その後の『ロンドン テムズ川便り』

ことの起こりはロンドン滞在記。帰国後の今は音楽、美術、本、旅行などについての個人的覚書。Since 2008

アガサ・クリスティー (著), 中村 妙子 (翻訳)『春にして君を離れ』ハヤカワ文庫、2004(原作は1949年発表)

2024-03-29 07:26:11 | 

勉強会でお知り合いになった「まなとも(学び友達)」のご推薦図書。

「ミステリーの女王」アガサ・クリスティーのフィクションであるが、犯罪は一切出てこない。「自己変革」をテーマにした心理小説である。「さすがクリスティ!」と唸らせる、どきまきしながら読者にページをめくらせる吸引力は抜群。ハッピーエンドを予感させながらの結末は唸らされ、物語としての読後感は非常にザラザラしたものだ。

イギリス中流家庭の模範的な妻が、中東に住む娘夫婦を訪問後の帰路において、天候事情により、周囲には何もない砂漠の町で足止めを余儀なくされる。3日間の孤独が彼女の人生の振り返りの時間となり、内省が促される。大いに気づきを得、新たな自分の旅立ちの決意を持ったところで、帰国し日常生活に戻っていく。そのプロセスが、主人公の視点、心情をベースに描かれる。

「自己変革は可能なのか?」、「認知の枠組みはどう形成され、修正されうるのか?」、「自分とは何か?」といった問いが読者に突きつけられる。小説ではあるのだが、「心理学」、「自己啓発セミナー」などのケーススタディとしても活用されそうな物語である。

主人公に共感するのか、冷たく突き放すか、はたまたその中間か。読み手そのものの認知バイアスが、本書で試されるだろう。

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『新ハムレット』(作:太宰治、演出:早坂彩)@こまばアゴラ劇場

2024-03-25 07:31:06 | ミュージカル、演劇

こまばアゴラ劇場で太宰治原作、早坂彩 演出の〈新ハムレット〉を観劇。原作は直前に慌てて読んだが、シェイクスピアのムレット」と似て非な心理劇的物語展開に魅せられたので、この原作がどう芝居化されるのか楽しみであった。

9つの場面に分かれている原作を1幕ものにコンパクトにまとめ、テンポよく約100分で一気に駆け抜けた。原作のやや冗長に感じるところが削ぎ落とされ、引き締まって、観客をぐいぐい引き込んだ。心理劇的な面は抑えられたところは感じたが、推進力強い上に、小劇場ならではの密室空間(しかも私は最前列に着席)もあり、役者の熱量もダイレクトに伝わり、あっという間に時間が過ぎる集中度の高い舞台だった。

役者さんでは、王夫婦を演じた太田宏さんと川田小百合さん(申瑞季さんからキャスティング変更)が安定した演技で舞台に落ち着きを与えていた。題名役の松井壮大さんは、シェイクスピアの「ハムレット」よりも更に悩めるハムレットを上手く演じた。これは役者というより原作の特徴と思うが、このハムレット、悩み過ぎで、悩むために悩んでいるとしか見えないところある。

個人的に拍手を送りたかったのは、ポローニアス役のたむらみずほさん。劇中劇での奇演と劇中劇後の王の居室における王とのやりとりは迫力満点で真に迫り、本作の心理劇的要素が表現されていて唸らされた。

舞台は木材を組み合わされたバリケード風の構築物がセンターに置かれ、適宜回転させて場面場面で活用される。椅子としてや、劇中劇の舞台や、王城として使われたりで、効果的に観衆の想像力が刺激された。悩むハムレットのモノローグに他の登場人物らが一人ひとり声を寄せるシーンも演出も感心させられた。

もちろん期待はあったのだが、正直、期待を上回る観劇体験であった。このこまばアゴラ劇場もまもなく閉館というのも寂しすぎる。4月に最後のさよなら公演を見に来る予定。

(2024年3月22日 観劇)

 

早坂彩『新ハムレット』

作:太宰治  演出:早坂彩(トレモロ/青年団)

CAST

太田宏*、松井壮大*、たむらみずほ*、清水いつ鹿(鮭スペアレ)、大間知賢哉、川田小百合、瀬戸ゆりか*、黒澤多生* (*=青年団)

STAFF

演出助手・スウィング:長順平 舞台監督:鐘築隼[京都公演]/久保田智也[東京公演]
舞台美術:杉山至 照明:黒太剛亮(黒猿) 音響:森永恭代 音楽:やぶくみこ
衣装協力:徳村あらき 宣伝美術:荒巻まりの 制作:飯塚なな子

協力:青年団、黒猿 主催:トレモロ

 

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山中湖の鹿

2024-03-24 21:04:11 | 旅行 日本

まだ冬の寒さ残る山中湖を訪れました。

恒例の朝ランの風景です。

今回のサプライズはこの鹿たち。私が走る道を、7頭の鹿が横切り、道路左の林から右の林へ。立ち止まって、じーっと私のことを見つめます。

小鹿は可愛いのですが、親鹿は結構大きいし、怖いです。


ランチは忍野村のうどん屋さんで鍋焼きうどん。まだまだ寒さが残るこの地域では、暖かいうどんが美味しい。

2024年3月24日

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太宰治『新ハムレット』(新潮文庫、1974)

2024-03-23 07:40:11 | 

太宰治の作品を読むのは学生時代以来。本作の芝居を見に行くので、予習として原作に目を通した。(本文庫本には本作含め5作品が収録されているが、読んだのは本作だけ)

冒頭に筆者の「はしがき」があって、「『ハムレット』の注釈書でもない、または、新解釈の書でも決してない・・・作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎない・・・。狭い、心理の実験である。」と説明がある。「狭い」かどうかは置いておいて、それ以外はその通り。シェイクスピアの『ハムレット』から登場人物と状況設定は借りつつも、中身は全く異なる、似て非なるものである。

前半は、元『ハムレット』との差分・違いが気になりながら読み進めたが、段々と太宰版の世界に嵌まっていく。登場人物夫々の人としての癖、どこまでが本心でどこが嘘なのか、真の動機は何なのか、そしてこの物語はどう収拾されるのか・・・。物語としての吸引力は元『ハムレット』同等に強いと思わせるぐらいだ。作者が書いた通り「心理の実験」であり、心理劇になっている。

発せられる言葉もシェイクスピアに負けてない。

「忍従か、脱走か、正々堂々の戦闘か、あるいはまた、いつわりの妥協か、欺瞞か、懐柔か、to be, or not to be, どっちがいいのか、僕にはわからん。わからないから、くるしいのだ。」(ハムレット、p.265)

「形而上の山師。心の内だけの冒険家。書斎の中の航海者。つまり、ぼくは取るに足らない夢想家だ。」(ハムレット、p.291)

「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ち続ける。」(ハムレット、p.350)

・・・

否が応でも、太宰のほとばしる才能を感じる作品だ。さて、これが芝居ではどう表現されるのだろうか・・・。

 

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うん十年振りに「プロ倫」を読んでみた:マックス・ウェーバー(訳 中山 元)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日経BP,2010)/原著は1920年

2024-03-20 07:30:41 | 

まさかこの歳になって、「プロ倫」を再読するとは思ってもみなかったが、昨秋から参加していた勉強会の最終回の課題図書であったので、読まざるを得ず。大学2年の一般教養「社会思想」の授業で読まされて以来である。当時読んだ岩波文庫版(梶山力、大塚久雄 訳)よりも読みやすいとの評判を聞き、中山元の訳を読んだ(確かに読みやすかった)。

初読から数十年経っているので、記憶も経験も積み重なっていることもあるが、一体、学生の時は何を読み取っていたのだろうか。恥ずかしいほど、何も残っていなかったことが判明。仮説に対する検証方法や分析の内容など、改めて読んで、気づかされたことが多々あった。

内容について詳細は省くが、ベンジャミン・フランクリンが書き残した、時は金なり/信用は金なり/金が金を生む/よい会計係は他人の財布の落ち主/勤勉と節約/几帳面さと正直といった資本主義を発達させた精神の本質(エートス)は、プロテスタンティズム(特にカルヴァン派)の予定説から導かれる天職の思想や禁欲主義をバックボーンにしていることを検証している。

「世俗的な職業に従事しながらその義務を果たすことが、道徳的な実践活動そのものとして、最高のものと高く評価されたことは新しいこと。これにより世俗的な日常の労働に宗教的な意義があると考えられるようになり、その必然的な結果として、このような意味での天職の観念が始めて繰り出された。・・そして神に喜ばれる唯一の方法は、各人の生活における姿勢から生まれた背欲的な義務を遂行することにあると考える。こうした義務の遂行が、その人の「召命」であるとみなすようになった」(p142⁻143)

「プロテスタンティズムの世俗内的な禁欲は、自分が所有するものをこだわらずに享受することに全力を挙げて反対し、消費を、とくに贅沢な消費を抑圧した。この禁欲はその反面で、財産を獲得することに対する伝統主義的な倫理的な制約を、解き放つ心理的な効果を発揮したのである。利益の追求が、直接に神が望まれるものとみなしたために、利益の追求を禁じていた〈枷〉が破壊されたのである。」(p.462)

2つの点で興味をひかれた。

1つは日本人の資本主義の精神はどこからきているのかという点だ。現代日本において、中近世のプロテスタントのように召命として労働に励む人は殆どいないと思うが、日本人の労働観や勤勉性はどこから来ているのだろうか。金儲け・利益についての考えの由来はどこにあるのか。そんな疑問が頭をよぎった。近江商人の三方良しとか、「もったいない」という考え、石田梅岩の石田心学における「正直」「勤勉」「倹約」といった倫理。これらはプロテスタンティズムの精神にも共通するところがある。日本人らしい、なんでも統合させてしまう特質から「武士道/商人道」「仏教/神道」などなどのミックスによるものなのだろうか。

2つめは、マックス・ウェーバーの先見性。今回、特に、目を開かれたのは、マックス・ウェーバーが、資本主義の将来を鋭く見据えていたということだ。資本主義においてその精神性が薄れ消滅しつつある20世紀初頭の状況を見て、『プロ倫』の最後ではこう述べる(めちゃ長い引用だがとっても大事)。

「現在では、禁欲の精神は、この鋼鉄の「檻」から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の後をついたのは、晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙のバラ色の雰囲気すら、現在では薄れてしまったようである。そして、「職業の義務」と言う思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、私たちの生活のあちこちをさまよっている。
(中略)「職業の遂行」が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えることができなくなっても、(中略)今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。(中略)営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときには、スポーツの性格を帯びていることも稀では無いのである。
将来、この鋼鉄の檻に住むのは、誰なのかを知る人はいない。そして、この巨大な発展が終わるときには、全く新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。あるいは、そのどちらでもなく、不自然極まりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのであろうか。最後の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、次の言葉が真理となるだろう。『精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無に等しい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。』」(pp493⁻494)

噛みしめたい一文だ。まさに、今の世の中、精神のない専門家、魂のない享楽的な人間に溢れているとは言えないか。そうした中で資本主義の暴走が起こっている。私自身も含めて、「職業の遂行」の意味を考えるべき時代だと強く感じた。

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PARCO STAGE W.シェイクスピア <リア王> @東京芸術劇場プレイハウス

2024-03-18 07:36:56 | ミュージカル、演劇

段田安則さんがリア王を演じるということで、先月の<マクベス>に続いてシェイクスピア劇を観劇。TVでもしばしば目にする役者を多く揃え、熱量高い、充実した舞台であった。

段田さんは、傲慢国王から気がふれた哀れな老人へ転落するリア王を好演。身から出た錆とはいえ、権力を失った元権力者の悲哀が胸を打つ。

三姉妹の中では江口のりこさんが、ゴネリルの役柄にぴったりハマっていて、怖いぐらいだった。また玉置玲央さんが庶子エドマンドを活き活きと演じていていた。更に、この救いようのない絶望的な悲劇の中で唯一息をつけるのが、道化の振る舞い。とぼけたことばかりを言うが、実は世の中や人間が一番見えている。その道化を平田敦子さんが好演していた。

ショーン・ホームズさんの演出作品は初めて。衣装から察するに場を現代に置いているのだが、深い読替え的な意図はなさそう。舞台装置はシンプルで、椅子と白色のウオールボードが基本。手紙はOHPを使ってその壁型ホワイトボードに投影される。場面によってそのボードを吊り上げ、奥行きあるステージをフルに活用する。舞台天井に蛍光灯を多数設置し、そのON,OFFで嵐や天候が示された。

演出上、唯一の不満は、この天井の蛍光灯演出かな。この<リア王>はドーバー(の岸壁や荒野)、嵐、狂気が3点揃って最高のヤマ場というイメージを持っているので、ちょっと今回はその点において物足りなかった。

今回は事前に松岡和子さんの翻訳を読み返す時間なく、ぶっつけ本番となった。休憩入れての3時間の上演時間だったこともあり、舞台ではそれなりにカットが入っていたと思う。リアの放浪場面とか、もう少し長かった気がする。出来ればもう一度観なおしてみたいものだが、残念ながら今回はちょっと時間が合いそうにない。

(2024年3月14日)

 

作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:松岡和子
演出:ショーン・ホームズ
美術・衣裳:ポール・ウィルス
出演

段田安則 小池徹平 上白石萌歌 江口のりこ 田畑智子 玉置玲央 入野自由 前原滉 盛隆二 平田敦子 / 秋元龍太朗 中上サツキ 王下貴司 岩崎MARK雄大 渡邊絵理 / 高橋克実 浅野和之

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伊藤亜聖『デジタル化する新興国  先進国を超えるか、監視社会の到来か』(中公新書、2020)

2024-03-16 07:47:42 | 

 「デジタル技術による社会変革は、新興国・途上国の可能性と脆弱性をそれぞれ増幅する」という仮説に基づき、様々な可能性と脆弱性の事例を紹介しながら、途上国・新興国におけるデジタル化の影響を検証・整理する一冊。

構成と文章が明快なので、網羅的かつ構造的に論点について理解しやすく、良い意味で「教科書的」である。

デジタル化による変化には以下のような特徴がある。
1)従来の「先進国」と「新興国」といった紋きり調の定義が変容していく。
2)経済発展戦略における「人材・技能」、「インフラ」、「金融」、「支援制度・政策」といった先進国からの支援パッケージも、工業化のための仕組みとデジタル化のための仕組みでは異なっている、
といったことだ。漠然とは感じてはいたものの、文字に落とされて、改めてその通りだと感じる。

日本もこうしたデジタル化による世界の構造変化の波を大きく受けている。工業化時代においては、新興国への「開発援助と協力」で国際的な役割を果たしてきたが、足元のデジタル化がおぼつかない今の日本では、国際的な役割は不明確だ。筆者は「共創パートナーとしての日本」(p.223)を構想として打ち出している。

「好奇心と問題意識のアンテナを広げ、日本の技術や取り組みを活かす。同時に新興国に大いに学び、日本国内に還流させる。加えてデジタル化をめぐるルールつくりには積極的に参画し、時に新興国のデジタル化の在り方に苦言を呈する。(中略)より対等な目線で、共により望ましいデジタル社会を創る、という姿勢だ。」(pp.223⁻224)

これだけでは如何にも学者さんの考察で抽象的すぎるが、具体例として、インドの生体認証PJへの日本企業によるシステム提供やコーポーレート・ヴェンチャー・キャピタル、日本企業の海外拠点によるデジタル化動向の調査、デジタル経済と技術開発をめぐるルールつくりへの参画などが例として挙げられている。明確で絶対の答えは無い問いであり、これから様々な関係者がもがかなくてはいけない分野だが、このデジタル時代における日本の国際的な役割について明確に語れないところに、日本の危うさがちらつき、昨今の株高も素直に喜べないところだ。

先だって読了した『幸福な監視国家・中国』のような現場視点でのレポート情報は無いので、迫力には欠けるが、新興国のデジタル化について概観を掴みたい人にお勧めできる1冊だ。

 

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シーラ・フレンケル, セシリア・カン (著), 長尾莉紗, 北川蒼 (翻訳)『フェイスブックの失墜』(早川書房、2022)

2024-03-12 07:43:36 | 

フェイスブックには随分、恩恵を受けてきた。20年連絡が取れなくなっていた海外の友人とコンタクトがとれた、普段なかなか会えない友人と近況を手軽に共有できる、知らない情報・行ったことのない場所に触れることができ、世界・知識が広がる・・・。ただ、こうした恩恵のためにどれだけの自分をリスクにさらしているか、危うい情報環境に身をさらしているか。それを教えてくれる1冊だ。

ユーザーの属性・行動情報を売り物にして利益を得る広告モデル、フェイク情報の流通の担い手、メディア企業としての社会的責任を回避する企業体質など、本書にはフェイスブックの影の部分が、関係者の取材を基にディテールに渡って描かれる。読み易いが、読んでいて気が重くなり、一気に読むというわけにはいかなかった。

「テクノロジーは、考え方や経験の似通った人々が構成するエコーチェンバーをあちことに生み出してしまった。ザッカーバーグはこのジレンマを解消できていないかった。フェイスブックは一つの国家ほどの力を手に入れ、抱える人口は世界中のどの国より多い。しかし、実際の国家は法律によって統治され、指導者は国民を守るために消防士や警察などの公共サービスに投資する。しかしザッカーバーグはユーザーを守る責任を取っていなかった。」(p.316)

「フェイスブックの心臓部であるアルゴリズムは強力であり、膨大な利益をもたらす。フェイスブックのビジネスは、人と人とをつなぐことで社会を発展させるという使命と、そうする過程で利益を得るという。両立することが難しい根本的に二律背反の上に成り立っている。」(p368)

フェイスブックに限らず、グーグル、Xなども構造は似たようなものだろう。かといって、こうした巨大テックカンパニー誕生前のマスコミに牛耳られて情報コントロールされた世界の方が良いかと問われれば、それはそれで疑問だ。こうしたプラットフォーム企業のサービスなしには生活すらままならくなってしまった私ら一般個人はどうすべきなのか?どうプライバシーを守り、何を基に物事を判断し、どうサービスを利用すればいいのか、が問われている。もちろんそれは個人個人が考え、行動するしかない。

「企業の社会的責任」、「企業ガバナンス」、「公的規制の在り方」、「表現の自由」、「メディア・リテラシー」等、現代社会における重要テーマのケーススタディとして最適だ。そして、ここまでの取材と記述を行う米国のジャーナリズムは流石と感嘆する。多くの人(特にフェイスブックユーザー)に勧めたい1冊である。

 

目次

どんな犠牲を払っても
大物を挑発するな
次世代の天才
私たちはどんなビジネスをしているのか?
ネズミ捕り係
炭鉱のカナリア
クレイジーな考え
企業は国を超える
フェイスブックを削除せよ
シェアする前に考えよう
戦時のリーダー
有志連合
存亡の危機
大統領との接近
世の中のためになるもの
エピローグ ロングゲーム

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東京二期会オペラ劇場 タンホイザー(R.ワーグナー作曲/キース・ウォーナー演出/アクセル・コーバー指揮)

2024-03-09 08:48:13 | 演奏会・オペラ・バレエ(2012.8~)

1週間遅れの二期会オペラ〈タンホイザー〉の感想です。手短に。

初日だったこともあるのか、前半、安全運転っぽさを感じたけども、尻上がりに熱を帯びて、最終幕は大いに盛り上がった舞台となった。

今回の公演は好きなサイモン・モニール目当てだったが、1幕は彼にしてはかなり抑えた歌唱に聞こえ、「楽してね?」とややがっかり。だが、2,3幕と進むにつれて、本来の伸びがあって、清々しいテノールが聞かれた。特に第3幕の「ローマ語り」は気持ち入った熱唱で、ワールドクラスの実力を見せてくれた。

日本人歌手陣もそれぞれ安定したパフォーマンス。ただ、この楽劇のもつ濃さに対して、キャラ負けしているというか、目立たなく印象が薄いのが残念。

新国立劇場合唱団による合唱は、毎度のことだが、本当に美しい。このドラマ、合唱の美しさが相当大事だと思うので、貢献度大。

アクセル・コーバーさんは初めて聴く方だが、読響から緊張感あってドラマティックな音を引き出し、お見事。読響は、各パート活躍だったが、私にはオーボエのソロが胸に響いた(東京から移籍した荒木さん?)。

4階席からだと見切れてないところもあるが、演出は読み替えではないが、モダンで美しい舞台だった。冒頭、絵からダンサーたちが飛び出してくるような仕掛けは楽しめた。ダンサーさんたちの踊りや動きも、目茶、エロティックで艶めかしい。観ていてドキドキ。

聴衆は7割ぐらいの入りで、結構空席もあったが、終演後は大きな拍手とブラボー、ブラビーが舞い、気持ちよい観劇だった。

 

タンホイザー
オペラ全3幕
日本語字幕付原語(ドイツ語)上演

台本・作曲:リヒャルト・ワーグナー
(パリ版準拠(一部ドレスデン版を使用)にて上演)

公演日時:2024.02.28(水)   17:00開演
会場名: 東京文化会館 大ホール

指揮: アクセル・コーバー
演出: キース・ウォーナー
演出補: カタリーナ・カステニング
装置: ボリス・クドルチカ
衣裳: カスパー・グラーナー
照明: ジョン・ビショップ
振付: カール・アルフレッド・シュライナー
映像: ミコワイ・モレンダ
合唱指揮: 三澤洋史
音楽アシスタント: 石坂 宏
演出助手: 彌六
舞台監督: 幸泉浩司
公演監督: 佐々木典子
公演監督補: 大野徹也

0302(土)
Hermannヘルマン: 加藤宏隆
Tannhäuserタンホイザー:サイモン・オニール
Wolfram von Eschenbach ヴォルフラム:大沼 徹
Walther von der Vogelweideヴァルター :高野二郎
Biterolfビーテロルフ:近藤 圭
Heinrich der Schreiberハインリヒ:児玉和弘
Reinmar von Zweterラインマル:清水宏樹
Elisabethエリーザベト:渡邊仁美
Venusヴェーヌス:林 正子
Ein junger Hirt牧童:朝倉春菜
Vier Edelknaben 4人の小姓:本田ゆりこ、黒田詩織、実川裕紀、本多 都

Chorus 合唱:二期会合唱団
Orchestra管弦楽:読売日本交響楽団

Opera in three acts
Sung in the original (German) language with Japanese supertitles
Libretto and Music by RICHARD WAGNER
An original production of Opéra national du Rhin

WED. 28. 17:00 February 2024
at Tokyo Bunaka Kaikan (Japan)

Playing time: about 4hours
Conductor:        Axel KOBER
Stage Director:   Keith WARNER          
Revival Stage Director :          Katharina KASTENING
Set Designer:     Boris KUDLIČKA
Costume Designer:         Kaspar GLARNER
Lighting Designer:        John BISHOP
Choreographer:    Karl Alfred SCHREINER
Video Designer:   Mikołaj MOLENDA          

Chorus Master:    Hirofumi MISAWA
Musical Assistant:        Hiroshi ISHIZAKA
Assistant Stage Director:         Miroku
Stage Manager:    Hiroshi KOIZUMI
Production Director:      Noriko SASAKI
Assistant Production Director:    Tetsuya ONO

CAST
WED. 28. Feb. & SAT. 2. Mar.
Hermann: Hirotaka KATO
Tannhäuser: Simon O’NEILL
Wolfram von Eschenbach: Toru ONUMA
Walther von der Vogelweide: Jiro TAKANO
Biterolf: Kei KONDO     
Heinrich der Schreiber: Kazuhiro KODAMA
Reinmar von Zweter: Hiroki SHIMIZU
Elisabeth: Hitomi WATANABE      
Venus: Masako HAYASHI   
Ein junger Hirt: Haruna ASAKURA
Vier Edelknaben: Yuriko HONDA, Shiori KURODA, Yuki JITSUKAWA, Miyako HONDA,

Chorus: Nikikai Chorus Group
Orchestra: Yomiuri Nippon Symphony Orchestra

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東京マラソン2024 完走記(2/2)

2024-03-07 07:30:35 | ロードレース参戦 (in 欧州、日本)

【ハーフ〜30k地点】

22キロ地点での給水ポイントで、カロリーメイトゼリーを取る。初めて飲むゼリー。味は癖が無いのだが、密度が濃く結構ヘビーだったので、少しずつ飲んだ。ハーフを過ぎて、トイレをどうするか頭をよぎる。昨年の大阪マラソンで得た、使い捨てカイロを下腹部に入れてお腹を温めるやり方が功を奏してか、差し迫ったトイレ欲求は体から発せられていない。ただ、行けるときに言っておいた方が良いのか、せっかく順調なペースで来ているので、このモメンタムを止めたくないし・・・。(驚きなのだが、結局、このレースではトイレは行かずに済んだ)

清澄通りは3キロほどの真っすぐな道で、東京マラソンのコースの中では一番変化の乏しいパートになる。だが、門前仲町に近づくにつれて声援がどんどん大きくなる。応援の雰囲気も、人情味あふれて、やんちゃというか、下町っぽい地域性を感じる。走りながら、東京の街の雰囲気の違いを感じられるのも、このコースならではだ。


<富岡八幡宮前>

富岡八幡宮の前を折り返してしばらく行くと25キロ地点。沿道の応援が相変わらず凄い。応援メッセージを印したプラカードに「あと17キロしか走れないよ。楽しんで!」というメッセージが目に入る。そうだよね〜、こんな応援の中、走れるのは今日しかないんだから、あと17キロで終わっちゃうなんて勿体ないよね〜、と激しく同意する。フルマラソンのレースでそんな思いがよぎったのは初めてかも。


<24キロ地点前後で、3時間45分のペースランナーに抜かれる>

しばらく走ると、また違うプラカードが。「笑って!楽しんで!」。プラカードだけでなく、一人一人に「笑って〜」「口角上げて〜」と声をかけてくれる。「そんなに苦しそうに走っているのかな?」と思いつつ、ちょっと気持ち悪いが、笑い顔を無理やり作ってみる。不思議なことに、体から力が抜け、なんか走りやすくなった感じ。沿道の声援、ボランティアのサポートは涙が出るほどうれしい。

大きなマイルストーンである30k地点を目指し、淡々と走るが、段々と考える余裕も無くなってきた。(なので、この辺りから記憶が飛び始めている)無心に脚を前に出すだけ。30k地点の明治座前まで辿り着いた。ストップオッチのボタンタッチを間違えて5kラップタイムは分からなかったが、30k地点で2時間40分台であることは確認できた。さあ、残り12キロを1時間20分で走りきれる。本当のクライマックスの始まりだ。

【30k〜ゴール】

明治座から再び兜町、日本橋に戻り、いよいよ銀座の中央通りに突入。この銀座の目貫通りを独占して走れるというのは何とも贅沢。だが、32k地点を超え、練習でも走ってない距離のゾーンに入ると、いよいよ脚が動かなくなってきた。練習は正直である。最後のお札でもあるアミノ酸ゼリーをポケットから取り出し、流し込んだ。


<中央通り 日本橋>


<中央通り 銀座松屋近辺>

走っていて、ドイツ、アメリカ、メキシコ、ウクライナ、オランダ、韓国、中国、台湾・・・いろいろな国旗が目に入るのも東京マラソンならでは。日本橋か、銀座か忘れたが交差点の角で中国応援団が、六大学野球の応援団が掲げる団旗より大きいと思わせる国旗を振っていた。

34キロ地点で、銀座・有楽町から日比谷通りに入る。この辺りに家族の面々が居るはずだとキョロキョロ。すると丁度、横で「頑張れ〜」と家人から声をかけられた。気づくのが遅かったので、力なく手を上げて応えた。35kで5kラップが約29分。ついに1キロ5分30秒のペースを下回る。どんどん脚が重くなりペースが落ちていく。

内幸町、西新橋、御成門、大門、田町はマイエリアなのだが、もう思考力が無くなって、考えられなくなっている。東京タワーや増上寺の写真を撮る余裕もやる気も出てこない。とにかく脚釣りや痙攣が発症しないことだけを念じて、ただただ脚を前に出す。腿裏がちょっとぴくぴくし始めているのが気になる。

田町駅前で折り返して、日比谷通りを北上。恐れていたのは、試走の時に経験した強い北風。一番苦しいところで、向かい風を真正面から受けることになる。だが、この日はマラソンの神様が味方してくれた。風向きは南風の逆向きでむしろ追い風。これには助けられた。

40キロ地点での5キロのラップは遂に30分を超えた。急速な減速だ。想定内とはいえ、1キロ6分を超える大ペースダウンである。ただ、嬉しかったのは丁度40キロ地点を過ぎた日比谷公園沿いで、再び家族に遭遇し、声を掛けてもらい元気貰った。

残り1キロ、丸の内仲通りは割れんばかりの大声援がビルにこだまする。やっとゴールを計算できるところまできた安堵感と疲れと応援の興奮がミックスされて、脚は動かしているものの、全ての感覚が麻痺している。これまでのいくつもの大会でラスト200メートルで足の痙攣とかを経験しているので、最後の最後まで油断はできない。最後のコーナーを曲がって、御幸通りに入って、東京駅前を皇居に向かって、ゴール。時計を止めたら、3時間52分台。ポンコツGarminでは42.88キロも走っていることになっていた。700mも遠回りして走ってたんですかね・・・


<仲通り>


<ゴール寸前>

9年前の記録更新には5分弱足りなかったが、目標としたサブ4は達成。3時間55分を切るのも数年ぶりである。素敵なデザインのガウンを頂き、念願の完走メダルを首にかけてもらう。う〜ん、よく走った。結局、4時間ハイな状態なまま走り続けたので、自分でレース組立て、走った感覚は無く、無我夢中のまま終わってしまった。それだけ、東京マラソンの舞台は特別なのである。走る楽しさ、喜びをこれほど味わせてくれる大会はホントまれだ。


<東京駅をバックにゴール>

次回、東京マラソンに当選するのは、何年後になるのだろうか?これからも毎年、応募はつづけなきゃ。そんなことをぼんやりと考えながら、大手町の更衣室に向かった。

(おわり)

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柳家喬太郎 独演会

2024-03-07 05:43:45 | 落語

2034年3月6日

落語会

 

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東京マラソン2024 完走記(1/2)

2024-03-05 07:25:31 | ロードレース参戦 (in 欧州、日本)

9年ぶりの東京マラソン当選。あの絶えることない声援の中を走れる喜びを再び味わえる嬉しさとともに、あの中でベストなパフォーマンスが出せるよう、それなりに準備を重ねてきた。前回出走の時からコースが一部変更になったこともあり、コース試走も行い、距離感、高低差(ほとんどないけど)も頭に入っている。数日前からアルコール断ち、カフェイン断ち、カーボローディングも行い、とりあえずやるべきことはやったつもりで、いよいよ当日。

【スタートまで】

5時30分起床。朝食は味噌汁に切り餅を3つ入れて腹ごしらえ。7時20分には新宿駅到着。スタートエリアまで意外と距離があったが、ボランティアさんの案内が明確だったので、迷うことなく7時40分にゲートイン。もうずいぶんとランナーが集まっていた。高層ビルの谷間から見える空は雲一つない青空である。トイレを済ませ、駅で購入した赤飯おにぎり1個とエネルギーゼリーで最後の腹ごしらえ。軽くストレッチをして、8時20分ごろにはスタートエリアに並んだ。


<最高の青空 午前7時40分>

スタートは9時10分なので、時間はある。日陰に入ると冷え冷えするが、風がないので良い方だろう。周囲を見渡すと、外国人ランナーの多さが目立つ。プログラムによると1万人近くの外国人ランナーがエントリーしているようなので、4人に一人は外国人ランナーだ。世界6大大会制覇のゼッケンを背中に着けているツワモノもちらほらいる。


<スタートまでの待機が結構寒い>

私の集合エリアはDブロック。前方に位置しているためか、ぱっと見、鍛えてる感満載なランナーが多く、名物の仮装ランナーは殆どいない。だが、偶然、目の前に(顔被りしていて)年齢不詳の男性がピンクの忍者衣装で固めていたので、話しかけてみた。「この衣装、自前作成ですよね?本格的ですね。東京以外もこの衣装で走るんですか?」「自前って言ったって、かあちゃんが作るんだけどね。今年はピンクだけど、去年は赤の忍者衣装。ほら(と言って昨年の写真をスマフォで見せてくれた)。これで、台湾やアメリカでも走ったよ。カルフォルニアのレースの時には、頭巾は(顔分からないから)取れって言われちゃったよ。頭巾取ったら、忍者じゃないよね。しょうがないからキャップ被ったけどさ〜」。レース前のちょっとした会話を楽しんだ。


<忍者おじさん>

【スタート~10k地点】

いよいよ9時10分スタート。名物の桜吹雪は私がスタートラインに着く頃は終わっていたが、4分弱でスタートラインに到着し、マットを力強く踏み込んだ。昨年の大阪マラソンでは、ビル間を走るせいかスマートウオッチGarminの正確性がボロボロだったので、この日はGarminに加えて、ベルトがちょ切れたストップウオッチも懐中時計として持参。2つの時計のスタートボタンを押して、推定4時間の旅に出発。

 


<スタートの号砲なる!>


<さあ、いよいよ始まり、始まり・・・>

都庁を周回して、青梅街道から靖国通りに出る。左右の沿道から凄い声援を突き破るようにランナー集団が進んでいく。おー、これだ、東京マラソンって。と、9年ぶりの再体験に心身ともに舞い上がる。


<JRをくぐって新宿東口へ>

前半は水道橋まで緩やかなくだりが続く。ここで調子に乗ってはいけない。Garminが2k経過のアラームを教えてくれた。1kラップは5分5秒。「そんな早いわけないだろ」と時計相手に罵る。レースに設置された距離ボードを探すと、2km地点ははるか100mぐらい先。「やっぱり、都市型マラソンにGarminはポンコツだ。」と想定範囲内の事象を再確認し、Garminのモードを心拍数に切り替え、心拍計としてだけ使うことにした。

5キロ経過が懐中ストップウオッチで27分弱。キロ5分30秒ペース維持が目標なので、ちょうどいい感じ。ただ、スタート直後の興奮がまだ収まらない。心拍数が130を超えることもあり、何とか120台に落ちるよう深呼吸を重ねた。

靖国通り→市ヶ谷で外堀通り→水道橋で白山通りを走り、神保町に出て再び靖国通りに。須田町交差点を左折して、秋葉原を経由して上野に向かう。この辺りは馴染みの場所なので、安心感ある。10キロ地点は懐中時計で53分ちょっと。5キロラップも26分台で思惑通り。Garminと距離ボードの差はどんどん拡大し、200m以上開いている。


<靖国通り、神保町>


<中央通り 秋葉原>

 

【10k~ハーフ地点】

それにしてもこの途切れない応援は凄い。これも想定どおりだが、そのおかげでハイな精神状態が続いて、走っているのが自分であって自分で無いよう。これは吉と出るのか、凶と出るのか、この時点では分からない。

上野の鈴本演芸場あたりで折り返し、中央通りを戻る。昔の私のホームグランド神田を通って、日本橋へ。更に、水天宮を通って、浅草に向かう。15キロ地点で5キロラップ26分台。まだまだ上出来である。16キロ地点前後で、対向車線に29キロ地点の先頭グループとすれ違う。黒人選手団の桁違いのスピードと前傾姿勢の格好良さに面食らう。同じコースを走る同じ人間にはとても見えん・・・


<走りが違う対向車線のエリートランナー この方達でも第3か第4集団>

18キロ地点で浅草寺の雷門。ここはやっぱり絵になる。雷門を曲がると正面にスカイツリー。思わずカメラを向ける。

 

次は、折り返し地点の門前仲町を目指す。蔵前橋で隅田川を渡り、清澄通りを南下する。ここでハーフ地点。ポケットに入れたベルトの切れたストップウオッチは1時間52分前半。3分弱の貯金ができて、ちょっと安心。ここまでは順調。あとはカウントダウンだ。

(つづく)

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脇園 彩 メゾソプラノ・リサイタル @紀尾井町ホール

2024-03-03 07:06:14 | 演奏会・オペラ・バレエ(2012.8~)

脇園彩さんは、2020年に新国立劇場の<セビリアの理髪師>ロジーナ役を見て、歌唱はもちろんのこと、日本人離れしたステージでの華というか、オーラに引っ張り込まれました。個人的に最も注目している日本人歌手です。今回のリサイタルは、1月の小堀勇介さんとのデュオ・リサイタルに続く、ソロのリサイタルでとっても楽しみにしていました。しかもプログラムはオール・ロッシーニ。なかなか、こんなプログラムを組める日本人歌手はいないと思います。

2時間たっぷりと、脇園さんのメゾ・ソプラノを楽しみました。張りのある美声は、声質・声量ともに素晴らしく、聞き惚れます。声楽の技法には全く疎いですが、あの豊かな、変化ある表現はきっと高度なテクニックにも支えられているのでしょう。

目を閉じて、その美声を味わいたいとも思うのですが、それだと彼女のもう一つの魅力が味わえません。表情や所作が大きな魅力です。ピアノ一台と譜面台ぐらいしかステージ上にはありませんが、脇園さんの演技は、そんなシンプルな板の間に、造形物が置かれて舞台設定がされているかのような想像を掻き立てられるほどの表現力に満ちています。伸びやかな動き、目力あふれる表情、彩ワールドはいつも輝いています。

プログラムの中では、「オテッロ」からの“柳の歌〜祈り”が特に胸打たれました。他の作品に比べ、作品(戯曲)についてそれなりに前知識があるのもあったかもしれませんが、しっとりとした歌唱が死を予感するデスデモーナの気持ちが表現され、涙。

今回、ピアノ伴奏のミケーレ・デリーアさんの存在感も光りました。脇園さんとぴったりと息を合わせつつ、ロッシーニの軽快だったり、哀しかったりする音楽を活き活きと演奏。途中、脇園さんが袖に入った暫くの間を使って、ロッシーニ・メドレー(きっと)演奏を聴かせてもらったのも楽しめました。

アンコールは3曲もサービス。「セビリアの理髪師」から〈今の歌声は〉が入っていたのは嬉しかった。

脇園さんの活動のベースはイタリアに置かれ、欧州の様々な歌劇場に出演しているようです。ストレスやプレッシャーも並大抵では無いとは思いますが、脇園さんには是非、今後も世界の舞台で活躍して欲しいです。サッカーの三苫選手のように、こんな歌手が日本発でいるんだというところを示してくれれば、日本の一ファンとして嬉しいです。いつか、彼女の海外の舞台を観てみたい。そして、こうして年に1度ぐらい日本公演をお願いできれば最高です。

初めて訪れた紀尾井ホールも立派なホールで驚きでした。優雅なホールで、上質の時間を過ごした、充実の金曜夜となりました。

 

脇園 彩 メゾソプラノ・リサイタル
2024年3月1日(金) 開演:19時
紀尾井ホール

出演者
脇園 彩(M-Sop),ミケーレ・デリーア(Pf)

曲目
ロッシーニ:歌劇「湖上の美人」より“おお暁の光よ”,ひどい女,吟遊詩人,
歌劇「イングランドの女王エリザベッタ」より“私の心にどれほど喜ばしいことか”,
約束,誘い,
歌劇「湖上の美人」より“胸の想いは満ち溢れ”,
歌劇「ビアンカとファッリエーロ」より“アドリアのために剣を取るなら”,
歌劇「オテッロ」より“柳の歌〜祈り”,
「老いの過ち」第9巻より“我が最期の旅のための行進曲と思い出”(pソロ),
歌劇「マホメット2世」より“神よこの危機のさなかに”,
歌劇「ビアンカとファッリエーロ」より“お前は知らぬ、どんなにひどい打撃を”

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