鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

南蛮みやげ!仙台市博物館(仙台城・其之弐)

2012-12-13 | 美術館・博物館
2 0 1 2 年 3 月 3 0 日 ( 月 )

午 後 3 時 2 9 分

仙 台 市 博 物 館





仙台城本丸から、仙台市博物館の敷地に入った。



林子平のレリーフ。
子平は仙台藩の学者で、『海国兵談』を著し、当時の江戸幕府の海洋政策を批判した。



魯迅の胸像は、中国・紹興市より送られたもの。

魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学し、医学を学んでいた。
帰国すると、中国人の精神を改造すべく執筆活動を始めたのは周知のとおり。


博物館の裏庭から館内へ。

大学時代には一歩も足を踏み入れることのなかった私が、大学卒業後10年目にして初めて入館する。
入館料は、大人400円。

コンテンツは、仙台の歴史、伊達家の歴史、そして慶長遣欧使節の展示がメインとなっている。




伊達政宗画像の複製。
原画は、当時きっての絵師・狩野安信による。

この絵もそうだが、政宗の画像や彫像には本来失われているはずの右目があえて入れられている。
これは政宗の遺言によるもので、身体の一部を失ったことは親不孝になるから、せめて像を描く際は両目を入れるよう願ったという。
別の話では、現世では失明で世の半分しか見えなかったので、死後は世が完全に見られるように、像には両目を入れるように願ったともいう。




黒漆塗五枚胴具足(伊達政宗所用)【国指定重要文化財】!!

・・・のレプリカ。はぁ。
まあ、ホンモノをそう簡単には表に置かないよな~。

手持ちの「展覧会案内」なるパンフを見たところ、
「展示期間 4月10日~5月27日、・・・」とあるではないか!
またまた時期外しである。




和歌詠草「入そめて」(伊達政宗筆)【仙台市指定文化財】。
伊達政宗が居城を岩出山から千代(仙台)に移したときに詠んだ。

入りそめて 国ゆたかなる みきりとや
ちよとかきらし せんたいのまつ

「たった千代とは短い! もっと永遠にこの地が続くように」。
そして「千台」を「仙臺(仙台)」に改称する。

仙臺 始めて見る 五城楼
風物 凄凄として 宿雨収まる
山色 遙かに連なる 秦樹の晩
砧声 近く報ず 漢宮の秋
疎松 影落ちて 空壇浄く
細草 春香ぐはしくして 小洞幽かなり
何ぞ用いん 別に方外を尋ねて去るを
人間 亦た自ら丹丘有り
韓コウ 「同じく仙遊観に題す」


「仙臺」とは、皇帝の支配を拒んだ仙人たちが住んでいたとされる伝説上の宮殿であった。
政宗があえてこの名称を用いた裏には、「俺は家康なんかには屈しない!」という気概が見える。



博物館のメインコーナーのひとつ、慶長遣欧使節の展示。


伊達政宗は、幕府の許可を得て、家臣の支倉常長らをスペインに派遣した。
これが慶長遣欧使節である。

常長は、宣教師のソテロらを伴い、月ノ浦(石巻市)より出帆。
太平洋を横断し、メキシコのアカプルコへ到達。

次いで船を乗り換えて大西洋を横断。
日本人で初めて太平洋・大西洋を横断したことになる。

常長はスペイン国王フェリペ3世に謁見。
太平洋貿易のための通商交渉に臨んだ。
一説には、スペイン海軍の出動を要請し、倒幕を企てたともいわれる。

常長はスペインで洗礼を受け、キリシタンとなった。
そして、カトリックの総本山であるローマを訪問し、ローマ市民権の付与を受けた。
また、ローマ教皇パウルス5世に謁見した。

常長の出帆後、幕府はキリスト教を禁教とし、キリシタンを弾圧した。
そのため、スペインとの外交交渉は成功しなかった。

再び大西洋、太平洋を横断し、マニラ経由で仙台へ戻った。

常長は帰国から2年後に死去したという。




支倉常長像【国宝】は、日本人を描いた油絵としては最古のものになるという。



帰国後、常長が政宗に献上した短刀【国宝】。
フィリピンで入手したものとされるが、スペイン王家から贈られたものとも。



常長がローマで授与されたローマ市民権証書【国宝】。
「支倉」が "Faxikura" と表記されており、当時は「ハ行」を「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」と発声したという根拠ともなっている。


閉館時間が午後4時30分なので、いそいそと館内をめぐった。

ミュージアムショップで、



水玉模様陣羽織(伊達政宗所用)【仙台市指定文化財】をモチーフにしたハンカチを買い、博物館を出た。



日輪は、沈む前に博物館の頭上でいちだんと輝く。



博物館から東北大学へ行く道は、かつて大手門があった。



現在は旧大手門櫓【復元】のみが建つ。



日暮れとともに、仙台城を辞した。