ふと図書館で目に入ってしまった本がある。
〈「分衆」の誕生〉
「今や大衆は存在しない。」という考えから生まれた造語。
何かそんなのがあったな、と思い手に取ってみた。
博報堂の研究所が出した1985年の本だった。思ったより古い。私の認識では堺屋太一の〈知価革命〉(89年頃)以降かと思っていた。コンピュータ社会によって大衆が消えたかと思っていたが、実際はそれより前に「分衆化」が進んでいた訳だ。
それから30年、これを書いているワープロに「分衆」という言葉はなく、大衆なら簡単に打てる、というのが現在の状況。
コンピュータ社会(=インターネット社会)以前は、このように広告代理店がその時その時の状況を調査して、分析して本にし、心ある人々はそれを読んで現状把握をしていた訳だ。
私のように、時代の移り変わりに興味のある人間にはありがたいことだ。
それは良いのだが、ショッキングな内容も含まれていた。
「ニューリッチ、ニュープアの誕生」とある。
当時のほとんどの家庭が「家計が苦しい」と訴えているのである。
現在、とある分析では「日本の貧富の差が一番少なかったのは1985年」という説もあるのである。当時、億単位の年収を得ていた人はほとんどいない代わりに、現在ほどの貧困層もない、という説である。
この数年後に日本にはバブル景気が訪れるのだが、あれも一部が大騒ぎしていたような印象がある。もちろん、お金の回り方は良かったから、今よりはマシなのだが。
そうすると、日本が幸せだった時代は、非常に短かった、あるいはほとんどなかった?という分析に唖然としてしまった。
このままで良い訳がない。
突破口は、諸外国との交流ではないかと考える今日この頃である。