司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 25 中国・閩の道』★★
http://publications.asahi.com/kaidou/25/index.shtml
都内19日連続の雨。。
「暑い夏は嫌い」って言ったこと撤回!
晴れた青空に入道雲な暑い夏が恋しい。
来週から晴れるとは言っているけど・・
さてまた中国
福建省・・と言えば烏龍茶
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福建省というのは、中国でもいわば田舎のような省である。ながく、「閩」という地域名でよばれてきた。 というコトバの意味はわからないが、華北や華中の先進地帯からみればどこか草深くて異風なイメージを帯びていた。孔子(紀元前五五一~四七九)の時代には、中華のなかに入っておらず、後漢のときにできた辞書『説文解字』にも、 とは「東南越」とあって、いわゆる百越のあつかいになっている。おそらく、揚子江からインドシナ半島にまでおよぶ「インドシナ諸族」の一派の住むところだったのであろう。
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「日本人というのは、変だなあ。なぜシルクロードが好きなんですか」
と、中国人からきかれたことがある。
「中国人にとって、どういうイメージがありますか」
「単に田舎です」
“シルクロード”の時代、むろん英語は地球上の小さな部分で使われていることばにすぎなかった。「絹の道」といえば事足りるその歴史的概念を、わざわざ英国のコトバでいう必要もないのだが、そういう言い方が国語として定着するあたりにも、日本人の好みがひそんでいるtごいえなくない。
私どもは東西文明の交渉史を詩的に感ずる気分がつよい。その「気分」に適合させるためにも、名前は外国語であるほうがいいということであるらしい。
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私は、樟を見るのが、胸が痛むほどすきである。つややかな皮革質の葉に陽が照るとき、光が葉ごとに踊ってこぼれているようで、見ていると心まであかるくなる。暖地を好むため日本では九州に多く、西日本がこれに次ぐが、東日本はすくない。ただ、東京だけは例外である。宮城前広場には、自生ではないながら――冬は幹に保温用の縄が巻かれるという保護をうけつつ――さかんな樹勢を保っている。
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家が低湿地にある場合、狭い小庭であっても、そこに小さな池を深めに掘る。そうすれば、池のまわりの土がかわき、家の中の湿気も払うことができるのである。
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都市というのは、その市民が多少は背のびをしているようでなければ、都市文化は向上しないのである。日本でいえば東京や京都にいい意味の気どりがあり、大阪にはそれがすくない。仙台、金沢にはあるが、名古屋や広島はどうだろう。神戸には別趣の都市気分がある。
――上海人の都会人的な気どりは、上海の半植民地時代の名残りにすぎない。
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焼畑というのは、原始農業である。
日本でも縄文末期の粗放な農耕時代には一般におこなわれてきたとされるし、いまでも東南アジアではごくふつうにおこなわれていて、さかんに森林を破壊している。
まことにたけだけしいもので、原野や山林に火を放つ。草も木も焼きはらい、その灰だけを肥料に、ヒエやソバ、アワ、大豆、麦、ときに陸稲をまく。施肥もせず、土壌づくりをすることもない。大地は数年で地力がおとろえ、稔らなくなる。
ひとびとは、他へ移り、そこを焼く。数年もしくは十数年経ってもとの地力が回復すると、もどってきて、また焼く。大地から奪うのみで、土壌を育てることをしないという点で、典型的な略奪農業である。
さらには、火を用いるということで、原始的ながらも、工学的な農業といえなくもない。
私どもの遠い先祖の自然とのかかわり方は、破壊して奪うということだった。その昔は、人は少なく、自然は豊富だったから、このように地を火攻めにするようなことをしてもかまわなかった。ただ、人間が自然に対し、知恵という牙をむいて大規模に食いちらかすという、他の動物にはない本性があらわれるのは、焼畑の段階からだったともいえる。
焼畑には、当然ながら弊害が多い。山が森をうしなって保水能力がなくなり、洪水や山くずれの原因の一つになる。むろん、山火事のおそれも大きい。
これをくりかえすと、大地は荒廃して、ついには草も生えなくなるという。
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風景画に川か湖沼があれば心がなごむように、水景というのはわれわれの原始的な感情につよいかかわりを持っているようだった。
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福建省は山狭の多い省だけに、名だたる茶どころなのである。
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そうそう!
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天目はまことに華麗である。
私は、かつて藤田美術館でみた「曜変天目」のうつくしさがわすれられない。曜変だけでなく、油滴も美しく、べっこうのぬめりと光沢をもつ玳皮盞(たいひさん)もよく、灰被の天目もいい。それらの実物もいいが、しかし私どもが多く接するのは写真版である。茶碗は写真でみると拍子ぬけするものだが、曜変や油滴だけはむしろ写真のほうが映える。
「曜変や油滴のいいものはみな日本にあります」
曜変というのは希少なものなのである。もともと曜変(燿変)は窯変とも書かれるように偶然の火のいたずらによってできるもので、意図してつくられることはなかったし、できもしなかった。
偶然それができれば、窯の管理者は、
「これは日本にゆくのだ」
と、いったはずである。すべて日本に輸出された。
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アツク語る天目について見てみたくなった↓
またまた中華街へ・・(笑)
景徳鎮かと思いきやちがうみたい・・
四川じゃなかったのかな?
路地裏の緑 2F 黒い坦々麺