井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ヴァイオリンの音量

2010-10-15 06:09:22 | ヴァイオリン

トップサイドの音量は、あった方が良いというのが前記事の結論である。では、他はどうなのかというと、やはりあった方が良いということになるだろう。オーケストラでの役割を考えても、その立場を離れても、一般的にヴァイオリンは鳴っているに越したことはない。

楽器を鳴らす、というのは、どの楽器でも割と最初の段階での目標になる。その次に、多彩な音色を目指す訳で、その逆はない。

ところが、楽器を鳴らすのは意外と難しい。それほど鳴っていなくても、自分には充分満足に聞こえるものだから、その必要性をあまり感じないからだろう。したがって、鳴っていないという自覚もまた往々にして乏しい。

ヴァイオリンの場合、鳴っているかいないかを見分けるのは容易である。D線とG線の場合、開放弦を弾いたら隣の弦に触れるくらいに振動していれば、鳴っている状態だ。そのためには、弓を速く擦るか、圧力を加えるかすれば良い。実に簡単。

ところが、できない人はかなり多い。なぜか?

それは、楽器から来る反作用に負けてしまうからだと考えられる。弦がそれだけ振動した時、弦から弓へも反発する力が生じる。それをさらに押さえ込んで初めて楽器が鳴る状態にいたる。右腕の上腕にビリビリ振動が伝わってくる、それに負けてはならないのである。

弦を押さえ込むのは基本的には避けるべき事態だ。しかし、弓の速度が遅くて、ハイ・ポジションで、駒に寄せてもなお音量がほしい時等、圧力は絶対に必要だ。普段はなるべく弓の重さを利用して、余計な力は入れないのが原則だが、必要な力は入れないと楽器は鳴らない。

鳴らない弾き方を続けていると、楽器自体も鳴らなくなっていく。魂柱も鳴らない位置に移動していくこともある。鳴らせない人に楽器をちょっと貸すと、鳴らなくなって戻ってくるから、本当に悲しい。

また、鳴らせる鳴らせないは、その人の評価にほぼ直結している。鳴らないというのは「聞こえない」のとほぼイコール、聞こえなくては評価のしようがない。同じ聞こえるでも、より聞こえる方が伝わりやすいのも自明の理。国内で考えれば、学生まで含めて東京の奏者の評価が高いのは、やはり鳴らせる人間が多いことが最もわかりやすい理由になるだろう。

ただし、大きな音量には大きな犠牲が隠れている。大抵は耳をヤラれるからである。筆者は中高生の頃、しばしば耳をつんざく鋭い音で、耳が痛くなったものだ。そして二十歳の時には、16kHzあたりの定常波(一定のレベルで鳴り続ける音)は聞こえなくなっていた。まわりの声楽科や楽理科の友人は「止めてくれ!」とのたうちまわっていたのだが・・・。

それでは倍音が聞きとれないのでは、と思うかもしれないが、断続的な音であれば聞こえるから、実際に困ることはあまりない。それに、耳を大事にしたければ左耳だけでも耳栓をして練習すれば良いのである。

そのぐらい、楽器を鳴らすことに執念を燃やしてくれると、確実に評価はあがるのだが、なかなか難しいというのが現実だ。評価を上げたい方は、ぜひがんばって楽器を鳴らすことに力を注いでいただきたい。


トップサイドの音量

2010-10-12 07:02:47 | オーケストラ

この場合「トップ」とはオーケストラの首席奏者(コンサートマスターを含む)で、「トップサイド」とはその隣に座る奏者のことを指す。あまり話題になることはないと思うけれど、気にしている人は気にしているんだな、ということが最近わかった。

これを気にしているのは、もちろんアマチュア・オーケストラの方々であろう。トップサイドどころか、コンマスやセカンドトップも何をしていいかわからない、という質問も来る。

まず、トップをやってみるとわかるのだが、自分がよく知っている曲と、そうでない曲では、かなり結果に違いが出てしまう。知っている曲だと、自分のパートがどのくらいの音量で、どのタイミングで弾けば良いか、かなり見当がつく。知らないとつかない。だから、本来は事前に知っておく、というのが建前になる。

これも経験を積んでいくと、知らない曲でも、大体このあたりか、という見当はついてくる。これがベテランの領域である。もちろん限界はあるけれど。

それで、トップサイドだが、やはり知っていれば対応の余裕がある状態になるから、基本的にはトップ同様である。その上で、トップのやり方に合わせる、ということになる。

そこで、問題の音量。トップの人よりやや弱くなるとトップと同化はしやすい。しかし、通常トップサイドは舞台の奥に位置するから、客席から聞けば常にトップより弱い音になる。よって、意図的に弱くするのは疑問が生じる。

私の個人的見解では、トップサイドの人にはガンガン弾いてもらいたいと思っている。あくまでも全体の流れに沿って弾いてくれているならば、という条件つきではあるが。コンサートマスター、トップとも合図を出す等、他の仕事があるので、時には音を出すより、そちらを優先させることがある。それに合わせてトップサイドの音量が減ってしまうようでは、安心して他の仕事ができない。

先日、久しぶりに弦楽器の先輩達と会って話した時のこと、ある先輩曰く、

「千香士さんのコンマスとして優れていたのは、後ろの人に充分弾かせることができたことだよね。」

一方、千香士先生が生前おっしゃっていたこと。

「いいオケは後ろから鳴ってくるんだよ。」

これらの話を総合すると、トップサイドの問題はコンサートマスターにも左右される、という考え方が浮かび上がる。トップサイドを悩ませるようなトップではいけない、という言い方もできるかもしれない。なかなか難しいポイントも含んでいるが、それを乗り越えてこそ、いい音楽が誕生するということだろう。


ヴァイオリン大家族

2010-10-05 21:16:39 | ヴァイオリン

件の厳格なるピアニスト、まだまだ言いたいことはあるようで・・・。

ヴァイオリンの世界は、大家とか巨匠の影響が強いのかなあ、なんて勝手に思ったりもします。ラロやチャイコフスキーのコンチェルトでのカットなんて、他ではきいたことない慣習では?シューベルトの幻想曲しかり。そんなものかと思っていることも、ふと立ち止まるとなかなか奇妙な風景だったりします。

あれ、ピアノ協奏曲にはカットないですか?ピアニストは冷静だからカッとしないか…。

大家や巨匠の影響は、確かにヴァイオリン界では強いと思う。なぜならば、ヴァイオリン界は、それこそ「他では聞いたことのない<大家族>」なのだから。

楽器の演奏技術習得方法は、大きく分けて二つある。誰かに教えてもらうか、独習するか、だ。

人に習わないでも、楽器をいじっているうちに段々できるようになってしまったということ、大抵の楽器には、そういうことも起きるのだが、ことヴァイオリンに関しては、あまり弾けるようにはならないのである。先生に習わないと演奏できるようにはならない楽器というのは、結構珍しい方だ。同じ弦楽器でもヴィオラとコントラバスは先生に習わず弾けるようになるケースが存在する。(チェロだけは、よくわからない。)

そのことが大きく作用して、世界中のヴァイオリン奏者の先生は、ずっとたどるとヴィオッティにいきつく、というのがヴァイオリン界の常識である。こんな楽器は、他にないだろう。

正確に述べると、その流れに属さない人々も少しはいる。例えばパガニーニ。弟子をほとんど取らなかったし.その稀少なる弟子、シヴォリも師匠の芸をどこまで継承できたか?

それからジプシー・ヴァイオリンの系列。これは全く独自にして,かなりのハイテク集団である。(でも、あのラカトシュもバルトーク音楽院に通っていたし、7代くらい遡るとベートーヴェンと交流があった家系というから、全く無縁という訳ではない。)

この「ヴァイオリン大家族」を、普段から意識しているヴァイオリン人は皆無だと思うが、大家や巨匠がああしたこうした、というのに逆らえないような時、この大家族の圧力が顕在化するのだと考える。大家や巨匠は皆、先生の先生の・・・(中略)・・・弟子の弟子なのだから。

ヴァイオリン愛好家ならば誰でも持っているDVD「アート・オブ・ヴァイオリン」(モンサンジョン制作)、誰もが認める20世紀の巨匠が紹介されている。それは「ハイフェッツ」「オイストラフ」「ミルスタイン」「メニュイン」、そして「フランチェスカッティ」と「スターン」。

ヴァイオリン人にとって、この巨匠たちは絶対的存在である。逆らおうなどとは誰も考えない。例の一見風変りなカットも、大抵はこの巨匠たちの業績である。だから全て抵抗なく受け入れてしまう。

例えば「ツィガーヌ」の最後の方。楽譜に書いていないのに、なぜかスル・ポンティチェロ(駒の上)で弾く人が多いので、どうしてなのか田中千香士先生に尋ねたところ、

「ハイフェッツがやったから、みんな真似したんじゃないの?」(千香士先生は一回だけハイフェッツにレッスンを受けている。)

そんなもんです、ヴァイオリン界は。ヴァイオリン界から見ると、ピアノや声楽は、ハイフェッツのような神様(=規範)がいなくて、大変だねぇ、と思ったりするのだけれど、これは余計なお世話かな。

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続・ヴィターリのシャコンヌ

2010-10-02 22:02:14 | ヴァイオリン

件の「厳格なるピアニスト」から返事のメールがきた。

件のエッセイ、とてもとても興味深く拝見しました。ロマン派のコンサートエチュードとして捉える視点にはもろ手を挙げて共感します。その上で、レッスンの現場であの作品の様式やら時代背景やらがどの程度伝えられているのかと思うとかなり疑いの眼差しで眺めている自分がいます。

いや、だからさ、エチュードな訳で、リコシェが跳ぶかとか、オクターヴが決まるかとか、そっちが大事カナダ。様式やら何やらを言ってる先生はオランダ。

例のイタリア古典歌曲の中のSe tu m'amiは、ペルゴレージではなくパリゾッティの作品であることが判明していますが、芸大入試の古典歌曲の選択課題の中には今も堂々と名を連ねています。

ところで、「セトゥマミ」はパリゾッティの作とは知らなかった。しかも私などは先にストラヴィンスキーのプルチネルラ(バレエ全曲版)の方で知った曲だ。ストラヴィンスキーに、この曲を紹介したのはバレエ・リュスのディアギレフと聞いている。てことは、みんな騙されたのか?確かに、最初のロンバルディ・リズム(逆付点)は古典派的で、バロック的ではないか・・・。

だとすると、パリゾッティは立派な作曲家だよ。

ところであのシャコンヌ、中間?のダーヴィドとアウアーの両版はご存知ですか?僕は見たことないのですが、ベーレンライターの序文を見ると、シャルリエは序奏の8小節やカデンツァを加えただけで、あの作品を生んだのはダーヴィドだと述べられていますね。事実はどうなのでしょう?

彼はドイツ語も読める。ヘルマン先生を疑うつもりはないし、どこか別のところにもそう書いてあったから大体はそうなんでしょう。アウアーは多分、通常の校訂をしたに留まるのではないか。でもDavid版は見たことがない。見ろってか?

すると数時間後に、再びメールが来た。

一応確認と思いIMSLPを見たら、Davidの作品としてかれの編曲した譜面がありました。それを見ると、やはりこの作品は85パーセント彼の作品であって、シャルリエは数カ所手を入れた程度、というのが正しいところのように思われます。

便利な世の中になったものだ。IMSLPからダウンロードというのを私も初めてやってみた。

なるほど、基本的なピアノ伴奏のアイディアは、ほとんどここで形作られている。そういう意味では確かにシャルリエが手を入れた部分は少ない。

が、やはりシャルリエ版でだんぜんプロポーションが良くなったのは確かだ。にわかにシャルリエを偉大に感じてきた。私はこういうことに、とても価値をおく。前述の例で言えば、はげ山の一夜を編曲したリムスキー=コルサコフのように。

一方ダーヴィドも大したものだ。友達のメンデルスゾーンがバッハの蘇演をやったのと同様のことを立派に成し遂げている。やはり偉大なヴァイオリニストである。仮にダーヴィドの作曲だったとしても、それならそれで素晴らしい作曲家と言えよう。

ダーヴィドの弟子にはヴィルヘルミがいる。バッハのアリアから「G線上のアリア」を作った人だ。師の業績の伝統を立派に引き継いだ感がある。

先人の偉業に感謝。ヴィターリのシャコンヌを手掛ける方は、ぜひダーヴィド版にも目を通すことをお勧めする。ただ、以前に書いたように、この版が教材として適当かどうかは、もっと時間をかけて検証してみる必要がありそうだ。

Ferdinand DavidのChaconne