井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

沖縄和声は長七の和音で表現する

2019-02-07 14:06:25 | 琉球頌
昨夜、発車しようとしていた電車に乗ろうと、ちょっと走ったら、自分の荷物に足をとられて転んで膝を強打した。

電車には乗れたのだが、膝が痛いの何の。

何とか帰りついて一件落着と思いきや、目が覚めたら昨日より痛い。

膝を曲げると痛い。起きるのに1分以上かかる。ちょっと近所の郵便ポストへ行くのも、普段は4~5分のところが10分かかるという塩梅。

そして、息がどんどん上がってくるのだ。普段の半分以下のスピードで歩くのは、かなりの有酸素運動なのを実感した。

多くの仕事を断然して、寝ようとするが、これにまた1分以上かかる。
おまけに変な姿勢で寝ようとするから、反対側の足がつってきた。ぶつけた足は熱があるが、反対側の足は冷えているのだ。イターイ!

何かそんなに悪いことしていたっけ、とその間思いを巡らしていた時、作曲家の中村透先生の訃報が入ってきた。

そうだったか…

享年72歳、ガンで亡くなられたそうだ。まだまだこれからも活躍できる年齢だけに、早すぎる別れと言わざるを得ない。

中村透先生との出会いは、浦添市で開かれた「わらべうたコンサート」
十数名のアンサンブルで伴奏をする、その一員だった。

その時の編曲が、あまりに洒落ていて度肝を抜かれたのである。

日本の素材を和声付けする時、どうやっても違和感は生じる。
そこを違和感のままで終わるか、新しい面白さと捉えるか、の違いではなかろうか。

コンサートで驚いたり、感動したことは多々あったが、1つだけ作曲技法上のことを述べると「長七の和音」というのを堂々と使われていたことだ。
「長七の和音」とは「ドミソシ」や「ファラドミ」の類いで、ラヴェル等の近代音楽やジャズ、ボサノバ等のポップスに多様される和音だ。

そのおかげもあって、先生の編曲は極めて明るいサウンドを作るのに成功していた。

そしてその手法を真似ることができた井財野は、日本の素材を使うことが非常に自由になった。

という次第で中村透先生は井財野の師匠格に相当する方なのである。

その後、先生の代表作のオペラ「キジムナー、時を翔る」の沖縄初演、東京初演にもオーケストラの第2ヴァイオリン首席奏者として参加させてもらったし(これは先生から頼まれたのではなく別ルートである)、現在所属している九州作曲家協会にも誘っていただいた。

その後先生はシュガーホールや琉球大学でも役職者として多忙な日々をおくられていたと思う。

その中で博士号に挑戦し、見事に学術博士号をとられた。

その成果は「愛されるホールの作り方」という著書になっている。シュガーホールを通じての壮大な実験結果が一冊にまとまったような本である。私の名前もちょこっと載っていて、読むと、忘れてしまっていた楽しい思い出がよみがえってきたりしたものだ。

先生としては、みんなにこれを読んでもらって、今からの文化の在り方をそれぞれ考えてほしい、と思いながら亡くなられたのではないかと想像している。

ところが、なかなかそうはいかない「私達」に結構イライラして、それが命を縮める結果になったのかも、と推察する。
だから、最後に「バカ野郎!」とパンチを一発私に食らわせて、この世に別れを告げたに違いない、と思っている。

先人の苦労を「ご破算に願いましては…」という行動ほど馬鹿げたことはない。
本当は存命中に、そのような話をするつもりでいたのだが、ついに間に合わなかった。

でも私なりに先生の思いは受け取っているつもり。しばらく草葉の陰から見守っていただきたい。

合掌

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