「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              関東大震災と津波の被害

2012-08-31 05:35:53 | Weblog
M9クラスの南海トラフ巨大地震が発生すると最悪の場合32万人以上の犠牲者が出ると国の有識者会議が推定している。このうちの7割にあたる23万人は津波によるものだという。”数年以内に富士山が大爆発する”といった週刊誌の見出し的な予測とは違う。一瞬、僕は何故この時期にこんな発表をするのだろうかと思った。が、考えてみたら、明日9月1日は89年前、関東大震災が起きた日で「防災記念日」であったのだ。

僕が子供だった戦前昭和に時代には、大震災の体験者が周囲に沢山いて、毎年この時期になるとその話を語ったものだ。わが家にも「大震災画報」や震災後の大火災で焼けこがれた一銭銅貨などがあって子供心に震災の怖さを感じた。後年調べてみると、地震の規模はM7で、昨年の東日本大震災のM9に比べれば小さいが、犠牲者は10倍に近い10万人も出ている。そして犠牲者の大半は地震直後発生した火災による犠牲者だった。

昨年の東日本大震災の場合はほとんどが津波による犠牲者であった。テレビ画面の強烈な印象が残っている。しかし、関東大震災の場合は本所被服廠地内の焼死体の山が最も印象的であった。津波の被害はどうなったのであろうか。「大震災画報」に載っていたのであろうか。何故か僕は当時著名な英文学者であった厨川白村氏が鎌倉の海で津波にのまれて亡くなられたことは知っていた。しかし、そのほかの津波の被害がどうだったのか知らない。

南海トラフ巨大地震が起きると津波による死者が7割だとの予測を読み、改めて関東大震災時の津波を調べてみたら、やはり地震直後に発生していた。wikepediaによると、鎌倉由比ヶ浜では300人が行方不明になっている。しかし、東京の下町の大火災による被害があまりにも大きかったためか、各地を襲った津波の高ささえはっきりしていない。89年まえに比べて東京、横浜などの大都会の構造は著しく変化してきている。地下鉄、地下街などはどうなのか。「防災の日」を前に心配になってきた。

       恥知らずの野田対中外交 なぜ抗議しないのか

2012-08-30 05:53:04 | Weblog
野田佳彦内閣に対する問責決議案が昨日参院本会議で可決された。これで野田内閣が退陣するわけではないが、終末期に近ずいたのは確かだ。このところの「尖閣」「竹島」問題をめぐる外交だけをとっても十分問責に値する。史上まれにみる軟弱外交である。一国の大使が襲撃され、国旗が強奪されたのに、なぜ抗議をしないのか。国家としての恥を忘れてしまったのか。

北京駐在の丹羽宇一郎全権大使の乗った公用車が先日、路上で襲撃を受け、車についていた日の丸が強奪された。前代未聞の事件だが,当の大使は”きわめて遺憾である”と言っているだけで正式に抗議したという報道はない。中国政府の公式な謝罪もな。野田総理は事件後外務副大臣に新書をもたせて尖閣問題を沈静化しようと呼びかけたそうだが、政府として抗議していない。

野田総理や丹羽大使は長崎の国旗事件を知らないか、忘れてしまったに違いない。昭和33年(1958年)長崎市のデパートで開催中の日中友好協会主催のイベント会場で、日本の青年が天井から吊るされていた中国の国旗を引きずり下ろし毀損した事件である。当時わが国と中国との間には正式な国交はなく、政府は犯人の青年を微罪で釈放した。しかし、中国の陳毅副総理.外交部長は猛然と抗議し、対日貿易を2年半にわたって中止する擧にでた。

テレビの画面で丹羽大使と中日友好協会会長の唐家旋(王偏)とのシンボジュームでの対談をみた。唐家旋会長は今回の事件について謝罪していたが、今は政府の関係者ではない。一方、丹羽大使は、日本の全権を担う大使である。事件直後のこの時期、問題が解決していないのに、この種の会に顔を出すのは不見識ではないのだろうか。それとも野田親書でこれで事件の幕を引けと提案したのだろうか。”国民が幸せになれば日本は中国の属国になってもよい”と言ったという丹羽大使である。国旗は国のシンボルである。すこし恥をしったらどうか。

          "性奴隷”ではなかった”従軍慰安婦”

2012-08-29 05:59:56 | Weblog
李明博韓国大統領の竹島上陸の原因は日の慰安婦問題についての責任のなさからきている、と発言したことから、改めて日本では「河野談話」問題が再燃している。口の悪い石原慎太郎都知事の言葉を借りれば“訳も解らずに慰安婦募集の強制を認めた河野洋平という男は大馬鹿者で、日韓関係を悪化させた責任者である”。

1993年、宮沢内閣の官房長官であった河野洋平氏は将来に禍根を残す”お詫びの談話”を発表した。しかし、この談話は事実を確証しておらず、当時の朝日新聞の誤報を鵜呑みにしたというのが、今では僕らの一般的な認識となっている。韓国側で、慰安婦問題を追及している団体は”挺身隊”という名称を使用しているが、これはそのまま売春が民間業者(女衒)の手で行われていた証拠である。当時”挺身隊”とは僕ら学徒が工場などへ動員されたときに使われていた言葉であり、業者はこれを慰安婦募集のさいに借用したにすぎない。

  
最近、戦時中インド洋方面の最前線で海の守りについていた海軍第九根拠地隊(司令部サバン)の戦友会誌を読む機会があった。その最終号の中に敗戦後の混乱期にサバンにいた慰安婦数十人を引率して女性たちが派遣されてきた地、マレーのペナンへ送り返したときの集合写真と記事が載っていた。今いう”性奴隷”でもなんでもない。売春を商売にしていた華僑の女性たちである。

「河野談話」を受けて当時の政府は1995年「アジアの女性のための基金」を”お詫びと償い”の気持ちをもって発足させた。結果はどうだったであろうか。韓国では慰安婦と名乗っていた約200人の女性のうち、見舞金を受け取ったのは僅か7人にすぎない。一体全体「河野談話」とはなんだったのだろうか。自民党の中で進歩的文化人を自称していた河野氏が、進歩的文化人の愛読紙朝日新聞の誤報に踊らされたのが、この結果である。>

           民主党議員には定年制はないのか?

2012-08-28 05:27:39 | Weblog
野田佳彦総理が約束した”近いうちに”の衆院解散が、本当に”近いうちに”なってきたのだろうか。新聞に次期選挙に立候補が予想される政治家の名前が例によって例のごとく当落の寸評とともに載っていた。自民党の森喜朗元首相から”半身不随の役たらず”と酷評された民主党の最高顧問の一人、羽田孜元首相の名前はさすがに見当たらなかったが、政治生命はもう期限切れと思われる人たちも何人か名前があった。

立候補が予想される民主党議員の中で、僕が意外に思ったのは比例代表区の中に82歳を筆頭に74歳以上の人が4人もいることである。渡部恒三氏のように選挙区からの出馬なら理解できるが、任期中に後期高齢者を迎える年寄りがなぜこんなに多いのだろうか。自民党は2003年、小泉政権の時。比例代表区の立候補年齢を73歳に制限した。この結果、中曽根元首相や宮沢元首相はは出馬を断念した。

肉体年齢だけで、その人の精神年齢は一概に言えないが、国会にやっと杖をついてこられるようでは痛ましい。それに一般社会では、今なお60歳定年制の会社が多い。政治家といえども後進に道を譲るべきである。それに任期中に亡くなられる高齢者議員も何人かいる。議員の職はいろいろと激務のように見受けられる。議員になるために身体検査が課せられているかどうか寡聞にしてしらないが、出来たら当選したらメディカル.チェックをすべきだと思うが、どうだろうか。

               韓流ブームの崩壊

2012-08-27 05:14:37 | Weblog
円高ドル安ユーロ安で海外への観光業界は受けに入っているようだ。昨日の読売新聞を見ると一、二面を通じた全面広告欄と一面全面広告それにさらに四段広告と三面も海外観光広告欄があった。でも、さすがにブームだという韓国観光は小さな囲みが一つあっただけだ。観光業界は敏感のようだ。李明博大統領の竹島上陸以来の韓国の反日言動を見れば、普通の日本人なら韓国旅行など行きたくなくなる。

韓国への日本からの観光客は2009年以来の円高ウオン安の追い風に加えて”中年おばちゃん”たちの韓流ブームの再来と、美容整形ブームもあって年間300万人を超えている。今年8月のお盆の時でも昨年比、7万8千人も増加している。韓国の観光業界は政治と観光とは別だといっているが、果たしてそうだろうか。天皇陛下にまで土下座して謝れという国に、わざわざ出かけてゆくだろうか。

観光業界に比べて日本のテレビ業界は鈍感である。8月15日、韓国本土から竹島リレーで泳いで渡った韓流スターの出演する番組は放映中止措置をとったそうだが、依然韓流番組が多すぎる。地上BS番組のうち常時どこかのチャンネルで”韓流”番組を放送している。昨日も済州島への豪華船での観光紹介をやっていたが、しらけて、とても見るにたえない。

戦前、日本人はキムチを食べなかった。焼肉などの韓国料理が一般の日本人の間で食べられるようになったのは昭和30年代後半からではなかっただろうか。首都圏でいえば、上野御徒町か川崎の朝鮮人街の食堂しか食べられなかった。その時代から、僕は韓国料理好きだが、今回の騒ぎで、わざわざ食べる気がしなくなった。昔は韓国料理といえば、安くて量も多かったが、最近はそうでもなくなった。ここ数年、日本の社会に根づいてきた韓流ブームも一政治家の無思慮の言動で、元の木阿弥、崩壊してしまった。

       戦後「第三国人」が跋扈(ばっこ)していたあの時代

2012-08-26 06:08:52 | Weblog
数年前だったか石原慎太郎東京都知事が議会の答弁で「第三国人」という言葉を使用して若い世代から”差別用語”だと批判された。GHQ(連合軍司令部)が旧日本の領土であった朝鮮半島、台湾の人たちを一般の外国人と便宜的に区別して使用した言葉であって差別用語ではない。が、僕らの記憶の中には戦後この「第三国人」が、日本の社会の中で跋扈して迷惑をかけていた暗い思い出がある。

李明博韓国大統領が竹島に上陸したのきっかけに日韓関係がギクシャクし始めたが、僕はすっかり忘れかけていた戦後すぐの「第三国人」が跋扈していたあの時代が思い浮かんできた。昭和21年1月、東京の富坂警察署に数十人の在日朝鮮人が押し掛け、連続強盗事件で収監中の容疑者を連れ戻そうとした事件があった。同じ年の7月には、渋谷警察にトラックで在日台湾人がやってきて警察との間に武力衝突事件まで発生している。東京の新橋、新宿、上野などの駅前の闇市はヤクザと「第三国人」に支配されていた。

鳩山由紀夫元総理の祖父の一郎氏(のちに総理)も、この時代静養先の軽井沢から信越線に乗って帰京のさい、無賃乗車で乗り込んできた「第三国人」を注意したところ、数人から袋叩きにあったという。僕の遠縁で植民地時代、総督府に勤務していた老人も「第三国人」の余りの無法さに注意してやはり頭を殴られている。昭和28年、僕は初任地長野で警察回りをしていたが、この頃でも闇物資の押収事件などの後には「第三国人」が抗議にやってきたのを覚えている。

韓国の李承晩初代大統領が国際法に反して自国の水産資源を守る目的で”李承晩ライン”を設定したのは昭和27年(1952年)であり、このライン領域にあるとして、竹島に灯台をつくり沿岸警備隊を置き実効支配を始めたのは「第三国人」が、日本国内でも跋扈していた時代と前後している。

              敗戦の年の処暑の頃

2012-08-25 05:50:50 | Weblog
このところ連日猛暑日が続く。暦の上では処暑は過ぎているのだが、暑さは収まるどころか、増している感じさえする。年寄りは熱中症にかからないよう家の中で水を飲み、じっとしているほかない。しかし、緊急の用事で外出したら、舗装した道路の上で油蝉が体を動かさず死んでいた。世に出てまもない小さな蝉みたいだ。蝉もこの暑さに耐えられないのだろうか。

処暑の頃は台風がやってくるシーズンでもある。調べてみたら昨年を含めて過去10年に5回も本土に襲来している。敗戦の年、昭和20年もそうだった。亡父の日記によると、処暑の23日、ラジオの天気予報が復活したのに、台風で停電し肝心のラジオが聞けなかったとある。僕らの中学校(旧制)が再開したのは、敗戦から13日もたった28日からであった。空襲で残ったコンクリートの3階建て校舎の窓ガラスは全部壊され、臨時に板が張り付けられた中での授業だった。一階の軒下には被災家族が住んでいた。

父の日記には毎日「倦怠」の字が記されている。栄養不足だったのだ。18貫(67.5㌔)あった体重が12.5貫(46.8㌔)にも減っていた。母親は週に2回も電車に乗って多摩川を越え、元住吉の農家へ買い出しに出かけていた。しかし、一方では日記には、市民たちの防空頭巾にゲートル姿は消え、カーキ色の国防色も少なくなったとある。

連合軍の日本進駐(父は”侵駐”という字を使っている)も当初26日に予定されていたのが、台風で2日で延期されている。戦争は終わったのに東京の上空にはまだ、米国の飛行機が低空で飛行していたのを覚えている。67年も前のことだが、あの年は異常な年だけに特に記憶にある。

         在日からの政治献金と民主党の軟弱外交

2012-08-24 05:53:27 | Weblog
野田佳彦総理が韓国の李明博大統領に送った親書が送り返されてきた、それも在日大使館員が外務省へ手渡しという礼を逸したな方法によってである。外交儀礼上これ以上ありえない傲慢無礼なやり方である。昨日の衆院本会議の領土問題に関する集中審議をテレビで見たが、野田総理を初め民主党の閣僚は口でこそ”毅然と冷静に”と言っているが、当惑の色は隠せない。何が原因しているのか。

素人の”床屋談義”的発想だが、僕は民主党幹部議員が在日韓国人から政治献金を貰っていたツケが回ってきたのではないかとみている。思い出すのは昨年3月11日大震災が発生した日、国会では菅総理(当時)の在日韓国人からの政治献金問題を審議していた。その数か月前には前原外務大臣が同じ問題で職を辞している。野田総理もやはり在日から政治資金を貰っていたが、少額だったのか、すぐ返したのかで責任は追求されなかった。防衛政務官の下條みつ氏も在日韓国人の団体から資金を得ていたという報道もある。

これでは李明博大統領が傲慢無礼な擧にでるのも、むべなるかなだ。民主党が掲げている在日外国人の地方参政権問題もこれにからんでいるようにも僕はみえる。俗っぽい言い方をすれば、参政権をエサに在日からカネを巻き上げておいて、一向に進展しない。民主党常套の政権公約破りはこんなところにも影響しているのだろうか。

120年前に作られた「元寇の歌」(作詞作曲 永井建子)がある。戦争中僕も声をからして、この歌を歌った。  # 四百余州を挙る 十万余騎の敵 国難ここにある 弘安四年夏の頃
       なんら怖れん われに鎌倉男子あり 正義武断の名 一喝して世に示せ
武断は困るが、正義の名で一喝するぐらいの意気込みは示して欲しい。それには民主党はエリを正すべきである。






              橋下大阪市長と近現代史

2012-08-23 05:22:50 | Weblog
橋下徹大阪市長は日本の近現代史をきちんと子供たちに教えるべきだと主張している。おそらくこれは自分の体験からもそう感じたのであろう。改めて橋下市長の年齢を調べてみたら1969年(昭和44年)生まれの若さである。自分個人のことで恐縮だが、僕は1953年から69年まで新聞社に勤務していた。橋下市長が出生した年に僕は民放に転勤している。言ってみれば、近現代史の一部を記者として直接取材してきたわけだが、最近、若い世代の中には、この時代ですら知らない人が出てきた。まさに感無量だ。

その橋下市長が”慰安婦の強制連行などなかった。あるなら証拠を示せ”と韓国に論戦を迫った。その通りである。日本の近現代史のどこを紐解いても女性を強制連行して”性奴隷”にしたという事実はない。あるのは昔から公認の売春制度である。戦時中の韓国だけが例外として存在したということはない。

李明博韓国大統領が先日、日本の領土である竹島に上陸した。韓国は自分の領土と主張しているが、その根拠の一つは「李承晩ライン」にある。昭和27年、韓国初代の李承晩大統領は国際法を無視して自国の水産資源の保護するため一方的に”李ライン”の水域を設定した。竹島はこのライン内にあり、その直後李大統領は竹島に灯台をつくり実効支配を始めた。昭和40年、日韓基本条約が締結されるまでの13年間に3,992人の日本人漁夫がライン内に入ったとして逮捕され抑留されている。記者時代なので僕ははっきりと、このことを覚えているが、近現代史は学校でこのこおを教えているのだろうか。

戦後生まれの日本人が自分の国の近現代史を知らない一つの原因は、学校での歴史教育で近現代史が三学期の最後に扱われ、教師の中には戦争という難しい問題があるため、時間がないのを理由に教えないからだという指摘がある。領土問題など、相手国と渡り合うときは大変不幸である。

          女性ジャーナリストの死に思う

2012-08-22 06:36:50 | Weblog
シリアの内戦の銃撃戦に巻き込まれ亡くなられらた「ジャパン.プレス」所属のジャナーリスト、山本美香さん(45)が撮った最後の映像をネットで見た。一緒の取材クルーが撮った事件に遭遇される前の山本さんの元気な姿も映っており痛ましい。山本さんは2003年イラク戦争の時も、取材中の部屋の隣室が砲撃され九死に一生の体験をされており、その時の取材で、日本のジャーナリストには最高の勲章である「上田.ボーン賞」の特別賞を受賞している。

戦争中は従軍記者として僕らの先輩が、戦争の最前線を取材中沢山の方が亡くなっている。しかし、戦後は大手メディの新聞社やテレビ局に所属している記者が戦争の取材で死んだケースはない。僕の知る限りでは、亡くなった日本人のジャーナリストは、1970年ベトナム戦争の取材で亡くなった澤田教一さんもUPIのカメラマンであり、2007年ミャンマーの軍事政権抗議デモを取材中、銃撃され死亡した長井健司さんもフリーのカメラマンであった。

僕は戦争の取材をしたことはないが、死と向かい合っている取材だけに神経的に大変なようだ。ベトナム戦争中サイゴン(ホーチミン市)に駐在していた、わが社の二人の特派員は、僕より若いのに、すでにこの世にない。しかし、ジャーナリストして戦争取材は”記者魂”をかきたてるものはないようだ。45年前、夜間外出禁止令下のジャカルタで取材活動をしたことがあるが、戦塵の中で危険を忘れて、ついついつき走ってしまう気持ちはよく理解できる。しかし人間も終末期になると、やはり生命が第一だと思うようになる。山本美香さん安らかに永眠を。