国府多賀城駅の西口からスタート。
多賀城の政庁をモチーフとした時計は、午前8時06分を指していた。
駅前から歩くと(といっても何にもないが・・・)すぐに史跡に到着。
館前遺跡【国指定特別史跡】は、陸奥国の国司の居館跡とされる。
多賀城に付随する施設と考えられたため、特別史跡に追加指定された。
でも・・・ただの空き地っぽい。
早々に館前遺跡を後にする。
国府多賀城駅から多賀城跡までのアクセスは、
このような立て看板がいい具合に据え付けてあるので、これに従えば問題なくたどり着くことができる。
なかには「こんなところを通っていいのか・・・?」って疑ってしまうようなところもある。
急こしらえの青い立て看板にしたがって歩いた。
多賀城碑【国指定重要文化財】。
多賀城の概要と、多賀城設置と修築のいきさつが刻まれている。
この碑が立てられたのは、762年(天平宝字6年)12月1日。
多賀城は、亰より1500里、蝦夷国界より120里、常陸国界より412里、下野国界より274里。
西の靺鞨国(渤海国。満州地方に勃興した国)の界より3000里のところにある。
(※奈良時代の1里は、約535メートル)
724年(神亀元年)、
762年(天平宝字6年)、参議にして東海東山節度使、官位は従四位上、任部省卿にして按察使、鎮守府将軍である藤原恵美
~多賀城碑より~
多賀城は北における中央政府の一大拠点となり、坂上田村麻呂による蝦夷征伐もここが拠点となった。
蝦夷討伐により、前線は
その間、地震もあり多賀城は次第に放棄されていくが、平安時代後期の前九年の役、後三年の役の戦乱においては、再び軍事拠点として用いられた。
後醍醐天皇による建武の新政においても、陸奥将軍府が置かれた。
多賀城碑は江戸時代前期に発見されたもので、一説には坂上田村麻呂が矢じりで刻んだ「壺の
「壺の碑」は、和歌でたびたび歌枕として用いられた。
『おくのほそ道』は、多賀城碑が「壺の碑」であるととらえている。
そして、歌枕として名高い「壺の碑」や「末の松山」を見られて感銘を受けた、と結ぶ。
つぼの石ぶみは高サ六尺余、横三尺計歟 。
苔穿て文字幽也。四維 国堺之数里をしるす。
……むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰 に至りて疑なき千載の記念 、今眼前に古人の心を閲 す。
行脚の一徳、存命の悦び、羇旅 の労をわすれて、泪も落るばかり也。
多賀城碑から北を見やると、なだらかな坂が続く。
まだ朝だからなのか、歩くのは私とひとりの老人のみ。
多賀城の政庁へと続く道路が復元されている。
坂を上りきると、南門跡を表す礎石へ。
かたわらの案内レリーフより。
かつての多賀城は、このような四方を回廊で囲まれた役所であったという。
南門跡から進んで、石敷広場跡。
多賀城の中央部、政庁跡。
征夷大将軍・坂上田村麻呂、「八幡太郎」源義家らの名将がここで作戦を練ったのであろうか。
「後村上天皇御坐之處」と刻まれた石碑。
後醍醐天皇の皇子であった
南北朝の争乱が起こると、鎮守府将軍・北畠
政庁から見下ろすと・・・
政庁から続く道路、その先には工業団地がかすかに見えた。
駅には戻ったが、ここに及んで100名城スタンプをもらっていない。
100名城スタンプは、駅にある観光案内所でもらえると確認しているが・・・
駅員さんに尋ねたが、案内所は9時30分にならないと開かないらしい。
案内所が開く間に、次の列車は行ってしまう。
しかしスタンプなしで去るのは避けたい。
その次の列車の発車時刻は、9時56分。
30分程度ならばさほどの影響はあるまい。
それに、この駅前には店が全くないから、食事もできない・・・。
ということで、観光案内所が開業するまで、多賀城の史跡をもう少し見て回ることにした。