井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

理想のレッスンを追究して

2012-12-14 00:17:05 | ヴァイオリン

中学生の時、ブルッフの協奏曲の第2楽章の出だし一音を何回もやり直しさせられたのを良く覚えている。後で書き出してみたら7種類の注意を受けたことになっていた。今考えると、7種類注意を思いつく先生も大したものなのだが、当時の私は、これにうんざりしていた。

その後、大学にはいる訳だが、当然のようにいろいろな先生の「品定め」みたいなことをやる。しかし、音大生の分類は極めて大雑把。「細かい」か「自由にやらせてくれる」かの二分法であった。

その時、初めて知る訳だ、細かくない先生の存在を。

そう言えば、その「細かい」先生は、いわゆる「自由な」先生を評して「それはレッスンではない」と断じていた。それは、レベルの低い先生の話だと思っていたのだが、音大の先生でも、そのような先生がいるということが新発見だった訳だ。

他にどのような先生がいらっしゃったか?

大学2年の時に着任された浦川先生、当初はレッスン時間がべらぼうに長くて一人2時間かかっていた。一方の田中先生が30分できちっと終っていたのと好対照だった。

2時間も何をされていたのかよくわからない。シュラディークをさせられていたのは聞いていたが。

ただ、その頃の「音楽の友」誌上のインタビューで「名教授と言われる人は、少ない時間で最大の効果をあげているときくので、反省しています」とかわいい発言をされていたので、それが良いと思っていたのではないことがわかる。事実、数年後には1時間のレッスンになっていた。

この「少ない時間で最大の効果」という言葉が、私をずっと拘束し始めたのである。これが理想かもしれない、と。

ピアノの故安川加寿子先生のレッスンは、極めて即物的だったとピアノ科の学生からきいたことがあった。「ここは短く、そこは長く・・・」

なぜそうなのかがちっともわからなかったけれど「その通り弾くと、かっこうがつくのよねぇ」とのこと。その後、しばらくしてわかったのは「おとなしい先生だと思っていたの。そしたら、ある時フランス人がレッスン室にはいってきた時ね、先生突如フランス語でまくしたてるの。すごいおしゃべりなのよ。要は日本語が話せないみたい。」

一瞬、そのピンポイント表現法に心動いた私だったが、これが理想ではないことがはっきりしたと言えるだろう。

その安川先生の後輩にあたる田中先生は・・・

君が何も考えていないみたいだから、一応全部ああだこうだと言っておくけれど。

(いえ先生、自分なりに考えたら全て否定されまして、それならば下手な考え、休むに似たりかと思った次第で。)

自分でいろいろ考えて、これ以上考えられないところで「いかがでしょう?」というものを持ってくるのが大人のレッスンではないか?

そして、それがおかしければ指摘するし、おかしくなければ何も言わない。

(ほとんどおかしかったようで)

その方法が、君が考えた結果良いと思うことなのならば、こちらは「悪趣味だな」と思って黙って見ているだけだけど。

この方針は、現在私は継承しているのだが、なかなか大人のレッスンというものはできるものではない。少し大人になったかなと思って、考えさせてくると「悪趣味だな」を連発するはめになるし。

一方、何も教えていなさそうなチェロの先生もいらした。その先生は、まずご自分の演奏の録音を学生に渡すそうだ。その昔、N響と演奏したドヴォルジャークの協奏曲のカセットテープである。これは本当に上手いらしい。

そしてレッスンは「自分の音をよーく聞いてごらん?」でおしまい。

これはレッスンだろうか?

同じチェロの斎藤秀雄先生の講義録では「高校生までは7割教えて、残りを考えさせる。大学生になったら逆に3割教えて、あとは自分で考えてこいと言う」となっていた。

このあたりが理想かもしれないと思う。

しかし私が教える大学生は、7割教えないとあさっての方角へ歩きだすものが大半である。

第一、バックボーンたる知識がまるでない。

しばしば例えに出すのだが「鰻の蒲焼の味を説明するとしたらどうする? アナゴを知っているならまだしも、醤油の味さえ知らない外国人に説明できると思うか? 」

食べれば一発でわかるのである。

音楽でも、ブラームスを聞いたことのない人にブラームスの演奏法を教えるなんて、上述の醤油の味を知らない外国人に蒲焼の説明をするようなものなのだ。とにかくブラームスを知らないならまず聴け。聴くだけでわかることは山のようにある。話はそれからだ。

まずよーく聴いてごらん。

あれ? 私、さっきのチェロの先生と、もしかして同じ?