井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

旋律が書けなくても大作曲家

2012-10-04 23:31:54 | 音楽

それはリヒャルト・シュトラウスのこと、と言いたいが、そうではなくて、エクトール・ベルリオーズのことを考えている。

ここ数年、スコアの読み方の教材として、ベルリオーズ作曲の序曲「ローマの謝肉祭」の一部をとりあげている。サルタレロの踊りの部分は実にエキサイティングで、高校の頃、夢中になったものだ。

また、現在、あるアマチュア・オーケストラの指導のために「幻想交響曲」のスコアを読み直している。これまたドラマティックで、中学の頃、毎日聴いていたことがあった。

つまりどちらも大好きだった。加えて「ハンガリー行進曲」、これもお気に入りではあるが、完全なオリジナルではないようなので、代表的作品から一応除外しておく。

とは言え、三つともすばらしい曲だ。他にもいろいろとあるに違いない、といくつか聴いてみたのだが、これがちっとも面白くないのだ。サイトウ・キネンが「ファウストの劫罰」を上演したことがあり、テレビで放送もされた。これをビデオにとって、何回か観たのだが、途中から観賞を放棄している自分を発見することになる。

一所懸命演奏された方々には頭が下がるが、曲の中身は恐ろしくつまらない。

同じことが交響曲「イタリアのハロルド」にも言える。独奏ビオラが地味だからパガニーニが演奏を拒絶したと言われているが、本当のところは、ビオラパートだけでなく全体がつまらなかったからではないか、と憶測してしまう。これに比べたらパガニーニの奇想曲の方が百倍おもしろい。インスピレーションに満ちあふれている。

ではパガニーニの方がベルリオーズより大作曲家か?

そう思う人は少数派だろう。

やはりベルリオーズの方が偉大と思われているだろう。それはリストやワーグナーに影響をあたえるほどのユニークさがあったからだ。これが「循環形式」。

そして「オーケストレーション」

前述の「ローマの謝肉祭」は、もともとオペラ「ベンベヌート・チェルリーニ」の間奏曲だったらしいが、「ローマの謝肉祭」には、そのオペラの旋律が出てくる。

その序曲のイントロが終ると、オペラの二重唱からとった旋律が、都合三回出てくる。よくみると恐ろしく凡庸な旋律なのだが、この色付け、つまりオーケストレーションがすばらしく、その凡庸さにまず気付かない。特に三回目に出てくるカノンの伴奏部分、16分音符単位で鳴っている楽器が交替する色彩感、もう絶品である。

この点が大事なところ、と思う。オーケストラとは使い方が巧妙であれば、旋律が貧弱でもそうは聞こえないのだ。

そして、日本語で「作曲」という行為、英語ではコンポジションと言うが、これは「組み立てる」ことであり、旋律を作ることは、その中のあくまで一部分。だから旋律が書けなくても作曲にはなり得るし、場合によっては大作曲家にもなる、ということだ。

井財野は今、11月23日本番のバレエ曲のオーケストレーションに追われており、このブログもなかなか書けない。その理由がおわかりいただけただろうか。このバレエ曲、作曲家が7人いる連作と合作で、他人の部分のオーケストレーションもある。元が何であれ、このオーケストレーション次第で名曲にも凡作にもなるのだから、ちょっと他のことに手がまわらない、という状況なのである。

11月23日、福岡近辺の方、ももちパレスまでぜひご来場を。