鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

散策・松島海岸

2012-12-26 | 公園・庭園

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 5 時 2 4 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

松 島 海 岸



瑞巌寺をわずか5分で出た。
潮の香りが漂う寺前町の商店街を抜けると、眼前に広がる松島湾。





松島のシンボル・五大堂が見えてきた。

行ってみると係員とおぼしきおっちゃんが、橋を封鎖しようとしている!
無理を承知で頼んでみたら、少しだけなら待ってくれるという。
ただし「歩みを止めないこと」という条件?が課された。
そのため、五大堂の画像はいささか斜めに傾いている。

807年(大同2年)坂上田村麻呂が、奥州遠征の際に毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。
その後、慈覚大師・円仁が瑞巌寺の前身・延福寺を創建した際に仏堂を建立し、五体の明王像(五大明王像)を安置したため「五大堂」と呼ばれるようになった。
現在の堂は、1604年(慶長9年)伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建した。
東北地方最古の桃山建築という。




五大堂の建つ小島へ続くすかし橋
橋げたから海が見えるのは、足元をあえておぼつかなくして参詣者の気を引き締めるためという。





日輪に輝く五大堂【国指定重要文化財】。



軒の欄干に十二支が彫られている。
五大堂は正方形の4面構造なので、各方位に3匹ずつ。



五大堂からの松島湾。
ゆっくり見たかったけど、おっちゃんが「足止めるな~」ていうもんだから、早々に退散・・・。




午 後 5 時 4 5 分

遊 覧 船 の り ば




観光客はすっかり消え、かもめが羽を休める遊覧船のりば。



振り返ると「松島城」がそびえ立つ。
旅館の展望室らしい。




(そもそも)ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、(およそ)洞庭西湖を(はぢ)ず。
(よくいわれることだが、松島は日本第一の景色で、中国の洞庭湖や西湖に比べてもまったく遜色はないだろう)
東南より海を入て、江の中三里、浙江(せっこう)(うしお)をたゝふ。
(東南より海が入り込み、入り江は三里ほど、中国の浙江のように潮が満ちて美しい)




嶋嶋の数を尽して、(そばだつ)ものは天を指、ふすものは波に葡蔔(はらばふ)
(島は数えきれないほどあり、伸びるものは天に向かってそびえ立ち、平らかなものは波間に腹ばいになっているかのようだ)
あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。
(二重三重に重なってみえているものもあれば、左の島に離れながらも右の島に連なってみえるものもある)
(おえ)るあり(いだけ)るあり、児孫愛すがごとし。
(人を背負っているようなものもあれば、抱っこしているようなものもあり、子供をあやしているような感じさえする)




松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。
(松は緑濃く、枝葉は潮風を受けてすっかり曲がってしまっているが、その曲がりようはまるで自分から曲がっていったかのように、美しく屈曲している)
其気色えん然として美人の(かんばせ)(よそほ)ふ。
(その松の木の景色の思わせぶりなことは、ちょうど美しい女性が化粧をした時の顔のようだ)




ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。
(神々のおわす大昔、山岳の神である大山祗(おおやまずみ)の神がお造りになったのであろうか)
造化の天工、いづれの人か筆をふるひ(ことば)を尽さむ。
(そうした神々の業であるこの景色の美しさを、誰が言葉で表すことができるだろうか)





できるだけ瑞巌寺

2012-12-26 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 5 時 1 9 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

青 龍 山 瑞 巌 寺



「松島の月が見たい!」と江戸を発った松尾芭蕉が立ち寄った瑞巌寺

十一日、瑞岩寺に詣。
当寺三十二世の昔、真壁の平四郎 出家して、入唐帰朝の後 開山す。
其後に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化に依て、七堂 (いらか)改りて、金壁荘厳 光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。




かくいう私は、瑞巌寺を詣でることはかなわなかった。



「四寺廻廊」のご朱印帳は、不自然なスペースひとつを残すこととなった。
御印は、右上が関山中尊寺、左上が宝珠山立石寺、左下が医王山毛越寺

瑞巌寺は、もとは「延福寺」といった。
828年(天長5年)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師・円仁が開山。
最初は天台宗の寺であった。

鎌倉時代、執権・北条時頼の命により、法身性西(俗名・真壁平四郎)を住職として臨済宗建長寺派となる。
このとき「延福寺」から「円福寺」に変わる。

戦国時代になると寺は困窮し、建長寺派から妙心寺派に変わる。
伊達政宗が領主となると、その師である虎哉宗乙のすすめで寺が復興。
このとき「瑞巌寺」となった。

政宗の死後招かれ住職となった雲居は、伊達家の保護のもと伽藍を整え、瑞巌寺は大いに隆盛した。


さてさて、瑞巌寺をできるだけ歩くとしよう。



杉並木の参道を出口に向かって歩く。
正規の参道はこのとおりまっすぐであるが、脇の参道に回ると・・・



石造りの仏像とともに、岩場を掘った洞穴が残る。
ここは仏法の修行の場であった。





石造りの仏像は、「西国三十三観音」各寺のご本尊を彫ったものである。




総門を出て、瑞巌寺はここまで。


※瑞巌寺の参道は、東日本大震災の津波による塩害で、杉並木の立枯れが目立ってきたため、2012年9月に大部分の杉が伐採されてしまいました。
※瑞巌寺は、2016年まで大修復中です。
 東日本大震災の被害による修復も行われているようです。