先日、出かけた「十二夜」の予習として読みました。小田島雄志さんの訳です。物語の展開の面白さ、リズム感の良さは抜群です。
ただ、今回の私的な未体験ゾーンは、その後、原書を図書館で借りて読んだこと。小田島さんの日本語訳の面白さに感心していて、これは原書では何んと書いてあるのだろうと関心を持ったのがきっかけです。 (正直、今回読んだのが、どこまで当時のオリジナルなのか、それとも英語の現代語訳なのかはわかりません。ただ、見たことのない、単語も沢山あったので、きっと当時のものかと推定)
そしたら、超~びっくりの発見が二つ。
まず、最初。全然、原文にはない、台詞が入っているではありませんか!!!!!
例えば、
第1幕第3場冒頭
小田島訳:
マライヤ 「それより、ねえ、サー・トービー、毎晩もっと早くお帰りにならなけれは。あなたの姪のお嬢様も、あんまり遅いんでご機嫌が悪いわよ」
トービー 「こっちはキリスト紀元以来のいい機嫌なんだ、いい加減にしろといいたいな」
原書:
Maria "By my troth, Sir Toby, you must come in earlier o’nights: your cousin, my lady, takes great exceptions to your ill hours.”
Sir Toby “Why, let her except before excepted”
どこに「こっちはキリスト紀元以来のいい機嫌なんだ」という文があるのだろうか?でも、この訳はとってもおもしろいです。
こういうことが、いろんなところに散見されます。これは、訳なのだろうか?とまで思ってしまうところもあります。
ただ、双方とも、言葉の持つリズム、言葉遊びの面白さ(英語のほうはどこまで分かっているか不明ですが・・・)は、共通です。英文学を少しでもかじったことのある人には常識なのかもしれませんが、きっと小田島さんの訳は、原文には無い台詞を作ってまでも、この脚本の持つリズムや面白さを大切にしたのだと思います。
今回の2つ目の発見は、日本語訳は話は良く分かるし、面白いですのが、やっぱり原語の持つリズムというのは、独特のものがあるということ。
正直、今回は流し読みです。見たこともない単語もあるし、単語は全部わかっても意味の分からん台詞もたくさんあるしで、とても胸張って、原書を読みましたといえる代物ではありません。ただ、そんな読み方でも、語感やリズム感というのは感じられるものという、面白さでした。やっぱりイタリアオペラは英語ではなくて、イタリア語で聞かないと駄目というのと同じかもしれません。きっと、翻訳というのは、もちろんそれにより、大いに我々は恩恵に預かっているにしても、一定の制約が課せられているのだということを、実感しました。
例えば、第1幕第一場の冒頭
DUKE “If music be the food of love, play on,
Give me excess of it; that, surfeiting,
The appetite may sicken, and so die.
That strain again – it had a dying fall.
……..”
侯爵 「音楽が恋の糧であるなら、つづけてくれ
食傷するまで聞けば、さすがの恋も飽きがきて、
その食欲も病みおとろえ、やがては消えるかもしれぬ。
・・・」
素晴らしい和訳だと思います。でも、やっぱり原文とは、ちょっと違う。
そんな違いを少し感じ取れたのが、驚きとともにちょっと嬉しかったです。