井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

小さな木の実

2011-01-14 06:24:10 | 音楽

世の中には原曲よりも編曲の方が有名というものがある。ボッケリーニのメヌエット,ドヴォルジャークのユーモレスク,エルガーの「愛の挨拶」,古くはジャン・ジャック・ルソーの「むすんでひらいて」もそうだ。

これらの曲は大抵,原曲は原曲で,それなりの味わいがあるものだが,中にはそうでないものもある。これもその一つ。

先日、近所のスーパーのBGMで「小さな木の実」の原曲を久しぶりに耳にした。恐らく15年以上聞いていない。

さて、「小さな木の実」とは、小学校の教科書にまで採用されたことのある曲・・・

小さなてのひらに一つ、古ぼけた木の実、にぎりしめ・・・

という、NHKみんなのうたが生んだヒット曲である。1971年の放送だったから、今年で40周年だ。しかも再録音と再々録音があるから、「みんなのうた」の中でも大ヒットと言える。

さて、この曲はビゼー作曲ということになっている。ビゼー作曲「美しきパースの娘」から、という紹介を常にされてきた。一体これは何? と、いつもだったら調べるところだが、この曲に限って全くその気を起さず、10年以上、この「みんなのうた版」を愛してきた。

その間に、音楽大学を出て、まがりなりにも音楽の専門家を自称する立場になってなお、この曲の出自は知らぬままだった。普通だと、ちょっと恥ずかしくて、ひっそりと調べたりするものだが、誰からも質問されないし、仲間うちも話題にさえしないので、そのまま時間が過ぎていったのである。

しかし、気にしている人には、神様が「お報せ」をくれるのだなぁ。

今から二十数年前、池袋のサンシャインの何階だったかで、ピアノ五重奏を演奏する仕事を頂いた。シューマンのクインテットで、フィナーレのフガートの途中で見事に間違えた、忘れられない本番だったが、もう一つ忘れられないのは、その仕事の監督の石川皓也(あきら)さん。この方が、「小さな木の実」の編曲者、実質この曲を作られた方である。

千載一遇のチャンス、この時とばかりに「小さな木の実」の話を聞かなくては、と(私だけが)思った。

大庭照子は、あれ一曲で今も生きているねぇ。

実際は、2匹目のドジョウ「こわれそうな微笑み」というのがあるのだけれど、好評の範囲で留まった。これはメンデルスゾーンのピアノ・トリオを基にした佳品で、私は「メントリ」の解説に使ったこともある。

あれはね、みんなのうたのディレクターが、NHKの昼の番組を聞いていた時に聞えてきた曲がいいっていうんで、そこから始まったんですよ。フランク・チャックスフィールド楽団の演奏で「セレナード」っていうんだけど、ビゼーの組曲「美しきパースの娘」に入っている「セレナード」と別の曲なんです。よく問い合わせがありましたね。「入っていないんだけど」って。

へえ、あのジャンチャカチャ、チャチャチャっていうスペイン風のリズムですか?

いや、違うんです。で、その「セレナード」を編曲して歌詞をつけて大庭照子に歌わせた訳。

フランク・チャックスフィールドねぇ。オーケストラが好きな井財野はイージー・リスニング・オーケストラも好きである。クラシックのベルリン・フィルとウィーン・フィルに相当するのはパーシー・フェイスとポール・モーリアでカラベリ、レーモン・ルフェーブルがその下、以下マントバーニ、フランク・プールセルと続き、フランク・チャックスフィールドのような「たるい」オケはさらにその下の評価なので、それに目をつけたディレクターを慧眼と言うべきか変人というべきか迷ってしまった。(「引き潮」をメジャーにしたフランク・チャックスフィールドの功績は大きいと認めるけれど。)

フランク・チャックスフィールドの演奏と聞いただけで聞く気が衰退するのは否めない。という訳で「セレナード」を聞こうとは思わず、さらに数年が過ぎた。

で、喫茶店のBGMでバッタリ出会うことになった「セレナード」。「小さな木の実」を知っている人間ならすぐにそれとわかる。しかし、変な曲にも感じてしまう。

「小さな木の実」はAA'BA''の整然とした二部形式。一方「セレナード」も二部形式ながらAA'BB。ただBが完全終止する。つまり「小さな木の実」の歌詞をあてはめるならば

ぼうや,強く生きるんだ 広いこの世界 パパのことば

となる。えっ、これで終ってしまうの、と思ってしまう終り方である。

ここでようやく音楽家魂が目覚め、オペラ「美しきパース(ペルト)の娘」のCDを手に入れた次第。

期待に胸をふくらませて聞くのだが・・・

あれ? これだけ?

それらしい曲は1回半くらいしか出てこない。それと認識するのも難しいようなささやかな曲だが、ギター伴奏だから「セレナード」なのだろう。でもAA'の後、Bのかけらで終ってしまうのだ。よくこれだけの断片を別の曲に仕立て上げたものだ。これは感心感心。

ビゼーよりフランク・チャックスフィールドが、フランク・チャックスフィールドより石川皓也が優れているなんて、何と素晴らしい。

それに海野洋司の歌詞だって泣かせる。

ビゼーのカルメンだって、スペイン民謡の取材や、それこそ「美しきパースの娘」の転用で「いいとこどり」の作品。輪廻転生を感じてしまう「小さな木の実」であった。

その昔、独自の編曲をほどこした岩窪ささを編「小さな木の実


クライスラー:前奏曲とアレグロ

2011-01-10 22:13:28 | ヴァイオリン

さて、そろそろ書かなければならない時がきたような気がする。曲の解説ではなくて難易度だ。

[前奏曲]

形式がABAの三部形式。A部分が、業界で言うところの「ミシミシ」の語源になったところになる。A部分は四分音符だけで作られ、冒頭6小節24拍を全部ミとシで通すのだから、大した作曲技術だ。

弾く時困るのは、最初だけアクセント記号がついていて、後が省略されているように見えること。A部分全部アクセントをつけて弾くことは、できなくはない。しかし、それを音楽的に聴かせるのは至難の技。パールマンだって、いつの間にかアクセントを止めている。いつ止めるのか、でも楽譜に書いてないのに止めていいのか、常に惑わせる楽譜である。まるでバロックの譜面のよう。

それもそのはず「プニャーニの様式で」と書いてある。何も指示がないバロックの譜面の書き方を踏襲しているのだ。では、プニャーニとは?

筆者も寡聞にしてプニャーニの作品は、偶然数曲を知るのみ。その様式と言っても、少なくとも筆者が知りえた作品とは、全く関連性がみつからなかった。よって、あまりヒントにはならない。

どう考えれば良いのか、あまりわからないので結局は感じたままに弾くことになりそうだ。感じない人にとっては甚だ難しい。

一方B部分はファンタジックだけれど規則性があるし、あまり高音も使われていないので、それほど難しくはないだろう。

[アレグロ]

難しさを感じるポイントは「スピッカート」と「変形バリオラージュ部分」の2点。

・スピッカート

分数楽器でスピッカートは無理なので、弓元に近い部分で短めにはっきり弾く、ということで対処する。スピッカートができるのであれば、この曲はそれほど難しいものではない。

・変形バリオラージュ部分

「バリオラージュ」とは、開放弦と「指を押さえた音」とを交互に弾く場合の呼び名だが、この曲では「指を押さえた音」が2音続いて開放弦が1音という、ユニークな弾き方があり、この名前を仮につけさせてもらった。

実際の音楽は16分の9拍子(16分音符3個の連音を1拍と数えた3拍子)でできているのに、譜面上はずっと4分の3拍子で書いてあること、これが譜読みを難しくしている。これは16分音符9個ごとに線を入れたり、3個単位の最初の音に印をつける等の作業をすれば、大分整理されるはずだ。ただし、最後の3,4小節、減七の和音になっているところは16分の12拍子なので要注意。

これを弾くのに重要な技術が二つ。<移弦>と<分散6度>。

<移弦>

これは左手を押さえないで、開放弦だけの練習(ラミミラミミ)をする。手首の先を動かすようにできればなお良い。

<分散6度>

重音の6度にして音階のように弾けると、困難さは減るだろう。

言いかえれば、6度の重音音階がまだ弾けないくらいの指の力だと、困難を極める。

あとはそれほど難しくはないと思う。

なので筆者の評価では「梅鶯林道1級」、モーツァルトの協奏曲4,5番、ヴィオッティの協奏曲22番と同程度、と見ている。ただ、上述の通り、指の力が弱いと結構難しい。モーツァルトやヴィオッティよりも難しいと思う。


永遠のジャック&ベティ

2011-01-05 23:10:00 | 井財野作品

タイトルは、清水義範作の小説に由来する。小説の方は、中学生が英訳する時に使う、普段の日本人が使わない「変な日本語」しか話せないジャックとベティの物語。もうちょっとで恋物語になるかならないかの瀬戸際、滑稽で切ない、味わい深い作品である。それと同じ雰囲気を持つという訳ではないのだが、一部に重なるイメージもあり、タイトルを借用した次第。

この曲は、1990年、音楽の友社ホールで開かれた「リサイタルA」のために書いた、ピアノ伴奏付きのヴァイオリン曲である。ヴァイオリン曲を発表したのが初めてならば、リサイタルのために書いたのも初めて、取り巻く状況も「中学生の英語学習状況」と似たり寄ったりだった。

私には、当夜の聴衆が喜んで聞いたかどうかわかりませんでした。

しかし、何人かの人々は「おもしろかった」と言いました。

私は、それを聞いて喜びました。

しかし、私は大変疲れました。それは、自分で弾くための曲であるところのこの曲を作るのに時間がかかり、練習する時間が少なかったからです。

とても疲れたので、打ち上げでは、食べ物の名前がわかりませんでした。これはリンゴでしょうか、それともオレンジでしょうか?

少々誇張が入ってしまったが、それっきり弾きたいとは思わなかった曲である。ただ、リサイタルのプログラミングやスタイルに表れている工夫を知ってもらいたくて、何人かの人々(some people)には録音を聞いてもらったことがある。

その中に、群馬交響楽団のYさんという方がいらして、この曲をとても気に入って下さり、ご自分の演奏会で何回か弾いてもらえたことがあった。これが10年ほど前だっただろうか。

一方、数年前に紹介されたのが「デュオ三木」というご夫妻である。ヴァイオリンのことをよくわかって書かれている作品が少ないことを嘆かれているから、それならば井財野作品に良いものがあるのではないか、と仲介に立った方が考えて下さったお陰で、知り合いになれた。

そして「嬉遊笑覧」などと一緒にお渡ししたのがこの曲。そうしたら、これのみが広島県の福山市周辺のみでヒット曲になったという次第。嬉しいやら恥ずかしいやら、である。

もし楽譜をご希望の方は、コメント欄にメール・アドレスを添えて連絡ください。コメントは非公開にしますので。




「耕す」こと

2011-01-02 13:41:04 | ブログ

あけましてめでとうございます。

今年からは、足元を耕すことに、今一度目を向けたいと思います。

実は、20年前も同じ結論に達し、かなり熱心に10年以上耕したつもりなのですが、思ったような結果は得られず、耕すのもペースダウンしていたのが、ここ数年のこと。

その間、日本はさらに思わぬ方向に進んでいったように思います。

同時に、欧米の動き、中国、韓国の動向をずっと見続けていましたが、自分のできることは、やはり耕すことだ、というのが現時点の結論です。

耕すは英語でcultivate、文化はculture、語源は同じだそうです。

何が「耕す」なのか。実際の活動は多岐にわたるはずで、一言では申し上げられません。それに一緒に耕す仲間を増やすことも視野に入れたいところです。様々な状況を通して、これをモットーに生きていきたいと思っています。

本年もよろしくお願いします。

それから、知人の情報により、「耕す」ことを考える以前に作っていた作品が、広島県福山市のデュオ三木のお二方から公開されていることを知りました。この曲については、また別項で紹介したいと思います。関心のある方、ご覧ください。