鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

驍将狙撃!山形城其之弐

2012-12-23 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 1 0 時 4 9 分

山 形 城 二 の 丸 東 大 手 門





二の丸東大手門【復元】から、いったん霞城公園を出た。





二の丸堀もかなりの規模を誇る。



二の丸堀に沿って桜が植えられている。
山形城は桜の名所としても知られる。




午 前 1 0 時 5 4 分

最 上 義 光 歴 史 館


霞城公園から徒歩5分ほどで、最上義光歴史館へ。



最上氏関連の資料を保管・展示し、最上義光と最上氏を顕彰することを目的とした博物館。
入館料は無料。

受付でさっそく・・・



10番、山形城!
絵柄は二の丸東大手門。

最上義光歴史館へ来た理由は、スタンプだけではない。


最上義光は出羽国の大名で、最上義守の嫡男。
妹は義姫(保春院)で、隣国米沢の大名・伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を産む。

家督を継ぐと、出羽の統一に乗り出す。
その過程で父や伊達と対立するが、これを乗り切り村山地方(山形盆地周辺)の領域を統一。
最上地方(新庄盆地周辺)を制し、庄内地方(庄内平野周辺)へ進出するが、庄内は越後の上杉景勝に先んじられる。

義光は調略を得意とし、敵の重臣を寝返らせて内紛を生じさせる策を多用した。
その謀将ぶりは、「出羽の驍将」と称される。

豊臣秀吉の政権下で、米沢の伊達政宗は陸奥国岩出山(宮城県北部)へ、上杉景勝は会津若松へ、上杉の陪臣・直江兼続は米沢へ移封となる。
庄内は依然として上杉領であり、最上領が上杉領を分断する格好になっていた。

1600年の関ヶ原の戦役では東軍につき、西軍に着いた上杉景勝を牽制する役を担う。
しかし、所領の状況から直江兼続率いる上杉軍は最上領へ攻め込む。(慶長出羽合戦
兵力では劣勢であったが、長谷堂城の戦いで防ぎ切った。
関ヶ原の戦後は庄内地方も所領に与えられ、出羽山形57万石の大名となった。

だが、最上家は一気に没落していく。
後を継いだ子・家親は若くして死亡、その後を継いだ孫・義俊の代でお家騒動が勃発。
義光の死後10年もたたず、最上家は改易となってしまった。




前話でも登場した最上義光公勇戦像
この像がかぶっている兜と、右手に握っている指揮棒が、歴史館に保存され展示されている。

兜は三十八間総覆輪筋兜(さんじゅうはちけんそうふくりんすじかぶと)【山形市指定文化財】。
最上義光愛用の兜で、織田信長より贈られたものという。
1600年の慶長出羽合戦で、義光は先陣を切って直江兼続の軍を追撃するが、直江勢の鉄砲隊に逆襲され狙撃されてしまう。
銃弾は左の額!!に飛んでいったが、この兜のおかげで助かった。
その時の弾痕が生々しく残っている

指揮棒は鉄製で重量は1,750グラム、刀の2倍ほどもある。
(長さは、銅像のものほどは長くないです)
義光は相当腕力のある人物だったといい、そういうエピソードも残っている。


はぁ~、撮影禁止&係員べったりのため画像はありません・・・。




午 前 1 1 時 4 1 分

ふ た た び 山 形 城 へ


城の北側に回る。
山形城もなかなかでかいのぅ。





北側では、民家のすぐ裏側が城の水濠(二の丸堀)になっている。





二の丸堀ぞいを歩いて、二の丸北不明門跡に着いた。
ここからもう一度霞城公園(二の丸)に入っていく。



西側の門、二の丸西不明門跡
石垣のならびが枡形を構成している。



二の丸沿いの土塁に上がり、西側を見る。


二の丸堀をほぼ一周し、スタート地点の二の丸南大手門跡へ。
山形城はここをゴールとして、城を出た。




驍将勇戦!山形城

2012-12-23 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 9 時 5 6 分

山 形 城 ・ 霞 城 公 園





山形のランドマーク・霞城セントラルの展望室からの山形城。

大きな水濠に囲まれた霞城公園は、山形城の二の丸にあたる。
内側にある空堀に囲まれた部分は本丸
霞城公園の外側は三の丸にあたり、現在は埋め立てられた外堀までの曲輪である。






霞城セントラルから最も近い南大手門跡から入城。
水濠からも、山形城の規模の大きさがわかる。
しかし石垣は一部に造成されているのみ。


山形城は、羽州探題・斯波兼頼により築城される。
のち、斯波氏の一族・最上氏の居城となった。

戦国時代後期、最上家当主・最上義光(よしあき)は所領を山形県村山地方・最上地方に広げる。
関ヶ原の戦役では、上杉景勝・直江兼続軍の侵攻を受けるも、長谷堂城の戦いでこれに耐え抜き(慶長出羽合戦)、戦後に山形県庄内地方を獲得、57万石の領主となった。

上杉勢が陣を構えたところは山形城からそう遠いところではなかったが、山形城には霞がかかっており、上杉勢からは見えなかったという。
ゆえに山形城は霞城(かじょう)とも呼ばれる。


山形城は、57万石の領主にふさわしい大規模な城郭に整備された。

最上義光の死から9年で、最上家は改易。
代わって鳥居忠政が入城し、山形城の改修がなされた。
その後も領主がたびたび代わるも、その石高は減り、大きな山形城の維持もおぼつかなくなる。
幕末には、本丸が更地になり、三の丸の半分は田畑になっていたという。

明治に入ると、陸軍歩兵32連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸や三の丸の堀は埋め立てられた。
現在、二の丸の内側は霞城公園となっている。


内部はすっかり公園化してしまい、いろいろな施設が置かれている。
将来的には史跡として整備されるため、野球場などのスポーツ施設を中心に撤去される予定なのだとか。





本丸堀をはじめ、本丸は復元工事中。
往時は空堀ではなく水濠であった。





本丸一文字門も工事中。
堅固そうな枡形門が早く復元されるといいですなぁ。




霞城公園の南東部に移築された旧済生館病院本館【国指定重要文化財】。
1873年(明治6年)に私立病院として設立、当時の県庁そばに本館が竣工した。
建物自体は公園内に移築され、現在は山形市郷土館となっている。




もうしばらく本丸堀ぞいに歩き、二の丸の東側へ。






最上義光公勇戦像、むちゃくちゃかっこえぇ~。
ご覧のとおり、馬が二本脚で立っている。
この造型は、寄贈者である鈴木傳六でん六創業者)たっての意向であるという。





二の丸東大手門【復元】。
その大きさは、江戸城の大手門にも匹敵する規模である。



最上義光公勇戦像ちかくのベンチで休憩して、いったん霞城公園を出る。




秘境!仙山線

2012-12-23 | 鉄道の旅

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 7 時 3 7 分

J R 仙 台 駅



仙台駅のスタバで軽く朝食をとり、この日は山形へ。
山形城立石寺を回る。



JR仙台駅8番線 8時15分発
  仙山線 快速 山形行き
  山形駅7番線 9時29分着

仙山線は、仙台から奥羽山脈を越えて山形へと続く。
その車窓をご紹介したい。



八ツ森駅通過中の場面。
列車が快速だからではなく、この駅には列車が停まらないのだ。
なんと、10年もの間1本の列車も停まっていない。
秘境駅の格付けではAAAクラスであろう。
なお、駅名標をよく見ると「八ツ森仮乗降場」とある。
八ツ森駅の所在地は仙台市青葉区である。



宮城・山形県境を越えたあたりの車窓。
4月であるのにこんなにも美しい銀世界。
(窓にうっすら映っているのは、朝食でテイクアウトしたスタバのソイラテ)



山形線(奥羽本線)に合流するころには、雪はもはや見えなくなっていた。




午 前 9 時 4 3 分

山 形 市

霞 城 セ ン ト ラ ル


山形駅に隣接するランドマーク・霞城セントラルから。



東を見ると、眼下に山形駅、山形市街、向こうに蔵王の山々。







北には、これから向かう霞城公園(山形城)の様子が手に取るようにわかる。


いざ、参らん!