入院中(11月7日から21日)の半月間、僕の日常生活は一変した。その第一はパソコンには全く手を触れず無縁の毎日であった。情報は病院備え付けの有料カードによるテレビと家から持ち込んんだラジオだけ、新聞も一切読まなかった。ブログの更新をするわけでもなく、ただただ閑な時間は、普段家では読めなかった古典の再読にあてた。
僕の病室は6階の4人部屋で、ベッドは窓側にあった。起床時間は午前6時だったがまだ暗く、30分ほどして東南の方角が朝焼けし、東京湾の方向から太陽が昇ってくるのが見えた。長年東京に住んでいても、普段は東西南北の方向感は全くないが、ここでは天気が良いと西の方角には丹沢連山が遠望でき、富士の霊山さえ拝めることもできた。
病院の正式名は「独立法人国立病院機構東京医療センター」というが、戦前までは旧海軍の病院であった。戦後すぐの昭和21年、僕は蓄膿症の手術をこの病院で受けているが、その当時は昔の海軍病院のままで、広い敷地の中に一階建ての病棟が点々としてあったのを憶えている。病院の周辺は、もともと東京で初めてのゴルフコースがあったところで、戦後すぐの時代までクラブハウスの建物があり、引揚者住宅に使われていた。
昭和39年の東京五輪の際には、ここはバレーボールなどの会場になり”東洋の魔女”が大活躍した。今、会場跡は都立五輪駒沢公園となり都民の憩いの場となり、連日公園内は市民ランナーで賑わっている。東京ゴルフ倶楽部時代には、近くの東急東横線自由が丘駅からキャデイさんを運ぶバスが出ていたそうだが、いまは病院の患者や見舞客用の小型バスが出ている。やはりここでも時代の推移を感じさせる。
僕の病室は6階の4人部屋で、ベッドは窓側にあった。起床時間は午前6時だったがまだ暗く、30分ほどして東南の方角が朝焼けし、東京湾の方向から太陽が昇ってくるのが見えた。長年東京に住んでいても、普段は東西南北の方向感は全くないが、ここでは天気が良いと西の方角には丹沢連山が遠望でき、富士の霊山さえ拝めることもできた。
病院の正式名は「独立法人国立病院機構東京医療センター」というが、戦前までは旧海軍の病院であった。戦後すぐの昭和21年、僕は蓄膿症の手術をこの病院で受けているが、その当時は昔の海軍病院のままで、広い敷地の中に一階建ての病棟が点々としてあったのを憶えている。病院の周辺は、もともと東京で初めてのゴルフコースがあったところで、戦後すぐの時代までクラブハウスの建物があり、引揚者住宅に使われていた。
昭和39年の東京五輪の際には、ここはバレーボールなどの会場になり”東洋の魔女”が大活躍した。今、会場跡は都立五輪駒沢公園となり都民の憩いの場となり、連日公園内は市民ランナーで賑わっている。東京ゴルフ倶楽部時代には、近くの東急東横線自由が丘駅からキャデイさんを運ぶバスが出ていたそうだが、いまは病院の患者や見舞客用の小型バスが出ている。やはりここでも時代の推移を感じさせる。