撲といえば大鵬というほど、卵焼きのように一般的だったという意か。

この時代、僕も30歳の働きざかり、よく仕事もしたがよく遊んだ。でも考えてみると、まだ貧しい時代でもあった。サラリーマンは、せいぜい安酒場で安酒を飲んで上役の悪口をいって”鬱憤”をさらし、煙草の煙のもうもうとした麻雀店の中で、千点30円?ぐらいの賭け麻雀をしていたぐらいだ。海外旅行どころか国内旅行も、ほとんど出来なかった。グルメという言葉もまだなく、50円の中華ソバの時代であった。

巨人軍の連勝が何年続くのだろうか。横綱白鵬の強さは大鵬に迫るものがある。2020年には東京オリンピックの開催も決まった。が、“巨人 白鵬 タマゴ焼き”という声はあまり聞かない。


”お化けすすき”と秋

2013-09-23 06:42:40 | Weblog
”暑さ寒さも彼岸まで”というが、今年の東京はどうなっているのか。昨日近所の大学跡の公園を散策したら”お化けすすき”のパンパス.グラスが、すでに盛りをすぎていた。風の音にも秋は感ぜられないが、パンパス.グラスの穂先の行く雲は秋の雲であった。

"杖をつかず自分の足で歩こう”

2013-09-23 05:36:56 | Weblog
左膝の痛みの治療で近所の整骨院に通院してから5日、心なしか歩行が楽になった。整骨院での治療は痛い左膝だけではな、背中から腰、両足にかけてのマッサージ、それによく解からないが、弱い電流を身体に通して、反応のあった部分に一種の絆創膏を張る療法だが、今まで杖をついて歩いていたのが、なしでも歩行できるようになった。

整骨師の指導は杖は安全のためにもってはよいが、出来るだけ杖に頼らず歩いたほうがよいという。杖をついて歩くと、どうしても姿勢が悪くなり、膝にも悪いという。昨日たまたまだが、NHKテレビの”さきどり”という番組をみていたら”もう一度自分の足で歩こう”という特集をしていた。足腰の悪い60歳代の女性が、もう自分の足だけでは歩けないと諦めていたのだが、理学療法師の指導で”足育”(足の指の運動)をした結果、杖なしで歩行が可能になった。

僕が受けている治療も足の裏と指を毎回チェックする。僕は当初膝の痛みが、マッサージによって多少なりとも治ればと思っていたが、治療によっては、杖なしでも歩行できるのも夢ではないと思うようになってきた。整骨院の治療を受ける前、僕は1か月に1回、整形外科病院で膝に注射をしたり、痛み止めのに塗り薬を貰っていたが、一向に良くならなかった。

整骨院の治療は健康保険の対象外のようである。これに対して整形外科の治療は健康保険が適用されていて、病院は政府から高額な医療費を受け取っている。老人の一患者にすぎないが、医療の矛盾を感じる。

「水菓子」のお見舞い

2013-09-22 06:01:52 | Weblog
小ブログで知り合った神戸在住の「朱雀」さんから病気見舞いに果物の篭が冷蔵宅急便で贈られてきた。季節のブドウ、梨、リンゴ、ミカンなどが篭にいっぱい。「朱雀」さんはインドネシア郷土義勇軍(PETA)の研究者で、先日訪イのさいメールを通じて若干便宜のお手伝いをしたにすぎないのに、義理がたい。早速おいしく頂戴した。

子供だった戦前昭和の頃は、病気見舞いは今より身近なようだった気がする。僕も何回か親類のお年寄りの見舞に病院へ出かけた記憶がある。その時の見舞品の定番が果物篭であった。当時東京では果物のことを「水菓子」と呼んでいた大人が多かった。大きな病院の前には見舞いの果物を専門にする「水菓子屋」さんまであった。「水菓子」の篭には当時高級品であったバナナやパインアップルの缶詰が入っていた。

僕の一人きりの兄弟であった姉が昭和19年5月、肺結核で21歳で早逝しているが、戦争の真っ最中で「水菓子」どころではなかった。お見舞いには、もっぱら生タマゴであった。紙箱の中にモミガラがひかれ、その間に生タマゴが大事そうに10個ほど入っていた。薬石効なく姉は病床についてから5か月で、この世を去った。

「水菓子」というと、今では和菓子の水羊羹とか葛餅類を指す場合もあるという。しかし、古い東京の人間の僕にとっては、果物よりは「水菓子」といったほうが響きがよい。「朱雀」さんから贈られてきた「水菓子」の中には、まだ僕が味わったこともなかった、美味しい国産の新種の洋梨もあった。有り難い幸せな時代である。生タマゴで栄養をとりながら死んでいった姉を偲び、折からお彼岸の仏壇にお見舞い「の水菓子」をおすそ分けして奉げた。